第千九百八十五話 竜と人(四)
それが起きたのは、飛翔船の甲板上に女神が姿を見せた瞬間だった。
空間転移の前触れを認識するなり大きく、およそ人知を越えた速度と脚力でもって飛び退いたはずのユフィーリアの長身を金色の光が貫いたのだ。いくら竜に鍛えられ、竜の呼吸によって身体能力を厳戒以上に引き出すことのできるユフィーリアとはいえ、光を越える速度など出せるはずもない。結果を見れば当然のことなのだが、だからといって許容できることではなく、彼は、光の源に現れたものを見た。
慈愛の女神イルトリが、そこにある。
美しく神々しい衣を纏い、まばゆいばかりの光背と、いくつもの腕を生やした女神は、その絶世の美貌といっても過言ではない美しさでもって、ユフィーリアを見ていた。その視線の先、ユフィーリアは黄金色の光に包まれている。
「ユフィ……!?」
「ユフィーリア様」
ミズトリスとファルネリアが駆け寄るも、神の力に拘束されたユフィーリアには触れることもできず、立ち往生するしかなかった。ウェゼルニルが、拳を震わせながら、イルトリを睨めつける。彼にも、ユフィーリアへの仲間意識があるのだ。《白き盾》の元同志なのだ。そういう反応を示して、当然のことだった。
「てめえ、ユフィーリアになにをした?」
《なにを驚くことがある。すべてはこのときのため。我らが主の夢を妨げうる存在には、この世から退場願うよりほかあるまい?》
「それがユフィーリアだと?」
ウェゼルニルの問いに、イルトリが残念そうな表情をする。
《汝はもう少し頭を使うことを覚えたほうがいい。血の昇った頭では、冷静に考えることもままならんだろうが……》
ユフィーリアの全身がまばゆい光に包まれたまま、空中高く浮かび上がっていく。イルトリがその強大な神の力によって操っているのだ。やがてユフィーリアの体は、彼女が開けた天蓋の穴を抜け、飛翔船の遥か上空へと至る。ラムレスが、ついに動きを止めた。イルトリが憐憫に満ちた目で、ラムレスを見ていた。
《我らが主の最大の障害となりうるは、この世の神なるもの。原初よりこのイルス・ヴァレを管理し、破壊と創造を繰り返してきた大いなる存在。三界の竜王を除いてほかにはあるまい》
ラムレスの咆哮が上空に轟く。ユフィーリアの状態を目の当たりにしたからだろう。彼の怒り、苦しみは、ヴィシュタルがこれまで感じたこともないほどに深く、烈しく、狂おしいほどのものだった。咆哮とともに吹き荒れる魔力が物凄まじい奔流となって大気を動かし、魔法の嵐が巻き起こる。飛翔船が激しく揺れ動き、甲板上のヴィシュタルたちは、吹き飛ばされないように踏ん張るのに必死にならなければならなかった。
《そして三界の竜王の一柱たるラムレスの唯一にして最大の弱点が、そこな娘よ》
《貴様……!》
血を吐くような想いの叫びが、ラムレスの意識から伝わってくる。
《ははは、図星のようだな、蒼き狂王よ! その名に似合わぬ愛の果てがこれよ! このざまよ!》
イルトリは、ラムレスを嘲笑いながらも同時に大いに憐れんでいた。同情し、救いの手を差し伸ばさんとするかのようだった。だが、そういった反応が竜王の反発を買い、怒りをさらに激しく、凶悪なものへと増幅させていくのはだれの目にも明らかだ。しかし、イルトリは、止めない。むしろ、ラムレスの怒りを増幅させるだけ増幅させることこそが目的であるかのように、慈悲深いまなざしを向け続ける。そして、神経を逆撫でにするのだ。
《そなたの愛娘には、我が純粋な神威を注ぎ込んでやったぞ。その意味がわからぬそなたではあるまい。三界の竜王よ。古の破壊神よ。混沌の覇王よ》
《おおおおおおおおおおおおおおおっ!》
竜王の咆哮が魔法を発現させる。竜語魔法。神の御業に等しいそれは、まばゆい光となってユフィーリアを包み込み、彼の元へと引き寄せようとする。だが。
《無駄よ、無駄。そなたがどれだけ強大無比な魔法を用いようとも、そなたの娘は救われぬ。我が神威に順応し、そなたらが神人と呼ぶ神の徒と化すのみよ。そしてそうなれば、そのものは我が尖兵となり、そなたの敵となるのだ》
竜を憐れむ女神の聲が夕闇の空に響き渡る中、荒れ狂う莫大な魔力が飛翔船を激しく揺らした。何度も、何度も。
そうするうち、飛翔船とラムレスの距離は離れていった。ラムレスの咆哮が聞こえなくなるほどの距離まで離れると、竜王の魔法の影響も受けなくなった。竜語魔法は、その咆哮が届く範囲に効果を及ぼす。絶大な威力を誇る竜語魔法の唯一といっていい欠点かもしれない。もっとも、咆哮の届かない距離にまで攻撃する必要など、本来あるはずもないため、欠点という欠点でもなかった。万能に近い力でもある。叫ぶだけで様々な現象を引き起こせるのだから、十分すぎるくらいに強力であり、そんな力を持ったものがこの世界の支配者として君臨していなかったことは不思議だった。
女神イルトリは、ラムレスにユフィーリアを突きつけただけで、それ以上のことはしなかった。その行動に一体どのような意味があり、意図があるのか、ヴィシュタルには皆目見当もつかない。
「イルトリ……あなたは……」
なにがしたいのか。
クオンの質問に対し、女神はいつになく哀れみに満ちたまなざしを向けてきた。慈悲を求めるものたちの願いによって顕現したのであろう女神は、誰に対しても同様に慈悲深く、情け深い。それが多くの人間の救いになっていることも事実だが、同時にそのことが反発を生むこともある。
《我は、我らが主がために最善を尽くしたのだ。そこに問題があるというのか?》
「……ユフィーリアも、ラムレスも、ともに来てくれるかもしれなかった」
《己が信じてもいないことで、他者を騙せるなどとは考えるべきではないぞ。特に我のような神には。そなたの考える事、手に取るようにわかる》
イルトリの黄金色に輝く双眸を見つめながら、ヴィシュタルはそれ以上なにもいわなかった。いえば、女神の言を肯定することになりかねない。たとえその場しのぎの嘘であっても、認めなければ、嘘にはならない。
確かに女神のいうとおりだ。
彼は、ラムレスとユフィーリアが自分の元に来てくれるなど露程も想ってはいなかった。来てくれたほうが困惑するといってもいい。同志意識を持ってくれていたユフィーリアはまだしも、ラムレスはありえないだろうし、あってはならない。彼は、この世界の意志といっても過言ではなかった。
三界の竜王。
神無きイルス・ヴァレにおいては、神に等しい存在であった三柱の竜は、幾度となく生死を繰り返しながら、この世界を見守り続けてきたのだ。
そんな存在が、ヴィシュタルのようなものたちを認めるはずもなかった。
ヴィシュタルたちのような夢の名残のような化け物たちを、認めるわけにはいかないはずだ。
《だが、そなたの夢はかなわぬ。そなたらは、夢の残滓に過ぎぬ。夢の残滓の成れの果てが、いまのそなたらよ。塵芥と違わぬそなたらの夢が叶うなどと微塵にも思わぬことだ》
いや。
と、彼は胸中で首を横に振る。
確かに、夢は破れた。
夢は、終わった。
彼の夢は、叶うこともないまま、破壊の奔流の中で消えてなくなった。
彼の命の火もまた消えてなくなり、そのまま滅び、輪廻の環からも外されるはずだった。
(けれど、ぼくらはいま、ここにいる)
もはや人間とはいえないものへと成り果て、夢を追うことも許されぬ身へと堕ちた。が、しかし、ここにいるのだ。いて、意志を持っている。
意志ある限り、諦めてはならない。
諦めれば、それで終わりだ。
しかし、諦めない限り、終わりはないのだ。
(そうだろう、セツナ)
彼は、脳裏に焼き付いた親友の姿に語りかけ、そして再び、ラムレスのいるはずの方向に視線を向けた。
ふたりを護ることも許されない立場へと堕したいま、もはや振り返ることなど許されるはずもないのだが。
それでも、ヴィシュタルはふたりが無事に生き延びられることを望んだ。望み、祈るよりほかなかった。それが主への明確な裏切りであったとしても、それだけは譲れないことだ。
そこを譲れば、なんのために転生したのか、わからなくなる。




