第千九百九十話 竜と人(九)
赤子は、ユフィーリアと名付けた。
名付けたのは、無論、ラムレスだ。
ユフィーリアとは、竜の言葉で白い花を意味する。ユフィーが白、リアが花だ。
なぜそのような名をつけたのかは、少し成長した赤子を見れば一目瞭然だ。北の大地に生まれた人間特有の白い肌に白金色の頭髪を持つその姿は、“竜の巣”に咲いた白い花のようであり、竜たちのだれもがそう褒めそやしたからだ。ラムレスはその評判を自分のことのように嬉しく想うとともに、赤子の名をそこから取った。
“竜の巣”の白い花は、日々、成長している。
赤子が成長するに連れ、その生命力と純粋さに惹かれるものが増えていったのだ。一部は、いまもなお人間を受け入れることを拒絶していたが、多くは、ラムレスの考えに従い、やがてラムレス以上にのめり込むものが現れ始めていた。
ユフィーリアより数年前に生まれたばかりの仔竜は、それまで最年少だったが、ユフィーリアが“竜の巣”に来たことで自分より年下の子供ができたことに喜び、まるで姉のように接した。青い鱗の仔竜。名をサイファリアといった。こちらは蒼い花を意味し、同じ花を意味する名をつけられたことで、彼女はさらにユフィーリアを溺愛するようになった。
竜の成長というのは、人間に比べるときわめて遅いといっていい。
人間が五十年も生きれば老人と呼ばれるが、竜は五十年生きても若造であり、青年期を迎えてさえいないといってもよかった。つまり、ユフィーリアよりも数年先に生まれたはずのサイファリアは、すぐさまユフィーリアに成長速度で置いていかれることになったのだが、彼女は、いつまで経っても姉としての立場を譲らなかったし、ユフィーリアもそんな彼女を姉として慕った。
ユフィーリアの成長は、数多の仔竜や竜たちに見守られる中で健やかに積み重ねられていった。
竜に囲まれて育ったユフィーリアは、みずからもまた、竜であると信じていた。必然だ。彼女が親であると認識したラムレスが竜であり、彼女が家族であると認識したものたちもまた、いずれもが竜だったのだ。人間と竜の差異を知らない、それどころかあらゆる物事を知らない無垢な赤子には、”竜の巣”の光景こそが天地のすべてであり、世界そのものといっても過言ではなかったに違いない。
彼女が最初に目にしたものは、ラムレスだった。ラムレスを親と認識するようになったのは、その影響も大いにあるだろうし、彼がだれよりも彼女のことを考え、健気といっていいほどに手をかけていることを肌で感じ取ったからだろうか。
親であるラムレスが竜であるということは、自分もまた竜なのだろう。そうに違いない。赤子の思考回路は単純であり、そこに疑念を挟む余地はない。たとえその肉体に大きな違いがあったとしても、そんなことは些細な問題にもならない。
”竜の巣”は、黒峰連山と人間によって名付けられた峻険に囲まれた竜の楽園だ。黒峰連山の峻険に魔力を染み込ませることで協力無比な結界を構築しており、人間のみならず、皇魔や他の竜属の立ち入りも禁じられている。ラムレスの眷属とその庇護下にある動植物たちの楽園というに相応しく、生まれたばかりの赤子を育てる環境としては、決して悪くなかった。
北の大地特有の寒さも竜には無縁のものであったが、黒峰連山が壁となって冷風の進入を阻んでくれていることもあり、ほかの地域に比べれば過ごしやすいほうだ。そのことは、ラムレスも眷属たちも気にしたことはなかったが、ユフィーリアを迎え入れたことで考え方を変えなければならなくなった。
人間は気温の変化に決して強い生き物とはいえない。
特にユフィーリアは、人間として育てられているわけではなく、当初は衣服もなかった。竜には、衣服を身につけるという習慣がなければ、必要もないからだ。強靱な肉体はちょっとやそっとのことでは傷つくこともなく、気温変化にも強い。膨大な生命力は、多少傷ついた程度で失われるものではないし、自然に身に付く魔法によって傷を癒すこともできる。万物の霊長の所以がそこにあるといっていいだろう。
竜属の中には宝石の美しさに魅入られ、宝飾品の類を身につけるものもいないわけではない。しかし、竜属にとってそういう趣味以外でなにかを身につけることは臆病もののすることであるといわれ、素のままの肉体をこそ誇るべきであるという考えが一般的だ。
ラムレスもその眷属も例外ではない。
道徳教育を施された人間のように素肌を曝すことになんの抵抗もなければ、そこに疑問を抱くこともない。故にユフィーリアが裸でいることに何の不都合も感じなかったのだが、彼女が成長するに連れ、裸のままではいけないということに気づく。
ユフィーリアは、みずからを竜だと信じている。いつかラムレスやサイファリアのようになれるものだと信じこんでいたし、そのことを否定するようなものは、彼の眷属にはいなかった。ラムレスでさえ、否定せず、ただ見守った。
ユフィーリアは、サイファリアをはじめとする子竜たちとともに健やかに育った。育っていく中で、子竜たちが自由自在に飛び回る様を見ては羨ましく想ったのだろう。彼女は、羽もないのに飛ぼうとしては怪我をした。怪我をしても、彼女は決して泣かなかった。泣けば、彼女の世話係やサイファリアに迷惑がかかるからだ。彼女の怪我を防げなかったことへの責任追及が苛烈だった。ラムレスは、自分でも理解できないくらいにユフィーリアを過保護に扱っていたからだ。
ユフィーリアは、ラムレスを怒らせまいと必死だったのだ。無論、自分のためではない。サイファリアや周囲の竜たちのためだった。彼女が家族想いに育ったのは、ひとえに周囲の子竜や竜たちのおかげだろう。ラムレスは、彼女のためになにかをしてやれた記憶がない。そして、彼女が家族想いに育てば、”竜の巣”の竜たちもまた、彼女を大切にするようになっていった。
ラムレス以外の眷属は皆、家族想いなのだ。ラムレスという暴君が頂点に君臨しているからこそ、下のものたちは深い絆で結ばれているのだ、とはケナンユースナルの言葉だが、その通りなのだろう。
累を及ばせないために怪我を隠し、それでも飛ぶことを諦めきれないユフィーリアは、それから何度となく怪我をした。そのことを知ったラムレスは、初めてユフィーリアを叱るとともに、彼女が人間というか弱い生き物であるということを改めて認識した。人間は、ちょっとした高さから落下しただけで大けがをするし、打ち所によっては死ぬこともある。ユフィーリアは、自分が竜だと思いこんでいるから、子竜たちと同じように飛べるものだと信じ、無謀なる挑戦を続けるのだが、このままではいつか命を失うことになりかねないのではないか。
ラムレスは初めて危機感を抱くと、彼女のために衣服を編んだ。
魔法による衣服の作成は、複雑かつ精緻な魔力制御を必要とし、大雑把な攻撃魔法ばかり得意としてきた彼には困難を極めるものだった。しかし、こればかりは眷属たちの力を借りることはできない、と、彼は昼夜を徹して衣服の作成に没頭した。ユフィーリアが彼の翼を布団に眠っているときも、寝相の悪さ故に転がり落ち、危うく地面に激突しそうになったのを防ぎながらも、彼は衣服作成のための魔力制御に苦心していた。
竜は、生来、魔法を使う。
先天的な技能であり、能力なのだ。
他の生物が呼吸するのと同じくらいの容易さで、彼らは魔法を使う。
しかし、だからといって魔法を完璧に使いこなせるかどうかというとまったく別の話であり、生来の力にものをいわせるだけの竜と、魔法の研究に余念のない竜とでは、同じ魔法を使ったとしてもその威力、精度は段違いといってよかった。故に魔法研究家として名高い竜は、数多くの竜より尊敬のまなざしを集め、師弟関係を結ぶものも少なくはない。
ラムレスは、生来、類稀な、それこそほかに類を見ないほどに莫大な魔力を持って生まれている。生まれ落ちた瞬間、その産声で世界を切り裂いたほどの魔力の持ち主である彼は、生まれついて並ぶもののいないほどの魔力制御も持ち合わせていた。しかし、その魔力制御というのは主に戦闘に用いられるものであったものの、竜属のような大型の対象を破壊するだけでなく、竜にとってはそれこそ砂粒ほどの存在である羽虫を軽くいなすくらいは易々とできた。
だが、その莫大な魔力をもって人間の、それも幼児のための衣服を編み上げるといったことは、彼の数億年に渡る生涯の中で始めてのことであり、彼は様々な素材を用いた衣服の作成に挑んでは、魔力の制御に失敗し、無数の失敗作を完成させた。そのたびに寝ているユフィーリアに被せてみるのだが、記憶にある人間の衣服には似てもにつかぬものばかりであり、彼は己の不器用さに愕然としたものだった。
ラムレスが、数え切れない失敗を繰り返した末、ユフィーリアのための衣服を完成させることができたのは、彼が彼女を死せる母胎よりすくい上げ、みずからの娘とすることを決めてからちょうど五年目の日のことだった。
竜は、人間のように誕生した日を祝うことがない。
竜の文化と人間の文化の違いだ。竜は、短い時の中でしか生きられない人間とは違う。何百年、何千年もの時を生きてこそようやく一人前といわれるほどだ。人間が老境に入る五、六十年程度では、若造も若造なのだ。
時間の感覚が違うといってもいい。
何千年もの歳月を生きる竜には、一年など短い期間に過ぎず、その程度の期間を生きたからといって祝福するのは侮辱にも等しい。竜は、それほどか弱い存在ではないのだ。
だが、しかし、”竜の巣”は、ユフィーリアを家族として、同胞として迎え入れてからというもの、その文化に大きな変化が起きようとしていた。
ユフィーリアの誕生日を祝うということは、人間の文化を取り入れるということにほかならない。衣服にしてもそうだが、竜が人間の文化を取り入れることなど本来あるべきことではなかったし、ユフィーリアという稀有な存在がなければ、決して受け入れられることもなかっただろう。ユフィーリアが皆に愛され、特別尊重されているからこその現象といってよかった。
ラムレスが苦心苦闘の末に編み上げた特別製の衣服は、そんなユフィーリアの誕生日に披露され、彼から彼女に直接渡された。
ユフィーリアは目を丸くし、ただただ驚いた。そもそも、竜として育っている真っ只中の彼女にとって、人間の文化ともいうべき衣服の存在など理解できるものではなかったからだ。
ラムレスは、龍の鱗や皮を大量に織り込んだ衣服を着せてやるとともに、それが彼女の柔らかすぎる肌を護るためのものであり、また、仔竜らとともに遊ぶ上で必要不可欠なものであると説いた。ユフィーリアは、ラムレスの説明を聞くと、自分に他の竜たちのような強靭な外皮や鱗が生えていないのは、衣服を与えられていなかったからだと理解し、納得したようだった。そして、ラムレスに心よりの感謝をすると、その日からというものお礼のためにサイファリアたち仔竜とともになにやら画策し始めたのだった。
ラムレスは、“竜の巣”全域の情報を知ることができる。
つまり、これまでユフィーリアが怪我をした際の原因も余すところなく知っていたし、彼女の世話係の竜やサイファリアたち仔竜の責任を追求することもできたのだが、彼らを庇うユフィーリアの手前、見逃すこととした。家族想いのユフィーリアの気持ちを踏みにじりたくなかったからだ。
そして、さらに彼は、ユフィーリアたちの画策についても、極力情報を仕入れまいとした。ユフィーリアのことは見守りたい。が、ユフィーリアが自分のためにしてくれていることを知れば、楽しみがなくなる。板挟みといってもいいような感情の中で、彼は、ユフィーリアのことは仔竜や世話係に任せ、みずからは彼女の無事を祈ることとした。
そんなある日、ラムレスが目を覚ますと、彼の体に変化が起きていた。
決して大きな変化ではないが、その変化は、彼には予想外のことであり、ユフィーリアたちの仕業であることは明らかだった。
彼の頭上に草花で編まれた冠が乗せられていたのだ。
竜の鏡と名付けた湖の表面に映る己の姿を見たラムレスは、しばし、呆然としたものだった。膨大な量の草花によって編み込まれた冠は、蒼衣の狂王と恐れられ、忌避される竜王には似つかわしくないだろう。しかし、ユフィーリアと仔竜たちがラムレスへの感謝の気持ちとして作り込んでくれたのであろうそれを似合わないという理由だけで捨てる気にはなれず、彼は、眷属の竜たちに笑われる覚悟で被り続けた。
『ラムレス=リアボラールとでも名乗りますか?』
ケナンユースナルの皮肉とも取れる一言に笑みを浮かべたのは、それも悪くないと想ったからだ。
らむれす=リアボラールは、竜語で、花冠の狂王ということになる。蒼い衣から、花の冠へ。悪くない。むしろ、狂王に相応しい名前かもしれない。
そう想えたのは、そんなラムレスの姿を満足気に見やる娘の姿を目の当たりにしたからだろう。
そのころには、彼の生活の中心には、ユフィーリアがあった。