第百九十七話 怪人秘策
「翼将殿がお会いになられるそうだ。こちらへ参られよ」
翼将に報告に向かった兵士が戻ってくると、態度は豹変していた。高圧的なものから、慇懃なものへ。カインはそんなものだろうと思いながら、腕の中の女を見ると、怪訝な表情を浮かべていた。もっとも、彼女の表情は次の瞬間には恐怖に染まっていたが。
演技派なのだろう。
カインは、そんなことを考えながら、馬で案内の兵を追った。
正午過ぎのマルウェール市内は、物々しい雰囲気に包まれていた。
青空が似合わない物騒な空気は、戦場の匂いをわずかに漂わせている。敵軍が街の南方で陣を張っているのだ。臨戦態勢になるのは当然だろう。
街の至る所に武装した兵士の姿が見受けられ、馬上、女を抱いて移動するカインの姿を胡乱な目で眺めては、目を逸らした。整然と隊列を組んだ部隊が、所定の配置につこうとしているのか、カインたちの横を通り抜けていった。だれもが武装し、緊張した面持ちだった。このマルウェールの重々しい空気は、ついさきほど、ガンディア軍の騎馬隊が接近してきたことにも一因があるのだろう。つまり、カインのせいなのだが、彼はなんとも思っていない。
市街戦になった時のことも考えられているのか、各所の通路がいつでも封鎖できるように細工されているのがわかった。通路の片隅に積み上げられた木箱の山を崩せば、簡単に塞がれるくらいの狭い道だった。敵部隊の進行形路を限定することで、戦いやすくするつもりなのだ。敵軍がマルウェールの地形を把握しているわけもない。自軍にとって有利な状況を作ろうとするのは当然のことだ。
無論、マルウェールの軍が市街戦に持ち込みたくないのは明白なのだが、最悪、市街戦になっても戦えるように準備をしているのは、カインとしても好感が持てた。ハーレンの手腕ではないだろうが。
マルウェールを移動中、ウルは一切口を利かなかった。案内の兵士はすぐ目の前を歩いていたとはいえ、小声ならば聞こえる可能性は少ないのだが、用心するに越したことはない。ウルとカインが話し合っているのを見られるのは、よくないだろう。もっとも、市内に入りこめたのだ。策謀が明らかになったとして、暴れ回るという手段がないわけでもない。とはいえ、力に物を言わせるのは最終手段である。カインとしては問題がなくとも、左眼将軍デイオン=ホークロウの目的とはかけ離れることになる。彼は、北進軍に損害を出したくないのだ。
いかに犠牲を少なくして最大の戦果を得るか。
デイオンは、そんなことばかりを考えていて、カインの策は助け舟に過ぎない。彼としては、戦いを満喫したいという想いもあるのだが、いま優先すべきは総大将の命令なのだ。
そのために、翼将ハーレン=ケノックと逢わなければならない。
通路を進むうち、門を入ったときから見えていた塔に向かっていることに気づいた。塔は、マルウェールの中心に聳えており、市街全体を見渡す役目を担っているようだった。権力者は高層建築物を好むというが、その通りなのかもしれない。きわめて権威的で、威圧的な建物だ。
塔の前には、多数の兵士が待ち構えていた。
案内の兵士が立ち止まり、こちらを振り返る。
「翼将殿はこの塔の中階に居られます。馬はこちらで預かりましょう」
「ああ、頼む」
カインは頷くと、近づいてきた兵士に手綱を渡し、ウルを抱えたまま馬から飛び降りた。ウルは一瞬驚いたようだが、その変化は兵士たちには見えなかっただろう。カインも表情は見ていない。体の反応だけでそれと知れた。
さすがに抱き抱えたまま歩くつもりもなく、カインはウルを地に立たせると、縛った腕を強く引っ張るようにして歩き出した。その際、ウルがきつく睨んできたが、本気とも演技ともわからなかった。
案内の兵士に続いて塔の中に入り、上を目指す。すれ違う兵士たちがいちいち視線を注いできたが、それもしかたのないことだ。カインは仮面をつけていたし、手首を縛り付けた女を引っ張っていた、注目を浴びるのも当然のことだ。
やがて、中階とやらに到達する。地上六階。最上階は十二階くらいあるということだろうか。どうでもいいことだが、少しだけ気になった。
中階には、部屋がひとつしかなかった。つまり、階段と通路以外の空間が、一部屋になっているということだ。その部屋の扉は両開きになっており、案内の兵士は、扉の片側を軽く叩いて到着を知らせた。部屋内から反応があったのか、兵士が扉を開け、カインを促した。
「どうぞ。翼将殿がお待ちです」
「ご苦労」
鷹揚に告げると、兵士は変な顔をしたが、彼は気にせず、ウルを引っ張りながら室内に入った。
広い空間だ。だだっ広いというべきか。なんのための部屋なのか判別しにくいのは、部屋が広すぎるからだろう。奥に机や椅子があり、書棚などの調度品が部屋の壁際を埋めてはいるのだが、それでも室内には空白が多すぎた。しかも、室内には部屋の主なのであろう男がひとりしかいない。寂しい空間だと思わないではないが、彼にはあっているのかもしれない。
ハーレン=ケノック。
彼は、こちらが近づくのを待ちきれなかったのか、椅子から腰を浮かせた。表情は遠すぎてよくわからないが、焦っているのは明白だった。
「貴様がカイル=ヒドラか……!」
「久しいな、ハーレン」
カインが返答すると、ハーレンは、愕然としたように椅子に座った。声でわかったのだろう。カイル=ヒドラの名である程度予期していたとはいえ、やはり実物を確認すると驚くものなのだろう。死んだはずの男が目の前に現れたのだ。しかも、ハーレンが反ミレルバス派の中枢にいたという事実を握る人間なのだ。
場合によっては、彼は翼将の座を追われかねない。いや、それどころではない。政治犯として投獄され、二度と、陽の光を浴びることもできなくなるかもしれない。
「ランカイン……生きていたのか」
ハーレンは囁くようにいってきたが、それは兵士が外で聞き耳を立てている可能性を考慮してのことだろう。彼は保身に走っている。カインはそう認識すると、ウルを引っ張ってハーレンの元に歩み寄った。彼の立場を案じたわけではないが、ランカインの生存を他の兵士に知られるのが厄介なのは、カインとて同じことだ。
「ランカイン=ビューネルは死んだよ。ランス=ビレインもな。だが、俺は生きている。なぜだろうな」
カインはハーレンの対面の席に座ると、ウルを隣の椅子に座らせた。そして、仮面を外す。ハーレンは、カインの顔を見たからといって懐かしむようなことはなかったが、偽物ではないとうことは伝わったはずだ。彼が、ランカイン=ビューネルの顔を覚えていれば。
(ふん……)
カインは、彼の反応の薄さに目を細めた。彼がランカインを忘れるはずがない。長い付き合いだ。
「いまさらその名を聞くとはな……。エルアベルもランカインも死んだ以上、その名の正体を知るのは俺だけになったと思っていた……」
ハーレンは、ウルには目もくれず、意気消沈したようにいった。中年の男だ。カインよりも年上だったはずで、もうすぐ四十歳になるはずだった。それでも、以前逢った時よりも若々しく見えるのは、反ミレルバス派の呪縛から解き放たれたからかもしれない、などという皮肉が浮かんだが、カインは口にはしなかった。ハーレンの濁った目は、カイル=ヒドラという実在しない人物への恐れそのものだろう。
カイル=ヒドラは、エルアベル、ランカイン、ハーレンが反ミレルバス運動に用いた名前だった。ザルワーンを暗躍する正体不明の怪人として、一部では知られた名だ。反ミレルバス派の象徴ともいえる存在であり、ミレルバスを筆頭とする現体制派は、その正体を突き止めるのに躍起になっていたという。それもそうだろう。カイル=ヒドラは反ミレルバス派の結束を強め、ミレルバス派に対しては毒牙を向いたのだ。カイル=ヒドラの手にかかって死んだものもいたし、カイル=ヒドラによって収容所から解放された反ミレルバス派の人間も多かった。その際、カイル=ヒドラの名を使うことが多かったのは、ランカインだ。彼の武装召喚師としての実力が大いに役立った。
「なにが目的だ? それになんだ、ガンディアの要人、だと? どういうつもりだ、おまえは。死んでいたはずじゃあなかったのか? ガンディアで自棄になって馬鹿なことをしでかし、捕まった挙句極刑に処されたという話じゃあなかったのか?」
「質問が多すぎる」
ハーレンが捲し立ててきたのを見て、カインは、苦笑を浮かべるしかなかった。彼は動揺し、取り乱しているのだろう。それがハーレンのハーレンたる所以なのだが。
ウルを横目に見ると、彼女は既に準備を始めていた。ハーレンの目を、じっと見つめている。強い支配には時間がかかるのだ。簡単なものなら一瞬で済むのだが、その場合の支配力というのはきわめて微弱であり、頼りにはならないらしい。時間をかければかけるほど、精度は良くなり、強度も上がる。
「す、すまん。まず、聞かせて欲しいのだが、おまえはなぜ生きているんだ?」
ハーレンの問に、カインはどう答えるべきか思案した。素直に教えるべきか、偽るべきか。考えたのだが、彼の末路を思えばどちらでもいいことだった。
「簡単な話だ。俺に利用価値があったのだよ」
「……ガンディアも悪どいことをやるものだ」
「ザルワーンほどではないさ」
カインが冷ややかにいうと、ハーレンは聞こえなかったような素振りを見せた。翼将の座についた彼には、もはやザルワーンの暗部に触れたくもないのかもしれない。耳を塞ぎ、目を閉じたところで、ザルワーンの闇が晴れるわけもなく、深まる一方なのだが、彼にはわかりもしないのだろう。カインのような地獄を経験したものにしか、この国に巣食う闇の深さは理解できないのだ。だからこそ、ミレルバスは光り輝いているように見えるし、ミレルバスの掲げる理想も素晴らしいものに思えるのだ。
それは、いい。
カインにとってはミレルバスの理想や思想などどうでもいいことだ。あの地獄も、いまとなっては懐かしく、恋しいと思う時さえある。魔龍窟。ザルワーンが武装召喚師を育成するために作り上げた領域であり、まさにこの世の地獄と呼んで差し支えのない世界だった。
その地獄を経験したからこそ、見える世界もある。
ハーレンは、沈黙に耐え切れなくなったように口を開いた。
「……つぎに聞きたいのは、なぜおまえがガンディア軍に追われていた? ガンディア軍に仕えていたのだろう?」
「この女を拉致したからだ」
カインはウルを示した。ハーレンが怪訝な顔で彼女を見る。ふたりの視線が交錯したのが、カインにもわかった。
「ガンディアの要人というのは、本当なのか?」
「そうだよ、あの国の中枢に関わりのある人物でな」
「ほう。その女を手土産に、ザルワーンに帰参したいということか?」
ハーレンがしたり顔でいってきたことの馬鹿馬鹿しさに、カインは笑いたくなった。いまさらこの斜陽の国に戻ってどうなるというのか。現状ですら、ガンディアに国土を切り取られ、グレイ=バルゼルグという敵を国内に抱いている。カインひとりがザルワーンに味方したところで、状況を覆すことは難しい。
もちろん、できないとは言い切らない。ザルワーンの総力を結集し、ガンディア軍を打ち払うことのみに集中すれば、勝てなくはないかもしれない。さらにいえば、セツナさえ殺すことができれば、勝ち目は十分にあるだろう。黒き矛とその使い手がこの地上から消滅すれば、ガンディアはその圧倒的な攻撃力を失うことになるのだ。
ガンディアは、黒き矛に頼りすぎている。圧倒的な力を誇り、絶対的な戦果を上げてきた彼を頼るな、という方が無理ではあるのだが。そして、彼は頼られれば頼られるほど力を発揮するような少年だ。逆を言うと、頼られなければ自分の存在意義に不安を覚えるような子供であり、彼を操ることほど容易いことはないだろう。レオンガンドは、いい狗を手に入れたものだと思う。
だが、彼がいなくなれば、途端にガンディアの戦略方針は瓦解するだろう。ひとつの突出した才能に頼りすぎれば、そうなるのは当然の結果だ。
ザルワーンがガンディアに打ち勝つには、この手しかないのだ。
(だが、無理だな)
カインは、胸中で笑った。彼は殺せないだろう。カインが全力を用い、あらゆる手段を駆使すれば、なんとか五分に持ち込めるかもしれない。だが、黒き矛の絶望的な力の前には、カインも赤子のように殺されるだけではないのか。いまの彼ならば、敵に回れば、躊躇いなく殺してくれるだろう。あのときとは違う。彼はもはや迷いはしないはずだ。
セツナは、少しずつだが、確実に成長している。
「いや……そうではないのだ」
「どういうことだ?」
カインの返答に、ハーレンが困惑したような表情を浮かべる。不意に、ウルが立ち上がり、驚くハーレンの顔に自分の顔を近づける。鼻息がかかるほどの距離。ハーレンが反応しきれなかったのは、彼女が美女だからというのもあったのかもしれない。
「あなたを支配してあげる」
ウルは、ハーレンの目を見ていた。