第千九百七十七話 彼と彼女(八)
朝焼けとともに目を覚ましたのは、きっと、緊張があったからだ。
あまり眠れなかったのも、それだ。
ここは戦宮でもなければ、警護の護峰侍団隊士もいなければ七大天侍の守護下にもなかった。空中都北西の外れにある古びた家。いまや廃棄され、廃墟と化した建物内には、彼女以外にもうひとり、彼女のよく知る人物がいるだけだった。
昨夜、ふと、そのことを認識した瞬間から、彼女はある種の興奮状態に陥り、中々寝付けなかった。一度、眠りから覚めた上、暗殺計画などという話を聞かされたこともあるが、それ以上に彼とふたりきりだという事実を認識したときから、胸が高鳴って仕方がなかった。
それには、戦女神という立場から隔絶されたということも、大きい。
戦女神暗殺計画から彼女の身を守るために実行に移された戦宮からの誘拐と隔離は、ファリアを戦女神という立場から遠ざけ、ただのひとりの人間へと引き戻すこととなった。なぜならば、この廃墟同然の屋敷の中では、戦女神としての権力が一切意味を成さないからだ。屋敷内にいるのはファリアとセツナだけであり、そのセツナは、戦女神の権力の外にいる。リョハンにいる限りは戦女神に逆らうことはまずありえないだろうが、戦女神を攫った張本人である彼が戦女神のいうことを聞くわけもない。彼は戦女神の支配下にはなく、そのことを無意識に理解したがために、ファリアは自分がただの人間であることを認識セざるを得なくなった。
ただの人間。
ただのファリア=アスラリア。
ただの女。
(女……)
戦女神ではなく、ただの、どこにでもいる普通の女。
窓から差し込んでくる朝日の眩さに目を細めながら、彼女は、上体を起こし、自分の胸に手を当てた。分厚い寝間着は、戦宮で就寝するときの格好そのままだ。その上から分厚い掛け布団を被り、床につく。ここでもそうだった。だれか――いうまでもなくアレクセイか、その手のものだろう――が、事前にこの屋敷内に手配してくれていた布団は、山間市で生産される高級品だった。寝心地はよく、興奮さえ収まれば、すぐに寝付けたのもその布団のおかげだった。
ゆっくりと息を吐き、空気を吸い込む。辿り着いた当初は埃まみれで、呼吸をすることすら嫌になるほどだったが、窓を開けっ放しにして埃を吹き飛ばし、そのまま一夜を過ごしたことにより、清浄な空気が室内を満たしていた。
一晩、窓を開けっ放しにして眠ることそのものは、ファリアにはなんの問題もないことだ。戦宮での生活とはまさにそれであり、慣れたことなのだ。リョハンの寒さとは慣れ親しんでいたし、真冬に比べれば暖かすぎるといっていいくらいだった。無論、リョハン外からきたルウファやミリュウたちにとっては、地獄のような気温の低さだということも知っているし、それはセツナとて同じことだろう。
ふと、彼のことを想うと、それだけで動揺が広がった。
彼は、アレクセイに謀られ、ありもしない架空の計画に踊らされただけに過ぎなかった。よくよく考えればわかることであるはずなのだが、リョハンの内情に決して明るくない彼には、アレクセイの語ることが真実のように思えたのだろう。それは仕方のないことだ。アレクセイは政治家として幾多の修羅場を潜り抜けている。なにも知らないセツナを信じ込ませることくらい、容易いことだったに違いない。セツナに落ち度がないとはいいきれないが、かといって、ファリアが彼の立場ならばアレクセイに騙されなかったとも言い切れない。もちろん、ファリアがリョハンの事情を知らないという前提ならばだ。知っていれば騙されることなどありえない話なのだが、知らなければ、致し方のないところも大きかった。
反戦女神派の過激派がファリアに害をなそうとしている、と、実しやかに話されれば、信じこんだとしても仕方がない。
そして、そのために脇目もふらず、全身全霊で事に当たったのがセツナなのだ。セツナは、ファリアを暗殺計画から救いたいという一身で行動を起こし、実際にファリアを戦宮から攫い、ここまで連れてきたのだ。暗殺計画が虚構の、架空の出来事だとしても、そのために動いたセツナの気持ちは偽物ではなく、本物なのだ。そのためにセツナは自分がリョハンでの立場を失おうと構わないほどの覚悟を持って動いただろうことは、疑うまでもない。戦宮に侵入するということは、七大天侍、護峰侍団と敵対する可能性も大いにある。それでもなお、彼はファリアのために決して折れることはなかった。
そのことについて、ファリアがどういう感情を抱くか、ということも考えただろう。散々考えに考え、考え抜いた末、彼は自身の想うままに行動を起こした。
そしてファリアは、自分が彼にどれほど大切に想われているのかを知った。
茫然と、する。
胸の奥で、心臓が高鳴っている。鼓動の高まりが全身を巡る血の流れを早め、全身を熱く、燃え上がらせていくようだった。視界を横切る朝日の中を埃が舞っている。そんな光景が不意に歪んだかと想うと、頬が熱を帯びた。瞳から零れ落ちた熱量は、そのまま頬を伝い、顎へと流れ落ちる。
(あれ……?)
ファリアは、両目から止めどなく流れる涙を抑えきれず、困惑した。
悲しくもなければ、辛くもない。むしろ、嬉しくて嬉しくてたまらないというのに、なぜか、涙が止まらなかった。
想い、想われている。
想い合っている。
いや。
彼女は、胸中、頭を振る。
自分が想っている以上に、彼が自分のことを想ってくれていた。
自分は、戦女神としての役割をまっとうすることで精一杯だったというのに、彼はそんな自分のことを知った上で、さらに想ってくれていた。その事実が洪水のように押し寄せ、彼女の心を席巻する。
彼の愛情を感じたのは、今回が初めてではない。つい最近、窮地に現れた彼を見た瞬間、戦いが終わり、歩み寄ってきた彼を抱きとめた瞬間、目が覚めたばかりの彼と話し合ったとき、何度も感じたことだ。彼は、ファリアにただならぬ好意を寄せてくれている。いや、それはもはや、好意、などという次元ではない。
もっと大きく、深く、広いものだ。
彼の腕の強く暖かな感触を思い出して、またしても、涙する。
愛――。
ファリアは、布団の中でひとしきり泣くと、いまは、いまばかりは自分の気持ちに素直になろうと想った。
ほとぼりが冷めるまで、状況が落ち着くまでの数日間はここにいなければならないのだ。その数日間は、ファリアは戦女神ではいられない。いる必要もない。私人ファリアとしてあってよく、そうあるべきなのだろう。そうあるための時間を作ってくれたのだ。素直にそう受け取るべきだったし、受け取った以上は、そこに込められた想いに応えるべきなのだろう。
戦女神としてではなく、人間としての時間も大切にするべきだ、という願い。
(お祖父様ったら)
余計なおせっかいをするものだ、などとは思わなかった。普段のファリアならば、そう断じたかもしれないが、今回ばかりは違った。
むしろ、感謝するしかない。
涙を拭い、寝台から抜け出す。窓の外、眩しいくらいに光が満ちている。空中都市リョハン、最上層の空中都は、太陽にもっとも近い都市だ。日が昇り始める黎明ですら、その日差しの眩しさにくらくらするときがあるほど、太陽の恵みを受けている。だからといってこの寒さを払拭することはできないし、太陽の暖かさを感じることができるのは夏くらいのものではあるのだが。
窓の外に満ちた光は、この廃墟同然の屋敷の庭を照らしている。荒れ放題の庭になにがあるわけでもないが、そういう風景は普段、見ることのないものだった。戦宮を中心とする生活で見えるものといえば、限られた景色ばかりだ。そしてそのことに不満を抱いたこともなければ、文句などあろうはずもない。しかし、こうして普段と異なる生活が始まると、普段は気にしないことでも気になるもののようだった。
風に揺れる伸び放題の雑草を目の当たりにして、空中都の違う側面を見た気がした。
部屋を出ると、音が聞こえてきた。
廊下の突き当たり、広間のすぐ側――台所からだ。
この屋敷は、空中都の多くの建物と同じく古代遺跡を再利用したものであり、そこに後世のひとの手が加わることで、現代人の生活に耐えられる代物になっているのだ。遺跡のままでは住めたものではないし、いろいろと不便だ。この廃墟同然の屋敷は数十年前に放置されたままであり、扉や調度品など壊れたままのものが少なくない。しかし、だれかさんが事前に搬入してくれていた物資のおかげで、数日間を過ごすくらいならば十分だった。
屋敷のうち、利用できる場所、物は限られているが、ここで日を過ごすのはファリアとセツナのふたりだけだ。使える部屋の数が少なかろうと、利用できるものが少なかろうと、大した問題にはならない。
台所から聞こえてくる音というのは、だれかが調理でもしているような音ではあったが、《獅子の尾》隊舎の厨房から聞こえてきた軽快な包丁捌きとは、聴き比べるまでもないほどに散々なものだった。それはそうだろう。この状況、台所に立っているのはセツナ以外にはいないのだ。セツナが料理を得意とするというような話は聞いたこともなかったし、どのような状況下でも彼が料理番をするということはなかった。彼は隊長であり、隊長がみずからそのようなことをする必要はないのだから、当然だ。故に彼が台所に立ち、包丁を握っている姿など想像もつかなかったし、考えたこともなかったが、いままさに彼がそうしているのだと気づいたとき、ファリアは驚くよりもむしろ恐ろしくなって、駆け出していた。
いつの間にか扉や調度品の残骸が撤去された廊下を駆け抜けるのは用意だった。もちろん、セツナだろう。彼が、ファリアの寝ている間に邪魔なものを撤去しておいてくれたのだ。そのことに感心する暇もなく、廊下の突き当たり、左手の台所へと至る。
すると、ファリアの想った通り、セツナが台所に立ち、包丁を握っていた。木製のまな板に野菜を乗せ、真剣に向き合っている。なにもそこまで厳しい表情をする必要などないのではないかと想うほどだが、そうはいえなかった。ただ、声をかける。心配で心配で仕方がない。包丁の握り方すらなっていなかった。
「セツナ、だいじょうぶなの?」
「ん? ああ、おはよう」
セツナは、包丁を振りかざしたままこちらを振り返ると、目に痛いほどに鮮やかな笑顔を浮かべてきた。