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第千九百八十七話 竜と人(六)


 ラムレス=サイファ・ドラース。

 竜の言葉で、蒼衣の狂王を意味し、彼の偉大さと恐ろしいばかりの所業を示す上でこれ以上ないくらいの命名であると、竜どもは考えていた。

 かつて、ラムレスは数度、己が眷属を滅ぼしている。

 まさに狂王と呼ぶに相応しい所業はいまもなお語り継がれ、眷属たちに畏怖を与えるとともに揺るぎなき忠誠心を植え付けることに成功していた。もっとも、そのようなもののために眷属を滅ぼしたわけではない。彼の在り様を否定するものたちを眷属と認める必要はない。ただそれだけのことだった。

 蒼衣とは、数万年の長きに渡って鍛え上げられた彼の偉大な肉体を包み込む蒼き鱗のことを指している。美しい蒼き鱗に覆われる巨躯は、さながら蒼き衣を纏っているように見えなくもないからだ。

 緑衣の女皇と呼ばれる竜王も、銀衣の法王と呼ばれる竜王も、由来は同じだ。ラグナシア=エルム・ドラースは緑の鱗に覆われ、ラングウィン=シルフェ・ドラースは銀の鱗に覆われている。

 竜どもの命名というのは、わかりやすいくらいに単純だった。

 しかし、だからこそ、彼はそれでいいと考えていた。名前は、単純でわかりやすいほうがいい。そのほうが覚えやすく、忘れにくくなるからだ。

 そうして、数万年――いや、数億年もの歳月を生きてきた。

 何度となく生と死を繰り返しながら、竜王の一柱として君臨してきたのだ。

 三界の竜王と呼ばれる。

 世界を三分する竜の王だから、三界の竜王。

 秩序と維持を司る銀衣の法王ラングウィン=シルフェ・ドラース。

 自由と調和を司る緑衣の女皇ラグナシア=エルム・ドラース。

 そして、破壊と混沌を司る、蒼衣の狂王ラムレス=サイファ・ドラース。

 原初よりイルス・ヴァレに君臨し続けていた三柱の竜王、その中でもっとも凶悪で狂暴と恐れられるのが彼だった。

 彼には、数多の眷属がいる。最盛期には数万もの翼が彼に従い、三界の竜王の中で最大勢力を誇ったこともあった。それがいまではラングウィンとは比べ物にならないほどの数に落ち込んでいるものの、依然、彼に従う竜は多い。

 それら数多の眷属とともに、彼は北の大地を住処としていた。

 ラングウィンが作った“竜の庭”とラムレスの“竜の巣”は、イルス・ヴァレでも最大級の竜属の住処だった。どちらにも数多の竜が生息しているという点では同じであり、竜王を中心にして頂点として擁するという点でも同じだ。ひとつだけ違いがあるとすれば、人間を許容するかどうか、というところだろう。

 ラングウィンは、慈悲深い竜王だった。竜でありながら、他の動植物に対し憐れみを以て接し、救いを求めるものに手を差し伸べることを厭わなかった。そのせいで数多くの争いが起きたため、一時期、ラムレスはラングウィンに自重するよう求めたものだ。ラングウィンの見境のない救いの手が人間を含めた諸族の争いの火種となったこと、数多あったからだ。あるときを境に、諸族の問題への介入は止め、静観するようになったものの、いまもなお“竜の庭”への保護を求める人間は快く受け入れているため、竜教徒の楽園の如くなっている。

 対し、ラムレスは、真逆といっていい態度を貫いていた。彼を信仰する竜教徒の人間が助けを求めてこようと黙殺し、無視した。その結果、竜教徒が死のうとも関係がないからだ。彼は竜であり、人間ではない。人間同士の争いに関与する理由などあろうはずもないのだ。それでも彼への信仰が途切れることなく続いているのは、ひとえにこの世界において竜の信仰が根深いことと、彼の目を逃れて、人間どもに力を貸す眷属がいるからにほかならない。

“竜の巣”に棲む彼の眷属たちは、皆、彼に絶対の忠誠を誓い、彼を裏切ることがない。彼を絶対の王として仰ぎ、彼の命令には一も二もなく従った。死ねといえば死に、生きよといえばなんとしてでも生き延びる。それが“竜の巣”の唯一の法といってもよかった。しかし、中には良かれと想い、彼に代わって人間に力を貸すものがいる。ラムレスはそういった勝手は気に入らなかったが、それがラムレスのためというのであれば、ただ叱るだけで、それ以上はなにもいわなかった。

“竜の巣”には、法などあってないようなものだ。

 想うままに生き、想うままに死ねばいい。

 それが竜の竜たる所以なのだ。

 竜とは、この世界の意志の発現といってもいいのだから。

 当然、“竜の巣”には人間はいない。竜教徒の人間が近づくことも許してはいないし、不用意に近づくものには警告し、警告を無視すれば容赦なく殺した。いくら彼を信仰するものたちとて、彼の安息を破るものを許しはしないのだ。故に、彼の寝所たる“竜の巣”には、何人も近寄らなかった。

 人間が煩わしい問題を持ち込んでこない日々というのは、安寧そのものだ。

 彼は、静寂を好む。

 破壊と混沌を司る、などといわれるが、それは彼の本質の一部を言い表しているに過ぎない。本質でいえば、秩序と維持を司るラングウィンや自由と調和と司るラグナシアのほうが暴力的かつ破壊的に違いない。ラングウィンもラグナシアもそれぞれ一度以上、大陸を海中に沈めている。その点、ラムレスは眷属を皆殺しにした程度で、彼女たちほどの損害をもたらしたことはないはずだ。

 なぜならば、彼は、だれにも煩わされず、ただ日を浴び、風を感じる時間を尊ぶからだ。その時間はなによりも、この世のどのようなことよりも素晴らしいものである、と、彼は想っていた。

 それと出逢うまでは。

 彼がそれと遭遇したのは、大陸が沈黙を保ちながらも、常に燻り続ける火種によって多種多様な小競り合いを繰り返している時期のことだ。

 北の大地は、ヴァシュタリア共同体によって仮初の統一がなされてから数百年が経ち、その圧倒的な支配力によってもたらされる秩序と平穏は、ラムレスとその眷属たちにもある種の恩恵をもたらしたことは疑うまでもない。至高神ヴァシュタラなるどこからともなく現れた神を信仰するものどもによって、竜教徒が異端者、異教徒として駆逐され、排除されたからだ。竜教徒の大半が死ぬと、生き残ったものたちはヴァシュタラ教に改宗するか、ラングウィンの元を頼った。ラムレスに頼ったところで護ってくれはしないからだが、その判断は何ひとつ間違ってはいない。ラングウィンは、“竜の庭”を開き、逃げ込む竜教徒たちを迎え入れると、それら脆弱な人間たちの盾となったが、ラムレスは、むしろ“竜の巣”を閉ざし、だれひとり立ち入ることのできないようにした。人間同士のくだらぬ争いに巻き込まれたくないという意志がそこにも現れている。

 それから数百年余りが経過すると、北の大地において竜教徒は絶滅に近い状態になっていた。当然だろう。どれだけ息を潜め、隠れていようと、ヴァシュタラ教会の苛烈を極める異端者探しの前では意味を成さなかった。

 数百年、隠れ続けることができたとすれば、それは幸運以外のなにものでもなく、奇跡とさえいっていいのだろう。

 そして、そのような奇跡を起こした村が現実に存在したというのだから、驚かざるをえない。

 もっとも、その数百年に渡る奇跡も、小さな告発によって水の泡となったのだが。

“竜の巣”の南で、それは起きた。

 ヴァシュタラ教会において異端者、異教徒の撲滅を司る護法騎士団が、小さな村を襲ったのだ。村は、ヴァシュタラ教会に改宗した元竜教徒たちの住む村であり、元竜教徒たちは、ラムレスへの信仰を捨てきれず、密やかに続けていたという。

 その話を聞いたとき、ラムレスは人間どもの愚かしさに顔をしかめたものだ。神の教えをありがたがるものどもが一方的に竜を信仰するものどもを排除する。いかにも愚かで、いかにも馬鹿げた人間らしい争い。

《偉大なる父よ、どうされるおつもりです?》

《どうする?》

 彼は、“竜の巣”を囲う峻険の向こう側に昇る黒煙を見遣りながら、眷属の言葉に目を細めた。

《どうするとは、なんだ。我はなにもせぬ。人間同士の争いに干渉するなど、無益なことよ》

 なんの意味もない。

 彼は吐き捨て、瞼を下ろした。

 人間同士の争いに関わる必要など、あろうはずもない。竜は竜であり、人間は人間なのだ。それぞれの領分、生き方というものがある。愚かな争いをするのが人間の在り様というのであれば、好きにさせればいい。その結果、どれだけの血が流れようとも知ったことではなかったし、最終的に繰り返すことになったとしても、彼としてはどうでもいいことだった。

 何度となく繰り返してきたことだ。

 何度となく。

 それこそ、あきれるくらい何度も。

 だから、なのかもしれない。

 彼は突如として、下ろした瞼を開け、驚く眷属を尻目に翼を広げた。

《父よ、どこへ……》

 疑問に答えることもなく、彼は“竜の巣”を発った。幾重もの魔法防壁を張り巡らされた住処を抜け出すと、すぐ南から黒煙が上がっているのが見えた。村人ひとり逃さないため、火を用い、焼き払ったのだろう。既に村を襲った護法騎士団の姿はなく、彼が降り立ったころにはだれひとり生存者はいなかった。

《助けるつもりならば、もっと早く動くべきたったのでは……》

《愚かな》

 ついてきた眷属の不用意な発言を一蹴すると、彼は、焼き払われた村の有り様に顔を顰めた。何度となく見た光景だ。数億年に渡る転生の記憶は、数え切れないほどの戦火を彼の脳裏に焼き付けている。無意味で、有益な戦いなどいくつあっただろうか。数える程もないのではないか。もしかすると、人間のすべての戦いに意味などないのではないか。彼の尺度からすれば、そうならざるをえない。

 殺された人間たちの亡骸をひとつひとつ、彼は見た。異端者を滅ぼすためだけに鍛え上げられた騎士たちの技は、ただ無垢なまでの純粋さで彼への信仰を止めなかったものたちを確実に死に至らしめており、無意味に傷つけられているものはいなかった。いや、殺害そのものに意味などあるまいが。

 そうして彼は村を後にしようとしたとき、その視界に動くものを見た。振り返り、見遣った先にあるのは人間の女の亡骸だった。胸を貫かれ、即死している。気のせいだろう。死体が動くことなど、そうあることではない。少なくとも、人間がそのような技を用いることはできまい。そして、異端者の死体を動かすような趣味が教会の人間にあるはずもない。火の揺らめきが影を動かし、そのせいで動いたように見えただけだ。

(本当にそうか?)

 彼は、疑念を抱く。

 彼は、偉大な竜だ。この世でもっとも強大な力を持つ生命体であり、万物の霊長の名をほしいままにする竜属の頂点に君臨している。それほどの力を持ち、優れた動体視力を誇る彼の目が、火の揺らめき如きに錯覚を覚えるものだろうか。

 彼は、女の亡骸を見た。

 そして、膨れ上がった腹がわずかに動いたのを目の当たりにしたとき、彼は、無意識に動いていた。



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