第千九百八十二話 竜と人(一)
(馬鹿げたことをしたものだな……!)
吼えるようにうなりながら、彼は、地上めがけて真っ逆さまに飛んでいた。咆哮によって全魔力を拡散させ、速度を上げる。燃え滾る夕日に照らされた海面が激しく揺れ動き、陽光を乱反射している。しかし、その程度で視界が悪化することはない。どれだけ光が強かろうと、彼の視覚が奪われることなどありえない。嗅覚も聴覚も、触覚もだ。あらゆる感覚が全周囲の微々たる変化を捉え、加速度的に遠ざかる船から響く高笑いも耳に届いた。苦虫を潰している余裕はない。彼の視線の先、それはただひたすらに落ちていっている最中なのだ。
純白に発光するそれは、周囲の空間を際限なく歪めながらその肉体を加速度的に変質させ、変容させていっている。そして、そのまま、大海原の真っ只中へと落ち込もうとしている。爆発的な光。神威に近い光の拡散。そして変容。その物体になにが起きているのか、思考を巡らせ、熟考を重ねるまでもない。
リョハンの守護神マリクがいう白化症の発症であり、その急激な進行速度により、神人化さえもが起きていることは明白だ。
肉体の急激な膨張によって彼女の身を包んでいる鎧が弾け飛ぶのが見えた。変容は左肩から始まり、左胸、首、腕、胴体、腰へと伝播するように広がっていた。それも急速にだ。瞬きするたびに変容が加速している。あっという間だった。あっという間に、彼女は人間からまったく別種の存在へと変わり果て始めている。
このままでは、彼女はマリクが神人と定義した存在へと成り果てるだろう。
そうなれば、どうなるか。
彼女は、神の手先となり、彼と対峙することとなるだろう。この世界の明確な敵性存在となるのだから、そうならざるをえない。滅ぼさざるを得なくなる。
(ユフィーリア……!)
再び、吼え、彼は、愛娘に向かって全力で接近した。
発端は、数日前に遡る。
神軍とリョハン軍の戦いは、魔王の杖の使い手が参戦したことによって戦況が大きく変わった。神をも凌駕するほどの力を見せつけた彼の活躍は、神軍に総撤退を決断させたのだ。つまり、リョハン軍は見事勝利したというわけであり、その勝利におけるラムレスらの貢献はいかばかりか、考えるまでもない。ラムレスとその眷属の力がなければ、リョハン軍は救援が到着する前に殲滅されていたことだろう。それほどまでに神軍の攻撃というのは苛烈であり、容赦がなかった。
しかし、だからといって。ラムレスがリョハンの人間たちに代価を要求することはなかった。そんなもののためにリョハンに協力したわけではなかったし、愛娘の我儘に付き合っただけのことだ。そこに代価を求めるほど、ラムレスも愚かではない。竜には竜の矜持がある。人間に力を貸すことはともかく、そこに代価、代償を求めては、竜の地位、自尊心を穢しかねないことだ。
それに、対価ならば、あった。
神軍の指揮官のひとりが、クオン=カミヤであることが判明したからだ。
クオンは、セツナに向かって自分の素顔を曝した。髪の色こそ変わってしまっていたが、顔立ちはクオン=カミヤそのままであり、その声もそのにおいも。“大破壊”とともに消息を絶った彼本人であることを示していた。
リョハン軍の将兵が勝利の歓喜に沸き立つ戦場を早々に離れたのも、そのためだった。ファリア=アスラリアを大切に想うユフィーリアですら、そのことに文句ひとついわなかった。普段ならばファリアに一言挨拶してからだ、と、ラムレスをなじるはずの彼女が、だ。クオンのことしか考えていなかった。
それもそうだろう。
彼女は、クオンとの再会を心待ちにしていた。“大破壊”の中心にいた彼が消息を絶って二年以上が経過してもなお、彼女はクオンの生存を信じていたし、クオン配下のものたちもまた、必ず生きているといって憚らなかった。ユフィーリアにとって、クオンとその配下たちは特別な存在だった。ユフィーリアにできた最初の人間の友人たちであり、知人たちなのだ。
ラムレスは。ユフィーリアを背に乗せて方舟を追いかけながら、何度も考えた。クオン=カミヤとの出逢いは、間違いだったのではないか、と。
クオン=カミヤと出逢わなければ、ラムレスが彼に絆され、人間との関係性を見直しさえしなければ、ユフィーリアが彼に傾倒し、彼の信奉者になるようなことはなかったのではないか。
信奉者。
クオンに対するユフィーリアのことを、ラムレスはそう見ていた。少なくとも、友人や知人と呼ばれる関係性でないことは、クオンを前にしたユフィーリアを見れば一目瞭然だ。それも盲信に近く、狂信といっても差し支えのないものだった。クオンと出逢い、クオンのことを知るまでのユフィーリアは、ラムレスの言に逆らうことはなかった。しかし、クオンを知り、クオンの信奉者となったユフィーリアは、ラムレスの言よりもクオンの言を優先することが多くなった。ラムレスも当初はそれでいいと考えていた。
ユフィーリアは、竜ではない。
歴とした人間なのだ。ひとの腹から生まれた人間そのもの。血も肉も人間のそれであり、強引に竜の呼吸法を体得し、その身体能力は人間のそれを超越してはいるが、ラムレスたちのように魔法を使うことはできず、空を翔ぶこともできない。ただの人間。人の子。
竜の群れの中で、竜の如く振る舞うことのほうが自然に反している。
人間の群れの中で、人間とともに生きているほうが、彼女にとって自然であり、相応しいことなのだ。
そう、自分を納得させるように何度もいった。何度も、それこそ、頭の中がそのことでいっぱいになるほど何度も、何度も。それくらいいわなければ、自分に言い聞かせなければ納得できなかったのだろう。
ユフィーリアは、彼にとって大切な存在だった。
最愛の娘だ。
みずからが拾い上げた命であり、みずからが育て上げたただひとりの人間。その子がついに親から離れようという素晴らしい瞬間がこれほどまでに苦しく、辛いことだとは、想像したこともなかった。
ラムレスには、数多の眷属がいる。彼の血を引く無数の竜たち。かつて北の空を埋め尽くした蒼き翼の竜たちはいまや数えるほどしか存在しないが、いまもなお、彼を敬慕し、彼に付き従っている。ラムレスの子供たち。その子供たちが独り立ちすることは、決して少なくはない。しかし、ラムレスの元から独り立ちしたからといって、眷属の縁が切れるわけではない。彼が一声吼えれば、眷属は必ず馳せ参じた。どのような命令にも従い、死ねといえば死んだ。それが眷属というものだ。
だが、ユフィーリアは違う。彼女は眷属ではない。娘だ。血こそ流れてはいないが。彼が愛情を注いで育て上げたただひとりの存在なのだ。
そんな彼女が人間の群れの中へと巣立っていくというのを素直に応援できない己を知ったとき、彼は愕然としたものだった。
自分は竜であり、彼女は人間だ。竜には竜の、人間には人間の生き方がある。彼女は本来、人間として、人間の群れの中で生きるべきであり、そこにこそ本当の幸福があるはずだ。竜の群れの中では、彼女は真の幸福を得られることはできまい。
わかりきっていることだったが、認められないことでもあった。
クオンは、信の置ける男だ。彼ほど純粋に信じることのできる人間というのは、ラムレスはその数万年に渡る記憶の中に見いだせなかった。人間というのはだれもかれも利己的なものであり、我利我欲を貪るものと決まっている。竜に近づこうとするものは特にそうだった。竜教、竜信仰と呼ばれるものも、結局は、弱い自分たちを庇護してくれる存在を竜に求めただけのことであり、純粋な願いから生まれたものではなかった。人間というのは、信用の置けるものではない。決して。
ではなせ、ラムレスはクオンを信頼し、彼の下へ降ったのか。
それはきっと、ユフィーリアのせいだろう。
人間の赤子であったユフィーリアを育てていくうちに人間への理解を深めてしまったことが、ラムレスにとって痛恨となった。
人間への見る目が変わってしまった。
だからクオンを信じ、ユフィーリアを彼と逢わせてしまった。
そのことの後悔がいまもなお、彼を責め続けている。




