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第千九百七十一話 彼と彼女(二)


 夢を見ている。

 それもおそろしいまでに甘美で、いつまでも浸っていたいような夢だった。

 夢の中で彼女は、ひとりの少女だった。

 恋する乙女、というべきかもしれない。

 想い人がいて、そのひとのことだけを考えることが許される夢。夢の中ならば、どのようなことを考えていようと構うまい。戦女神であろうとする必要もなければ、民や護山会議、護峰侍団の意向を考慮することもなかった。夢ならば。夢の中ならば、夢の世界の中だけならば。

 現実ではないのだ。

 戦女神であることを強いられ、戦女神であるべく必死にならなければならない現実とは、無縁の世界なのだ。

 ここならば、許される。どのようなことを考えたっていい。しがらみもなにもない。ここは夢。夢の国。夢の世界。

 彼のことだけを考え続けることができる。

 それは彼女にとってこの上なく甘美で、この上なく素晴らしい時間だった。その時間がいつまでも続けばいい、と、ここのところ毎晩、想うようになっていた。それもこれも、彼との再会を果たすことができたからだ。

 彼が、生きていた。

 二年以上もの間なんの音沙汰もなく、生きているかどうかすら不明だったはずの彼が突如として現れ、彼女の命の危機のみならず、リョハンの危機をも救って見せたのだ。それは、彼女が待ちに待った瞬間だったし、感動を通り越して呆然とするほどの出来事だった。

 そして、彼が生きていたという事実は、再会できたという現実は、彼女に生きる希望をもたらした。いまにも眠りかけていた生命力を呼び起こし、魂が炎となって燃え滾った。戦女神としての日々が殺しかけた心も、いまや完璧に近く蘇っていた。笑ってしまうくらいあっけなく、簡単に。

 自分でも笑ってしまうくらい、人間というのは単純な生き物らしい。

 愛しいひとが生きていた。

 ただそれだけのことで、これほどまでに力が湧くものだとはとても考えられなかった。想像すらし得ないほどの変化であり、彼女は、自分がどこまで彼を想い、彼を愛し、彼に依存していたのかを思い知り、理解し、再認識したのだ。

 それからというもの、毎夜、彼の夢を見た。

 彼に恋い焦がれる少女のような自分の気持ちを何度となく見せつけられ、こっ恥ずかしいような、嬉しいような、様々な感情がないまぜになった夢を見続けていた。目が覚めれば、戦女神としての日常が待っている。けれども、いまはもう、以前のようにへこたれることはない。彼が生きていたのだ。いまは、いつでも逢えた。彼はすぐにリョハンを離れるかもしれない。けれども、生きているのだ。生きているということは、逢おうと想えば逢えなくはないということだ。生死不明のころとは、まったくもって状況が違う。

 約二年前、彼がガンディオンに残り、彼女たちは、意識を取り戻したときにはもう戻れない場所にいた。そして、ラムレスに拾われ、北へ向かう最中、“大破壊”が起きた。世界がばらばらに引き裂かれていくという未曾有の天変地異の真っ只中で、彼女は、絶望したものだった。彼は、“大破壊”の中心に極めて近い場所にいたのだ。巻き込まれれば、いかに黒き矛の使い手であろうとただでは済むまい。傷を負う程度で済めば御の字で、生きていられる保証もなかった。それでも彼女やともにリョハンに辿り着いた皆は、彼の生存を信じようとした。声を励まし、そう言い合うことで、彼が死んでしまった可能性から目を背けたのだ。そうしなければ、心の安定を保つこともできなかった。

 あれから長い時間が過ぎた。

 ファリアは、戦女神を受け継ぎ、理想の戦女神を演じ続けることで、辛くも心の平静を維持した。自分ではない、別の存在になりきるということは、己の心を動かさずに済むということでもある。彼のことを考えずにはいられなかったし、彼との想い出を思い浮かべることであの懐かしくも輝かしく、幸福な日々に浸ることもないではなかったが、リョハンにいるほとんどの時間は、戦女神としてのファリア=アスラリアを演じることで費やされた。

 そうしなければ、生き続けることも困難だった。

 彼の存在は、それほどまでに彼女の中で大きかったのだ。

 リョハンにとっての戦女神と同じといっても言い過ぎではないのかもしれない。

 ファリアにとって、セツナは心の支えであり、生きる希望だったのだ。

 だから、第二次防衛戦の真っ只中、レムが現れ、彼がその威容を見せつけきた瞬間、我を忘れたのだ。彼が生きていた。ただそれだけのこと。ただ、それだけのことが、彼女に大きな力を与えた。

 これで、生きていける。

 もうなにも恐れることはない。もうなにも、嘆くことはない。失意も絶望も過去のものと成り果て、限りない希望が彼女の胸を埋め尽くした。

 たとえ、平時、戦女神を演じるために彼と逢えなくとも、彼と語り合う時間さえ持てなくとも、構いはしなかった。彼が生きていて、いつでも逢いに行けるのならば、なんの問題もない。なんの心配もない。確かに彼は女性に好かれ勝ちで、多くの女性が彼のとりこになってはいるが、彼は、自分を見てくれていた。

 自身過剰でもなんでもなく、彼の目は、自分を見つめていたのだ。

 まっすぐに。

 意識が真っ白になるくらいに純粋なまなざしだった。 

 戦いが終わり、彼と見つめ合ったわずかな時間は、それこそ夢のような時間だった。限りなく幸福で、この上ない歓喜に満ちた時間。濃密で、いまでもその一瞬一瞬を思い出せるほどに印象に残っている。彼が歩み寄ってくる様も、なにかに躓き、倒れ込んでくる瞬間さえも、思い起こすまでもなく網膜に焼き付いている。抱きしめた記憶が、いまも腕の中にある。鍛え上げられた少年の体は、青年のそれへと変わっていた。けれども、彼だった。

 セツナだった。

 だから、だろう。

 夢を見るのだ。

 何度も何度も、夢を見る。

 彼の夢を。

 彼のことばかり考える夢を。

 寒空の中、彼の腕に抱かれ、星の海を突っ切っていく、そんな夢。

(夢……)

 彼女は、凍てついた空気の感触があまりにも現実味を帯びていることに疑問を抱きながらも、それもまた、夢のせいだろうと想った。幸せな夢には相応しくない状況だが、夢とは得てしてそのようなもので、どれだけ幸福な夢であっても、くだらない邪魔が入ることは往々にしてあるものだ。そして、気がつけば場面が変わり、記憶の混濁が起き、目が覚めるのだ。もっと甘美な夢に浸っていたいという彼女の切なる願いも、圧倒的な現実の前では為す術もない。

 この夢も、そんなものかもしれない。 

 星が瞬いていた。

 頭上、透き通る夜空に瞬く星々は、黒い布の上に散りばめられた無数の宝石のようだ。リョフ山頂から仰ぐ星空は、いつだって綺麗だ。特に冬の星空ほど美しいものはなく、冬の夜になると、子供も大人も分厚い防寒着を纏って星々を見上げたものだ。

(夢……よね?)

 夢だろう。

 夢の中で描かれる星空がリョハンの星空なのは、ここのところ、ずっとリョハンにいるからに違いない。冬の星空も夏の星空も、リョハンの空中都から見上げる以上、美しく、色鮮やかだった。子供の頃から何度となく見てきたものであり、大人になってからの数年間ばかり、別の星空を見上げていたが、やはりリョハンの空は格別だと想ったものだ。

 だから、夢の中ではリョハンの夜空を見るのだ。

 そして、これが夢である証は、もうひとつあった。

 セツナの顔が、すぐ側にあったからだ。星空と、彼女の目の間に、彼の顔がある。ちょうど、下から見上げているような格好だ。なぜ、そのような態勢なのかは、皆目見当もつかない。夢なのだ。状況が理解できなくて当然だろう。そして、夢だからこそ、彼女は思うまま、彼の顔を眺めることができていた。真下から見上げる彼の顔は、正面や横から見るのとはまた違った魅力があり、彼女は少しばかり、呆然とした。夢だというのに、見惚れている自分に気づく。そして、そのまま見惚れ続けるのもいいかもしれない、と思うのだ。

 夢だ。

 夢ならば、彼を独り占めにしたってだれも文句は言わない。夢ならば、どれだけ長い時間、彼と一緒にいたところで、なんの問題もない。職務に支障がでるわけもなければ、彼を取り巻く女性陣に文句をいわれる筋合いもない。夢なのだ。

(セツナ……)

 彼女がセツナの顎に向かって手を伸ばしたのは、無意識の行動だった。ふと、触りたくなった。彼に触れ、彼を感じたくなった。夢だとわかりきっているのにそうしてしまうのは、それだけ彼に恋い焦がれているということもあるだろうし、現実には中々叶わないことだということをはっきりと認識してしまっているからでもあるだろう。

 夢ならば、夢の中ならば、どのような行動に出ても問題はない。

 夢の世界が、彼女を戦女神という重責から解き放つのだ。いや、それだけではない。夢の中であるという事実が彼女の行動力を無限大に沸き立たせる。普段ならば決してできないことも夢の中ならば自由自在だ。たとえば、夢の中ならばいくらでもセツナに接することができたし、手で触れ合うことくらい容易いことだった。彼女の方から抱きしめにいくことだって、できた。

 そう、夢の中ならば。

(夢だもの)

 現実には、さまざまなしがらみがある。立場があり、役割があり、責任がある。そういったものが彼女をがんじがらめにする。羞恥心もあるし、相手のこともある。もし、本能のままに動いて嫌われたらどうしよう、などと年甲斐もなく考えることだって、あるのだ。もちろん、セツナがそんなことで彼女を嫌ったりするわけもないことくらい百も承知なのだが、考えざるを得ないのだ。

 だが、しかし、夢ならばそのようなことに苦慮する必要はない。夢なのだ。相手も、自分が想像したものに過ぎない。いくら触れようとも、拒絶されはしない。たとえ夢の中の幻像が拒絶したとしても、その痛みは一時的なもので済むだろう。なぜならばそれは本物ではないからだ。本当の彼に拒否されるわけではないからだ。

 だから、彼女は無意識に伸ばした指先で、彼の顎に触れた。夢だというのにやけにはっきりとした感覚があったものの、奇妙には思わなかった。夢だからといって、なにも感じないわけではあるまい。むしろ、現実以上に様々なことを感じるのが夢というものだ。それ故に彼の視線がこちらを見下ろしたときも不自然には感じなかった。いかにもセツナらしい、少し困ったような微笑みは、自分がどれだけ彼とのこのような触れ合いを熱望し、妄想していたのかという事実が明らかになるかのようであり、なんともいえない気恥ずかしさが彼女の意識を包み込んだ。身悶えしたくなる。

 夢だというのに、だ。

 そして、夢であるはずなのにこちらを見下ろしたセツナは、想像だにしないことをいってきたのだ。

「目が覚めたようだが、もう少しの間、我慢してくれよ」

「え……?」

 ファリアは、彼がなにをいっているのか理解できず、怪訝な顔をした。夢だとしても、あまりにも突拍子もない物言いだと想ったのだ。

「なにをいっているの?」

「説明は後だ。いまは、ただ我慢してくれればいい。結構、寒いからな」

「我慢? 寒い……?」

 いわれてみれば、確かに寒い気がした。夢の中の幸福感を消し飛ばすほどの体感温度の低さは、まるで極寒の世界をさまよっているようですらある。冬のリョハン並みとはいいすぎかもしれないが、それに近いくらいには感じる。そう意識すると、途端に体中が寒さを認識し始める。それでも頭部や伸ばした手の先以外、それほど寒さを感じないのは、ファリアの全身が毛布でくるまれているからだということに気づく。つまり、ファリアは毛布にくるまれた状態でセツナに抱え込まれていて、そのまま、セツナは空を翔んでいるということだ。

 夢なのだからこれくらいおかしなことがあっても不思議ではない。

 不思議ではないが、この頭が凍るくらいの寒さとセツナのどこか現実的な対処法がファリアの意識を急速に覚醒へと導いていった。

 これは、夢ではないのではないか。

 そう思い至った瞬間、なにが起こっているのかまったく理解できず、彼女の頭の中は混乱に次ぐ混乱でなにも考えられなくなってしまった。


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