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第千九百八十六話 竜と人(五)

《ユフィーリア……!》

 ラムレスは、ひたすらに吼えた。咆哮に魔力を乗せ、数万年の長きに渡って己の肉体に蓄えられ続けてきた力のすべてを解き放ち、己が肉体そのものを魔法へと転化させていく。莫大な、それこそ世界を変質させうるほどの力でもって、己の世界そのものを変容させるのだ。

《我が聲を聞け! 聞くのだ!》

 竜の咆哮は、それそのものが術式となって世界に影響を及ぼす。竜語魔法と呼ばれるのがそれだ。彼は、持ちうる力の限りを竜語魔法として解き放つべく、ひたすらに吼えた。吼えながら、海面へと吸い込まれるように落ちていくユフィーリアに呼びかけ続けることを忘れない。神威に毒され、別種の存在への変容を始めた彼女には、普通の声は届かないだろう。視覚、嗅覚、聴覚、触覚――ありとあらゆる感覚が人間の、いや、この世界の生物のそれとは異なるものへと変わっていく、その真っ只中なのだ。彼の慟哭も、届かない。

 だからこそ、彼は聲を叩きつけるのだ。

 肉声ではなく、相手の意識に直接響く力ある聲を叩きつけるのだ。

 もはや、彼の頭の中には、クオンも女神もなかった。あるのは目の前の娘だけだ。最愛の娘だけが、彼の意識を塗り潰している。

《ユフィーリア! 我が娘よ!》

 彼は、絶叫する。そして、あふれんばかりの魔力でもって変容を始めた肉体を加速させるべく、無数に増大した翼で空を叩いた。急激な加速。一瞬にして、ユフィーリアの元へと辿り着く。肉体の八割ほどが白化し、異形化した彼女は、変容の激痛に悶え苦しみ、未だ人間のままの左手を天に伸ばしていた。天に、空から降ってきた父に。

《ただひとり、我が人間の娘よ!》

 彼は何度となく叫びながら、その無数の翼と膨大な魔力で彼女を包み込んだ。重力から切り離し、落下を防ぐ。だが、それだけでは、彼女を救ったことにはならない。竜の魔力で包み込んだからといって、白化症の進行を食い止められはしないのだ。変容は変わらず進んでいて、むしろ加速しているような気配さえあった。苦悶に満ちた声が聞こえる。神威は、神以外の生物にとって凄まじい毒だ。別種の存在へと変容させるほどのそれが想像を絶するほどの痛みをもたらすことは、考えずともわかることだ。ユフィーリアは、そんな痛みの中でもがき苦しんでいる。自分が別種の存在に成り果てる恐怖と戦い続けている。にも関わらず、ラムレスにはなにもできない。ただ、愛娘がもがき苦しむ様を見届けることしかできないのだ。これほどの苦痛、これほどの絶望がこれまであっただろうか。

 あるわけがない。

 何万、何億という歳月を過ごしてきた彼にとって、それは初めての絶望といってもよかった。

 今日このときに至るまで、大切に、それこそ、眷属の竜どもが呆れるくらい愛情を注いできた娘が、神の毒に侵され、為す術もなく変容していく様を見届けなければならないのだ。これ以上の絶望、これ以上の苦痛を彼は感じたこともなかった。

 そもそも、彼は、世界の管理者であって、当事者ではなかった。世界がどのようになろうと知ったことではなかったし、そこに生きるものたちがもがき苦しむ様を見ても、なにを思うことがあるというのか。彼は超越者であり、絶対者だ。神に等しい。生きとし生けるものたちが彼をして神と崇め奉ったのも、当然のことであり、必然とさえいえた。神たるものが、人々の生死に一喜一憂するだろうか。人間がどうなろうと、それ以外の動植物が生きようが死のうが関係がないのだ。

 最初からそうだった。

 彼は、彼に救いを求めながら目の前で息絶えるものを何度も見てきた。そのたびに彼はいった。なぜ、救わなければならないのか、と。なぜ、おまえたちのような身勝手な生き物に救いの手を差し伸べてやらなければならないのか、と。彼にとって、人間とはそのような生き物だった。欲深で身勝手で、いざとなればみずからの誇りを捨てることになんの躊躇もない、惨めで哀れな生き物。そう認識していたし、その認識を改めたことはない。

 ただ、人間の中にもクオンのようなものがいて、そういった高潔な魂を持ったものであれば、対等に接するのも悪くないという考えを持っているだけのことだ。

 それも、彼女あってこそのことだろう。

 もし、ラムレスがユフィーリアと出逢わず、その純粋無垢な魂の成長を見守らなければ、クオンと交流することさえなかったに違いない。

 ユフィーリア。

 彼は叫ぶ。何度となく、娘の名を呼ぶ。呼びかけ続けることに意味があるはずもない。ユフィーリアの右半身はほぼ完全に異形化し、白化した肉体は、さらなる変化を遂げ、人外の怪物になろうとしている真っ只中だ。神威を、神の毒を取り除くことは、竜語魔法を以てしても不可能なことだった。神威は肉体のみならず、その精神の、魂の形さえも変容させる。肉体だけならば元に戻すことは可能だ。だが、精神の、魂の領域にまで魔法の力を及ぼすことは困難を極めた。 

 蒼衣の狂王と呼ばれ、三界の竜王の一柱たるラムレスの力でもってしても、彼女の肉体を蹂躙する神の力を取り除くことはできない。神威に触れる以前ならば――と、彼は痛恨の想いで双眸を見開く。ユフィーリアが変容していくというのになにもできないというこの絶望的な現実から、目をそらしてはならない。こうなったのは、すべて己の失態なのだ。もし、あのとき、彼がユフィーリアから目を離さず、彼女を護るためだけにすべての力を用いていれば、こうはならなかった。彼女を女神の攻撃から護ることができたはずであり、彼女が白化症を患うこともなかったはずだ。その結果、ラムレス自身が痛手を負ったとしてもだ。

 娘を護ることはできた。

「ラ……」

 半ばまで白化したユフィーリアの口がわずかに動き、声が聞こえた。肉体のみならず、精神、魂の領域まで神の毒に侵されながら、なおも片方の目でこちらを見つめ、必死になってなにかを訴えようとするユフィーリアの姿に心打たれるしかなかった。

「ラム……レス……すま……な――」

《なぜ謝る、ユフィーリア!》

 彼は、絶叫した。

《おまえがなぜ謝らねばならぬ! 謝らなければならぬのは、我の方だ。我がおまえを護ってやれなかったばかりに、苦しいおもいをさせてしまった……! すべては我の落ち度……! 我が失態! おまえのせいではない……決して、おまえのせいでは……!》

 違う、違うのだと彼は叫び、咆哮を続ける。竜王の力のすべてを解き放ち、ただひたすらに叫び続ける。世界にどのような影響を及ぼそうとも関係がなかった。その結果、天変地異が起き、天地が割れ、世界が壊れようとも知ったことではなかった。

 クオンに逢わせたのも、ラムレスだ。

 クオンに逢わせたがために、こうなったのだ。

 彼女がクオンを知らなければ、彼女が、友を得なければ、こうはならなかった。

 半身が完全に白化し、異形化したユフィーリアの苦痛に歪む顔を見つめ、彼は懊悩する。このままでは、彼女は散々苦しんだ後、完全に神の尖兵と化すだけだ。彼の敵となり、対峙のときを迎えるだろう。このままでは、このままでは。

《おお……ユフィーリア……我が娘よ……!》

 ラムレスは、ひたすらに叫び、声に魔力を乗せ続けた。それによって彼の全身の魔法化が加速度的に進行していくのだが、彼は一切気にしなかった。むしろ望むところだといわんばかりに魔力を拡散させ、全身に染み込ませていく。もはや彼の肉体のほとんどすべてが魔力となり、魔法となり、周囲の世界そのものに物凄まじい影響を与える存在へと変容していく。

 竜王が数万年に渡って蓄積してきた力だけではない。

 この五百年あまり、聖皇によって封印され、“大破壊”とともに解き放たれた力もまた、召喚している。

 イルス・ヴァレの管理者たる三界の竜王の力がいまここに顕現するのだ。

 それもこれも、ただひとりの娘を想うあまりであり、彼は、自分がなにをしているのかさえ、考えられなくなっていた。

 彼の意識を埋め尽くすのはいままさに激痛に苦しみながら変容を続ける愛娘であり、その娘との邂逅と成長の記憶だった。

 

 


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