第千九百八十四話 竜と人(三)
「クオン!」
方舟の甲板に着地するなり、彼女は、脇目もふらず目的の人物に駆け寄った。
純白の鎧に身を包んだ白髪の青年。その少しばかり驚いたような顔は、記憶の中の彼そのものであり、彼女は懐かしさと嬉しさのあまり、視界が滲むのを認めざるを得なかった。彼は、軽く右手を上げてくる。
「やあ、ユフィ」
「やあ、じゃない! 生きていたんだな?」
ユフィーリアは、クオンのあまりの軽さにむしろ憤りを覚えずにはいられなかった。ずっと、死んだものだと想っていた。“大破壊”の中心で消息を絶ち、連絡も取れないまま月日ばかりが流れたのだ。得られる情報は絶望的なものばかりであり、“大破壊”の中心に至っては近づくこともできない状況だった。そんな状況で、クオンが生き延びているとは考えにくかったのだ。
ラムレスが方舟にクオンのにおいを感じ取らなければ、ユフィーリアは絶望の縁に沈んでいたかもしれない。
「本当に、生きていた……生きていたんだ」
「ユフィ……君こそ、よく生きていてくれたね」
「あ、当たり前だ。わたしはラムレスの娘だぞ、あの偉大なるラムレスのな。たとえ世界が壊れ果てても、死ぬものか」
「そうだね。君とラムレスなら、生きていてくれると信じていたよ」
「わたしも、信じていたんだからな」
「ありがとう」
クオンがなぜだか照れくさそうに感謝の言葉を述べてくるのが、不思議でならなかった。
「相変わらずにぎやかな女だな」
「そうですね、なんだかわたくしたちまで嬉しくなってしまいますわ」
どこか鬱陶しそうな女の声と、それとは真逆に歓迎するかのような明るい声には、聞き覚えがあった。
「その声……まさか」
ユフィーリアは、声の主を見遣り、白い全身鎧に身を包んだ二名がクオンの両脇に並び立つようにしている様を見て、まるでかつて見た光景をそのまま見ているかのような錯覚を抱いた。いつだってそうだった。彼女がクオンに近づくと、ふたりの女性が彼の左右に現れるのだ。イリスとマナ=エリクシア。忘れもしない。まるでクオンをユフィーリアに取られまいとするのに必死なようでいて、それがなんとも的外れで、同時に可憐にも想えたのは、結局のところ、ユフィーリアにクオンへの恋愛感情など一切存在しなかったからだ。
あるのは仲間意識であり、同族意識というべきものだろう。
クオンには、自分に近いものを感じた。
偉大なる父が認めた数少ない人間がクオンなのだ。そのクオンとの交流の中で、ユフィーリアが自分に似たなにかを感じるのは必然だったのかもしれない。だから、彼女はクオンの友として、知人として、仲間として、並び立とうと想った。彼の力となり、翼となり、彼の夢、彼の望みをともに叶えようと考えていたのだ。
その夢は道半ばで終わったかと想った。
だが、違う。
夢はまだ、続いている。
なぜならば彼がそこにいて、彼の輩たちもそこにいるのだ。
「そのまさかさ」
野暮ったい男の声もまた、聞き知ったものだった。ユフィーリアと手合わせし、一瞬でいなされることがどうにも信じられないと、何度となく挑戦してきた男。名も覚えている。ウォルド=マスティア。《白き盾》において、クオンの片腕という位置づけだった。
ミルレーナやグラハムの姿は見えないが、クオン率いる《白き盾》の幹部たちの大半が、方舟の甲板上にいた。その事実はユフィーリアを激しく興奮させ、昂揚感が彼女の意識を包み込んでいた。方舟の周囲を飛び回りながら、女神と激闘を繰り広げるラムレスのことさえ忘れかけるほどに、だ。
「皆、生きていたんだな。良かった……!」
「良かった……か」
「なんだ?」
「いや、なんでもねえ。こっちのことだ」
ウォルドは素顔を見せないまま、外方を向いた。昔からそうだったが、彼が一番とっつきにくかった。イリスとマナは、まだいいほうだ。クオンの話題を触れば、すぐに飛びついてくるし、疑問にも素直に答えてくれた。グラハムは実直な人物だったし、ミルレーナはユフィーリアを可愛がってくれたものだ。ウォルドは、最後までユフィーリアのことが信用できなかったのだろう。警戒心がいつだって先に立っていた。クオンの片腕たるもの、それくらいでなければならないということでもあるが。
「変な奴だな」
ユフィーリアが素直な感想を漏らすと、イリスが横から口を挟んできた。
「気にするな。いつものことだろう」
「そういえば、そうだ」
「納得するのかよ」
さすがのウォルドもその評価には反論のひとつもしたいようだった。マナが笑う。いつものように。
「うふふ……まるであの頃のようですわね」
「ああ……本当に。しかし」
クオンが頭上を仰いだのは、半透明の天蓋の彼方で交戦する女神とラムレスのことが気にかかったからだろう。ラムレスの激しい怒りに満ちた咆哮が大気を震撼させ、爆発的な魔力となって吹き荒れ船体を揺らしている。最強の竜であるラムレスがその怒りの赴くままに力を解き放てばどうなるか、この一事でもわかるだろう。天変地異が起き、世界そのものを揺るがしかねない。それほどの力が女神に向けて放たれている。女神は女神で、それ相応の力でもって対応しているらしく、両者の間で力が激突するたびに凄まじい衝撃波が方舟を襲った。ユフィーリアは甲板の上で転倒しないように注意しながら、クオンに話しかける。ここにきたのは、自分だけではないことを伝えなくてはならない。
「ああ、そうだ、ラムレスも一緒なんだ。クオンのことを心配していたんだぞ」
「そうか。ラムレスも、ぼくを……」
《なるほど、理解したよ》
不意に聞こえてきたのは、女神の聲だった。頭の中に直接響く神の聲は、ユフィーリアの意識に不快感を覚えさせる。それもそうだろう。強大な力と威圧感によってすべてを抑えつけようとするようなものを許容するほど、ユフィーリアの心は寛容ではない。そもそも、神々というのは、おしなべてラムレスの敵といっても過言ではないのだ。父の敵は、彼女の敵。マリクという例外もあるにはあるが、例外は例外に過ぎない。ほとんどすべてが敵であるという事実に違いはない。なにより、この聲の主たる女神は、つい先ごろ、リョハンを滅ぼそうとした女神であり、ついさきほど、ラムレスの進路を塞いだ女神なのだ。
ユフィーリアが無意識に反発心を抱き、心を激しく燃え立たせるのも無理のないことだった。
聲は、続く。
《そういえば、そうであったな。ヴィシュタル。そなたはラムレス=サイファ・ドラースを説得せしめたことがあったな。そして、ラムレスとその眷属を我らが支配下に引き入れることに成功した。そうだ、そうだったのだ。迂闊であったぞ》
なにをいっているのかもわからなければ、どこにいるのかもわからない。聲だけが脳内に響き渡り、ユフィーリアは視線を彷徨わせた、クオンが困惑している様子から、その言葉が女神の一存によるものだとはわかったが、だからどうだというのか。
「なにを――」
《そうだ。そうなのだ。そなたがなぜ、リョハンに差し向けられたのか、これで納得がいった。すべてはこのときのためだったのだ》
ユフィーリアは、眼前の虚空が歪むのを認めた瞬間、即座に飛び退いた。反応が遅かったということはあるまい。ユフィーリアは、人体では発揮できないほどの反応速度と身体能力によって、大きく飛び離れたのだ。しかし、それの出現と行動はその速度をも軽々と上回っていた。虚空の歪みからにじみ出てきたのは光であり、光は、美貌の女神を象っていた。膨大な光を発する光背と大きく見開かれた双眸が、ユフィーリアの網膜を金色に塗り潰す。見てはならない。聞いてはならない。知ってはならない。無意識の警告も、遅すぎた。
神の光がユフィーリアの体に触れた瞬間、彼女は意識が白く灼かれるのを知った。激痛があった。けれども、肉体的な痛みなどどうでもよかった。そんなことよりも、意識が灼かれ、記憶が白く燃え尽きていくことのほうが彼女にとっては余程苦しいことだった。辛いことだった。絶望とさえいってよかった。
「がっ……」
自分の口から出た音を聞いたのが、彼女の意識の最後だった。




