第千九百八十話 死神と守護神
「人間っていうのは、どうしてこう素直に生きられないのかな。生きていて、息苦しくないんだろうか」
彼の感想とも意見ともつかない言葉には、同意したい部分もないではなかった。しかし、それは彼が人間ではないからこその発言であり、同じ人間であれば、そのようなことはいえまい。だれしも、しがらみの中で生きている。生きていくしかない。人間であることを辞めたはずの彼女ですら、そうだ。法や秩序、人間関係を維持するためには、ときには自分を殺さざるをえない。
「それは、ひととひとの繋がりがあります故。だれもが想うままに生きようと願い、その通り行動すれば、秩序は瞬く間に破綻し、混沌の世が訪れましょう。そうなれば、想うままに生きることも叶いませぬ」
レムは、守護神の黄金色に輝く瞳を見つめながら、微笑んだ。神の無機的な表情は、変わらない。淡く光を発する体も、美しい光背も、なにもかもが幻想的で神々しい。神様なのだから当然といえば当然だが、人間時代の彼のことを思い出すと、違和感を抱かざるをえない。マリク=マジクとは、クルセルク戦争時、あまり言葉をかわしたことはなかったものの、彼がセツナにちょっかいを出している様子などは見た覚えがある。リョハン始まって以来の天才児との話だったが、それもいまとなれば納得もできよう。
神様だったのだ。人間に身をやつしていたとはいえ、神の力が失われていたというわけではあるまい。彼の武装召喚師としての才能は、神の力によるものだったのだ。おそらくは、だが。
「ひとは、ひととの繋がりの中で生きるものでございますから」
「それはわかってるんだけどね」
彼は、軽く肩を竦めてみせた。
空中都監視塔の最上層、守護神の座に彼女はいる。もちろん、理由がないわけではない。リョハンの守護神マリクの召喚に応じたのだ。召喚の意図は不明だ。ただ、守護神の世話役である七大天侍ニュウ=ディーに守護神の座まで来るよう、連絡を受け、それに応じたのだ。幸い、暇を持て余しており、時間はたっぷりとあった。彼女が世話するべき主人がひょっこり帰ってくるまで、まだ時間はあるだろう。
「ぼくも、一時期人間をやっていたからさ」
そういって、彼は隣の女性を見上げた。七大天侍のひとりであり、守護神の世話係を任されているニュウ=ディーだ。彼女は、七大天侍としての任務がないときは、ほとんどの時間を守護神の世話に費やしているとのことだった。彼女の穏やかな表情の中に守護神への無常の愛情を感じ取り、レムはなんだか物悲しさを覚えた。
マリクが人間であり、四大天侍としてあった時代、ニュウとどのような関係だったのか、レムは知らない。しかし、ニュウがみずから彼の世話役を申し出たという話や、ほぼつきっきりで彼の世話をしているという話を知る限り、特別な間柄であったことは想像に難くない。邪推をしたくはないが、彼女はおそらく、マリクを愛していたのだろう。そういう感情の流れは、最愛のひとを持つレムにも実感として理解できるのだ。
だからこそ、物悲しい。
ニュウの想いは、どうなるのか。
マリクは、神になった。いや、元々神様だったのが、人間の振りをしていたというだけの話であり、人間が神になったわけではない。しかし、ニュウの実感としては、同じことだろう。人間であったはずの少年が突如として神様になってしまった。いまや触れ得ざる存在となった彼をそれでも愛し、慈しんでいることはニュウの言動からも明らかなのだが、しかし、その想いが報われることがあるのだろうか。
人間と神が結ばれることなど、あるのだろうか。
ふと、そんなことを考えてしまったのは、マリクと人間社会の煩わしさについて話していたからだろう。人間社会、人間関係の煩雑さは、そういった物事から超越したところにいる神様にとっては少しばかり信じがたいものなのかもしれない。
「それでも、と想うよ。もう少し素直に生きていいのに、って」
「素直に生きた結果、混乱を招かれては困りますが」
「君だって、彼女のことを応援してたじゃないか」
「彼女?」
「それはまあ、妹のような存在だもの」
レムの疑問は、ふたりの会話の中に紛れて消えた。マリクとニュウは向かい合い、もはや視界にレムの姿など入れていないような有り様であり、彼女は少しばかり困惑した。召喚に応じたはいいものの、ふたりの言い争いを聞きに来たわけではない。
「あの子には幸せになって欲しいし、そうなるべきだと想っているわ。そういう権利があるもの。あの子は、自分の人生を犠牲にしすぎなのよ」
「そのおかげでリョハンはひとつに纏まり、安定することができたんだ。よかったじゃないか。たったひとりの犠牲で、多くの幸福を得ることができたんだ」
「だから、わたしは反対だったのよ」
「でも、対案はなかった」
マリクの一言にニュウが息を呑んだ。反対。対案。レムにはなんのことか、少しわかりにくい。
「彼女の母親がいれば、状況は変わったかもしれないけれどね」
「ミリア先生……か」
「でも、現実にはミリア=アスラリアは消息不明のまま、戦女神の後継者にはファリア=アスラリア以外考えられなかった。状況も差し迫っていたしね。あのまま手を拱いていれば、リョハンは崩壊の一途を辿っただろうさ」
「……わかっている。わかっているわよ。だから、じゃない。だからこそ、ファリアちゃんには幸せになって欲しいのよ」
「そのためにこんな茶番を?」
「それは、わたしのしたことじゃないわ。議長代理殿が仕組んだことよ」
「茶番……でございますか?」
話に全くついていけず、レムはきょとんとした。さっきから続くふたりの言い争いの大半がリョハンには理解の及ばないところだった。戦女神の後継者に関する話題だったりしたようであり、それとファリアの幸不幸に繋がるのもわからないではないのだが。
「まったく、アレクセイも素直じゃないというか、なんというか」
「本当よね……あの祖父にしてあの孫ありって感じよ」
「あの……」
「ま、あの茶番のおかげでファリアに時間ができたわけだ。それが幸福な時間であることを願うよ」
「わたしも」
「ですから、おふたりとも、なんのお話をされているのでございます?」
「我らが戦女神と君の御主人様のことだよ」
「ファリア様と、御主人様でございますか?」
レムは、きょとんとした。
セツナは、少し前から消息を絶っていたのだが、その内容についてレムは詳しく知らなかったのだ。レムはただ、セツナにしばらくの間姿を消すとだけ告げられ、その間、セツナが御陵屋敷にいるよう装えと命じられただけだった。下僕たる彼女に否やはない。詳細について聞こうと想えば聞けただろうが、切羽詰まった、どこか思い詰めたような主の様子からただならぬものを感じ取ったレムは、一も二もなくうなずき、彼の命令に従った。
「君は、セツナになにも知らされていないのか」
「はい。わたくしは、セツナ=カミヤ第一の下僕でございます故、御主人様の命令には唯々諾々と従うのみでございます」
「で、そんな格好をしているってわけね」
「うふふ、似合っていませんか?」
そういって、レムは、自信満々に己の姿をふたりに見せつけるようにした。レムはいま、いつもの使用人の格好ではなく、セツナが普段身につけている拘束衣のような黒い装束を身につけていたのだ。セツナが厳命したことを護っているにすぎない。セツナは、御陵屋敷の人間に自分の不在を悟られないようにして欲しいとレムに命じている。
レムは、その一環として、まず自分がセツナになりきることから始めたのだ。セツナが愛用している拘束衣は、彼の背格好に合わせて作られたものであり、レムの華奢な体格には合わなかったものの、なんとか着こなすことに成功していた。
レムがそのことを告げると、マリクは苦笑を交えながらいってきた。
「セツナには見えないよ」
「あら、そうでございます? 髪の色といい、目の色といい、そっくりそのままでございますよ?」
レムは自信を以て告げたものの、マリクとレムは互いの顔を見合って、肩を竦めたのみだった。
レムが姿見で確認した限りでは、よく似合っていたし、セツナに見えなくもないはずだった。レムは、マリクとニュウがセツナのことを知らなすぎるからだと決めつけると、ひとり納得した。そして、自分ほどセツナのことをよく見ているものもいないのだという自負が、彼女の中に愉悦感となって膨れ上がるのだった。