第百九十八話 無血開城
「開門ですと!?」
会議室に響き渡ったのは、第五龍鱗軍の副将フォード=ウォーンの叫び声だった。
第一から第七まである龍鱗軍は、大体千人単位で構成されている。千人の頂点には翼将がおり、そのすぐ下には副将がつけられるが、副将の人数は翼将の権限によって決めることができた。とはいえ、副将が多すぎても意味がなく、大抵、ひとりかふたりで収まるものだ。ハーレン=ケノックを翼将とする第五龍鱗軍の副将も、フォード=ウォーンひとりだ。副将。副翼将ともいう。
ハーレンは、副将の怒声に眉を顰めたが、怒鳴り返すようなことはしなかった。翼将に就任して半年、彼らの心を掌握しきれていないというのはわかりすぎるくらいにわかっている。そのために兵士の人望も厚いエイス=カザーンなどという人物を使ってもいるのだ。その結果は中々出てこないものの、エイスのおかげで無駄な軋轢は生まれずに済んでいる。フォードのような頭の硬い人間ともそれなりに上手くやってこられたのは、エイスがいたからこそだ。
そのエイスは、会議室の長い机の片隅に座り、こちらを見ていた。太く長い眉に隠れたような眼が、鈍く光っているように見えるのだが、だからどうということもない。ハーレンには、彼を恐れる道理がなかった。副将もだ。この場に居合わせた部隊長たちが見せた表情にも、ハーレンはなんら怖じることはなかった。間違ったことは、なにひとついっていない。
「そうだ。これよりマルウェールの南門を開放する。全軍、別命あるまで待機せよ」
「どういうつもりなのです! 敵を市街に引き入れるつもりですか! それではまるで、降伏するようなものではないですか!」
「籠城したところで、援軍は来るか?」
「援軍を待ち、それまで耐え抜くとおっしゃられたのは、翼将殿ではなかったですかな?」
エイスが口を開くと、会議室が水を打ったように静かになった。ついさっきまで、ハーレンに飛びかかってくるかの勢いで捲し立ててきていたフォードすら、エイスの発言を邪魔しないように黙り込んだ。それこそ、エイスの人望であり、影響力の強さだ。
エイスは、長い間、第五龍鱗軍の翼将としてマルウェールに君臨してきたのだ。半年前に赴任してきたハーレンが敵う相手ではない。もっとも、ハーレンも彼と敵対するつもりはない。彼の信望は、利用することができる。彼を説き伏せさえすれば、兵士たちも納得せざるをえないのだ。そして、説得できるという自信もあった。
「冷静に考えて、わかったのです。龍府がマルウェールに援軍を寄越すことはない、と」
「龍府がマルウェールを見捨てるというのですか?」
「考えても見てください。ガンディア軍は三方向に分かれて、ザルワーンの各地に侵攻しています。ザルワーンの総力は一万八千といわれ、ガンディア・ログナーの総兵力を大きく上回っているものの、兵力が各地に分散したままでは各個撃破されるのが目に見えている。ならば、兵力を一箇所に集中して決戦を行うほうがまだしも勝ち目がある」
ハーレンは、無意識に説明しながら、自分のいったことに納得していた。そうなのだ。各都市に駐屯している龍鱗軍や龍牙軍を一軍として纏め、対抗すれば、ガンディア軍などあっけなく蹴散らせるはずなのだ。広大なザルワーンの大地に展開する一万八千の軍勢を脳裏に描き、彼は、勝利を確信した。しかし、エイスにはいまひとつ伝わらなかったようだ。彼は渋い顔をしている。
「それと、援軍の有無にどういう関係があるというのですか? 兵力を集中するとしても、マルウェールを見捨てる必要はありませんが」
「都市のひとつやふたつ、ガンディアにくれてやっても構わないと考えていたら?」
「龍府が、そのように考えると?」
「たとえマルウェールが落とされたとしても、長い目で見れば、一時的なものに過ぎませんよ。ザルワーンの総力が、ガンディア軍本隊を殲滅すれば、占領状態を維持できるはずもない。彼らは、絶望的な包囲網の中、国に帰るか、投降するかの選択を迫られるというわけです」
「つまり、彼らに降伏を偽るというわけですか?」
「まともに戦ったところで、数で押され、負けるのは明白ですからね。無駄な血を流すのは、翼将としては認めがたい」
「……それならば、籠城で耐え、勝報を待つという手もありなのでは?」
フォードが、ようやく冷静さを取り戻したのか、幾分落ち着いた声で尋ねてきた。
「それも考えたが、敵に武装召喚師がいるという情報が入った」
武装召喚師の一言で、会議室がざわついた。ガンディアの武装召喚師といえば、黒き矛のセツナという印象があるのだろう。黒き矛のセツナの戦果は、話半分に聞いても凄まじいものがあり、敵に回したくないというのはごく自然な感情だった。ハーレンとてそうだ。ああいう規格外の化け物と戦うのは、魔龍窟の武装召喚師にこそ相応しい。
もっとも、その魔龍窟の武装召喚師ランカイン=ビューネルが負けた相手なのだが。
「情報? さっきのカイル=ヒドラですか?」
「ああ。彼がもたらした情報のおかげで、わたしは方針を変える決意がついたのだよ。ガンディア軍の内情も把握できた。そして、こちらには人質がいる。人質がいる限り、ガンディア軍が我々に手荒な真似をすることはない」
「要人とやらですな」
「そうですよ、エイス殿。我々はガンディアに対する切り札を持っている。なにも恐れることはない。ザルワーンの勝利を信じるのならば、ここは降伏を偽るというわたしの策に従ってもらいたい」
「ふむ……偽計ならば、それもありですな」
なにやら意味深長なエイスのつぶやきを聞きながら、ハーレンは会議室を見回した。副将フォード=ウォーンにせよ、各部隊長にせよ、反論はあるのだろうが、なにも言い出せないという表情だった。エイスが認めてしまったことが、彼らの発言を抑止しているのだろう。ハーレンは、勝ったと思った。これでいいのだ。これで、ウルからの命令を果たすことができる。
ほっとするとともに、彼はエイスを見た。兵士たちの人望も厚い老将は、ひとり思案している様子だった。この計画をぶち壊すような良からぬことでも企んでいるのかもしれない。ハーレンは、釘を差しておくべきだろうと思った。
「エイス殿」
「なんですかな?」
「余計なことはなさらぬよう、お願いしますよ」
「わかっておりますとも。わたしとて、血を見るのは苦手ですからな」
笑いながら席を立った老人の目が異様に光っていたのを、ハーレンは見逃さなかった。といって、なにができるわけでもない。ハーレンは、副将や部隊長に再度命令を下すと、会議室を後にした。
「まどろっこしいことするのね。あくびが出ちゃう」
などといいながら本当にあくびを漏らす女とともに、カイン=ヴィーヴルは、塔の窓辺に立っていた。マルウェールの中心に聳える通称・司令塔。その中階には翼将の執務室だけがあり、彼はウルとともに翼将ハーレン=ケノックの帰還を待っていたのだ。
大きな窓からは、マルウェールの市街がよく見えた。最上階ならばもっと遠くまで見渡せたのだろうが、中階からでも広い範囲を見下ろすことができる。閑散とした町並みをザルワーンの兵士たちが整然と歩いているのがわかる。
「これも左眼将軍の望みだからな」
「わたしの望みよりも、将軍の望みを優先するのね」
「優先順位を決めたのはおまえだろう」
「そうなのよね。後悔しているわ」
ウルは嘆息したようだったが、本当のところはよくわからない。他人の感情など推し量るすべもない。ましてや彼女はカインの実質的な支配者なのだ。支配者が被支配物に心の中を覗かせるわけもない。それに、カインにはウルがどうしたいかなど興味がなかった。彼が興味を持っているのは、この戦争の行方であり、セツナという少年の行き着く先のことだけだ。
カインの策謀は、特に問題もなく上手くいってしまった。カイル=ヒドラの名で警戒されるかと思いきや、あっさりと対面できてしまった。こちらとしてはありがたいことだが、不用心には違いない。とはいえ、無駄な警戒されても面倒が増えただけのことだ。ハーレン=ケノックが過去の呪縛から逃れられない限り、上手くいく策だったのだ。
ハーレンは、ウルによって精神を制圧され、支配下に置かれた。彼はもはやウルの操り人形も同じであり、その事実に違和感も抱いていないだろう。カインと同じだ。支配されたことを認識しながらも、抗う気も起きない。支配者への絶対の忠誠を矯正されているにもかかわらず、それが当然のものとして受け入れている。カインが処刑されなかったのは、彼女という存在があったからだ。ウルがいて、支配の力があったからだ。
どんな凶悪な殺戮者であろうと従順な走狗へと変えてしまう異能。
恐ろしい能力だが、欠点があった。
支配可能な人数が有限なのだ。それでも最大十人の人間を同時に支配できるというのだが、カインのような強烈な自我を持つ人間を支配するには、数人分の支配力を駆使しなければならないらしい。カインの支配を解き放てば、また最大数支配可能なのだが、カインを解放するには危険が大きすぎる。カインはガンディアに牙を剥くだろう。カイン自身、それは理解できた。レオンガンドやウルを殺そうとするはずだ。そして、セツナに殺される。そういう未来が見える。
それもまた、一興ではある。
が、ガンディアの現状を考えれば、カインは支配しておくに越したことはないのだ。カインはただひとりで有能な武装召喚師であるのは間違いない。雑兵十人分以上の実力はあるし、これまでの戦果も、十人力というものでもない。セツナの活躍の影に隠れてはいるが。
(それでいいのさ)
セツナが輝けば輝くほど、カインのような闇のものは活動しやすくもなる。影の濃さは、光の強さに比例するものだ。
「それで、これからどうするの?」
「さあな。龍鱗軍の出方次第だ。大人しく開城し、こちらに従うか。それとも、耐え切れず、攻撃してくるか」
カインはそう答えたものの、問題は起きないだろうと思っていた。半年前に就任したとはいえ、翼将の命令は絶対なのだ。たとえそれが敵軍に降るという選択であっても、副将や部隊長が抗するとは考えにくい。もちろん、ハーレンの人望がきわめて低いというのなら話は別だが。
「耐え切れず?」
「戦いもせず降伏するという選択を、受け入れられない連中もいるということだ」
「わたしとしては後者を期待するしかないわね」
「ガンディア軍に被害が出るぞ?」
「なにか問題があるのかしら」
ウルは不思議そうにいってきたが、ガンディアの人間が聞けば卒倒するような言葉かもしれない。ガンディアの中枢に関わる人物の発言とも思えないが、彼女の過去を知れば、そういう考えに至るのも納得できる話だ。外法機関によって人生を破壊された女にとって、ガンディアの人間もザルワーンの人間も、等しく敵なのかもしれない。
それでも彼女はレオンガンドに付き従うことを辞めようとはしない。それが復讐に繋がるのだ、という。復讐。なにに対して復讐しようというのか。キース=レルガを死に追いやった状況への復讐なのだとしたら、レオンガンドもその標的に入っているのだろうか。
「遅いわね、彼」
「命令するだけでは収まらなかったか」
カインは、窓の向こうに広がる快晴の空に背を向けると、執務室の出入口に向かった。ウルはなにもいわずついてくる。彼女の手首は既に解放してあった。ハーレンが支配できた以上、ガンディアの要人を演じる必要はないのだ。
途中、机の上に置いていた仮面を拾い、被り直す。まさかランカイン=ビューネルの顔を知っているものがこのマルウェールにいるとも思えないのだが、念のため、隠しておいたほうがいい。それに、ガンディア軍との合流も近い。ガンディア軍の中には、ランカインを知るものがいても不思議ではない。いや、可能性は限りなく低いのだが。
カランを炎の海で包んだランカインという男を見たのは、カランの街に住人であり、警備隊の人間なのだ。軍人とは遭遇した記憶はない。ランカインを取り調べるような連中が、この戦いに従軍しているはずもない。仮面を外していても、だれも気づきはしないのだろう。だが、彼は、このザルワーンの地で素顔を晒していたいとも思わなかった。
苦痛がある。
ランカイン=ビューネルとカイン=ヴィーヴル。
彼を構成するふたつの名前。
ひとつは、ビューネル家の人間であり、魔龍窟の武装召喚師たる大量殺人者。ひとつは、レオンガンド・レイ=ガンディアに忠誠を誓う走狗。当初はひとつだったものが、いつからかふたつに分かれ、彼の意識の奥底でのたうち回っていた。どちらが本当の自分で、どちらが偽物の自分なのか。どちらも本物で、どちらも偽物なのか。
彼は、仮面を外した瞬間、ランカインとしての自分を認識することがあった。とっくに死んだはずの男だ。セツナに討たれ、極刑に処されて死ぬべきさだめの男。もはや過去の亡霊となったそれが、時折、嘲笑うように現れるのだ。闘争と殺戮を望む狂気の声が聞こえるのだ。
それに従うことができれば、楽だろう。
狂気の赴くまま、本能の望むままに戦い、殺し、死ぬ。
きわめて単純で、わかりやすい生き方だ。
そうあれればよかったのだが。
カインが考え事をしていると、不意に執務室の扉が開き、ハーレン=ケノックが入ってきた。ひたいに汗をかいているところを見ると、階段を急いで登ってきたのかもしれない。
彼は、ウルの前まで駆け寄ると、傅いた。
「ご命令通り、開城し、降伏する手筈は整いました」
「そう。それじゃあ、ガンディア軍を迎え入れる準備をしましょう」
ウルもウルで、慈母のような表情でハーレンの報告を聞き入れると、優しく彼の手を取った。ハーレンが、うっとりとした目でウルを仰ぐ。心を支配され尽くした人間の末路を見ているのだと、カインは思った。自分も、レオンガンドの前ではあのような表情をしているのかもしれない。ぞっとしないではないが、かといって、なにができるわけもない。
「はい。では、こちらへ」
恭しく先導するハーレンの姿は、カインとの会見時よりも生き生きしているように見えたのも錯覚ではあるまい。
支配は、絶対的だ。