第千九百六十九話 暗影(三)
「セツナ殿は、リョハンが一時、二分したような状況にあったことはご存じでしょうか?」
「……ええ。戦女神派と反戦女神派に分かれてたんですよね」
セツナは、アレクセイの言葉によって、多少の冷静さを取り戻しながら、頷いた。
レムが“死神”たちを用いてかき集めた情報によって、リョハンの政府というべき機構がふたつの派閥に分かれていたことや、その争いの経過について理解していた。
派閥争い。
どこの国のどんな組織にもあるものだ。ガンディアにだって当然のようにあったし、ガンディアが関わった様々な国の多くにも存在した。ひとが集まれば、派閥が生まれ、派閥が生まれれば対立が生じ、闘争へと発展するのは致し方のないことなのかもしれない。どれだけ上手くいっている組織であっても、派閥の形成を止める手立てなどあるものではない。そして、派閥がひとつ作られれば、第二第三の派閥が生まれるのもまた、必然なのだ。そして、派閥同士の抗争が始まるのも道理だ。
陸の孤島であり、一枚岩でなければならないはずのリョハンにおいても、そのようなくだらぬことが起こっていたという事実を知り、セツナは酷く落胆したものだったし、ファリアに深く同情したものだった。戦女神を中心に纏まらなければならないのがリョハンだったはずだし、これまでの数十年、そうやって上手く回っていたと聞いていただけに、護山会議や護峰侍団が若輩者の戦女神の足を引っ張るべく、反対勢力を作ったのではないか、と穿った見方をしている。
セツナとしては、ファリアの肩を持つのは当然だったし、ファリアに同情的であり、ファリアの敵対者に対しては冷ややかになるのも当たり前のことだった。セツナは、ファリアのことをよく知っている。少なくとも、護山会議や護峰侍団というわけのわからぬ組織よりも、ファリアの人間性、魅力については理解しているという自負がある。そんなセツナからすれば、戦女神ファリアのなにに対して不満を持ち、反勢力を作り上げたのか、まったくわからなかった。
集まった情報をいくら分析してもだ。
戦女神が推進してきたという政策のいずれを見ても大きな失敗はなく、むしろ、リョハンの安定化に大きく貢献しているように想えたし、なによりリョハン市民の評判を見る限り、ファリアは戦女神として上手くやれているようなのだ。リョハン市民、中でも空中都のひとびとは、二代目戦女神になんの不満も抱いていないどころか、礼賛し、信仰を深める一方だという。それなのに護山会議や護峰侍団の、反戦女神派とやらは、ファリアの功績を認めようともしないのだ。
セツナが反戦女神派に悪感情を抱くのは、当然だった。
ただ、その反戦女神派というのは、政治的なことだけであり、それ以外のこと――たとえば日常生活やファリア個人のこと――で戦女神を攻めることはなく、物理的に彼女を排除しようとする動きは皆無だった。戦女神がリョハンの中心であることを知る政治家や護峰侍団の幹部たちからしてみれば、ファリアを責めこそすれ、排斥することは無意味であり、むしろリョハンにとって有害であることを知っていたからだという。暗殺など以ての外だろう。
「でも、反戦女神派は、解体寸前だと聞いたのですが?」
「仰る通り、先の戦いの直後、議長モルドア=フェイブリルが失政の責任を取り、辞任したことで反戦女神派はその勢いを失いました。モルドア=フェイブリルが戦女神を擁護したことも、反戦女神派議員には大きな影響を及ぼしたことでしょう」
「だったら、どうして?」
ますます、わからなくなる。
前議長が反戦女神派の頭目であるという話も、セツナの耳に入っていたし、その彼が引責辞任したという話も聞いている。だからアレクセイが議長代理を務めているのだし、反戦女神派の勢力が衰えたのだ。モルドア=フェイブリルはリョハン最大の政治家であり、彼が反戦女神派の力の源といっても過言ではなかったらしい。その彼が護山会議の議員を辞めた以上、反戦女神派が力を失うのは道理だ。それ故、戦女神派こそが勢いを増したというし、それはリョハンにとっても良い兆候なのではないかとセツナは考えていた。
それなのに、暗殺計画が実行されるという。
意味がわからない。
「そもそも、反戦女神派は、当代の戦女神が政治的にあまりに幼く、拙いために生まれたもの。彼らに戦女神様への害意はなく、むしろ、戦女神様をより良い方向へ導くために存在していたというべきです。戦女神の政治判断に間違いがあれば声を大にして正そうとし、その考えが正しければ、口を挟まない。それが反戦女神派の実態だったのです」
「それならなおのこと……」
暗殺計画に及ぶ理屈がわからない。
「それが護山会議の議員たちのみの理論ならば、どうです?」
「え?」
「反戦女神派を標榜するのは、なにも議員たちだけではありませんでした。そのことはご存知ですね?」
「まさか、護峰侍団が?」
「護山会議の議員連中は、物分りがいいのです。リョハンをいかに良くするか、どうすればリョハン市民の生活が豊かになるか、安定するか……そんなことしか考えていない連中ですからな。反戦女神派の首魁であったモルドアが是とすれば、それに従いもしましょう」
「護峰侍団は違う、と?」
「護峰侍団は、護山会議の下部組織ですし、侍大将ヴィステンダール=ハウクムルは話のわからない男ではない。しかし、護峰侍団は武装組織。リョハンを防衛するための戦闘集団なのです。中には血の気の濃いものがいるのも事実。それを御するのが侍大将の務めですが、暴走されれば、どうしようもない」
「つまり、護峰侍団の一部が、戦女神様を暗殺しようとしている、と」
「はい。そして、わたしが掴んだ限りの情報では、今夜、決行されるということでしてね」
「……で、なんでまた俺にそんな話を?」
セツナは、未だ、アレクセイの話を信じられずにいた。理屈としては、わからないことではない。護峰侍団が血の気の多い組織であることは、先の戦いの最中、セツナの耳に飛び込んできた様々な声からも明らかだ。叱咤激励罵詈雑言が飛び交い、そんな中でも勝利のために命を削るものたちの咆哮は、いまも頭を離れない。断末魔もあった。しかし、そうやってリョハンのために命を張ったものたちが、戦いが終わったばかりのいま、リョハンの安定を崩すような行動を起こすだろうか。いくら血の気が多いとはいえ、リョハンの置かれている状況を理解できていないとは、思い難い。
リョハンは、戦女神を頂点にして支柱とする世界だ。だからこそ、ファリアが戦女神の後を継いだ。戦女神不在のリョハンは混乱の一途を辿っていたからであり、彼女が戦女神の座について早々に混乱は収束したという。それほどまでに戦女神への信仰が強い都市国家なのだ。そんな国に生まれ育ったであろう護峰侍団の武装召喚師たちが、戦女神亡き後のリョハンについて想像できないとは考えられなかった。
それに戦女神の暗殺計画を防ぐのであれば、なにもセツナに頼む必要がない。
戦女神には七人の守護天使がいる。七大天侍と命名された七名の武装召喚師を動員すれば、戦女神の暗殺を未然に防ぎ、なおかつ実行犯を捕らえることもできるはずだ。ミリュウが不在のいま、七人中六人しか動員できないとしても、暗殺を計画し、実行に移すような反乱分子がそう多くいるとは考えにくい。七大天侍のうち、動ける人数でも十二分に対応できるとセツナは見ていた。故にこそ、アレクセイがセツナに接触してきたことが奇妙でならない。リョハンを救った英雄とはいえ結局のところなんの関係もない部外者に過ぎないセツナではなく、戦女神直属の配下であるところの七大天侍に警告なりなんなりし、戦女神の身辺警護を強化してもらうべきではないのか。
セツナのそんな疑問は、アレクセイの思惑が明かされたことによって、無意味となった。
彼は、こういった。
「それでは、戦女神様を亡き者にせんとする勢力に警戒され、つぎの機会までの潜伏を招きましょう。彼らは狡猾です。わたしがようやく尻尾を掴むことができ、対策を練られたのはつい昨日のこと。もし再び彼らが地下に潜伏するようなことがあれば、今度はどのような手を用い、戦女神様に害をなそうとするものかわかったものではないのです」
「つまり、そいつらに暗殺計画を実行に移させ、実行犯として捕縛するということなんですね?」
「そうなります。そして、実行犯を問い詰め、首謀者をも引っ捕らえることができれば、戦女神様は安穏たる日々を取り戻すことができるでしょう」
「……この話、戦女神様は御存知なんですか?」
「まさか」
彼は、頭を振った。
「知れば、あの方は行動を起こさずにはいられないでしょう。そういう方です。、頑固で、一途で、健気で、使命のためであれば自分の命など顧みない――」
アレクセイが遥か彼方を見るような目をした。そのまなざしの先には、きっと、戦女神としてのファリア=アスラリアの姿が映っているに違いなく、ファリアが戦女神という役割を負ってから今日に至るまでの軌跡が彼の脳裏を過ぎっただろうことは想像に難くない。そして、そんな戦女神たる孫娘への深い慈しみと愛情に満ちた表情からは、祖父アレクセイの素顔が見え隠れしていた。彼がどれほど深く彼女を愛し、思い続けてきたのか、家族ですらないセツナには想像を絶するものがある。
「ですから、セツナ殿にお頼み申し上げるのです。七大天侍を動かせない以上、部外者でありながら、あの娘と関わりの深いあなたを頼るほかありません。どうか、戦女神様を、ファリアを守ってやって頂きたい」
「……話は、わかりました」
セツナは、アレクセイの話に多少の疑問を抱きながらも、彼自身のファリアへの愛情が確かなものであることには疑いを持たなかった。孫を想う祖父の気持ちに偽りはないだろうし、彼がファリアの身を護ろうと必死なのは、その表情、態度からも明らかだ。
「それでは?」
「アレクセイ殿の頼み事、承りました」
「おお……これは、心強い」
「俺が引き受けた以上、戦女神様の身の安全は絶対と心得くださって結構です」
セツナは、表情を明るくしたアレクセイの目を見つめながら、力強く言い切った。自信過剰でもなければ、傲慢さからくる勘違いなどではない。黒き矛の使い手たる自分が、複数名の武装召喚師相手であっても遅れを取るわけがないのだ。リョハンの武装召喚師とはいえ、人間の、それも暗殺に訴えることしかできないような連中に負けるはずがなかった。そのうえで、こうも付け足した。
「ただ、暗殺者の身の安全は保証しかねますが」
「どういうことですかな?」
「戦女神様のことを想えば、俺も加減を忘れるかもしれないということです」
セツナは、ファリアの祖父を前にして、そう告げた。
ファリアへの溢れんばかりの想いは、彼女との時間が遠ざかれば遠ざかるほど、強く、烈しくなっている。そんな状況下でファリアの足を引っ張るだけに飽き足らず、暗殺を企む連中がいると聞けば、腸が煮えくり返るのも無理のない話だと彼は想った。
そしてその想いの赴くまま、セツナは、アレクセイに暗殺者らを殺しかねないことを伝えたが、彼はセツナのその反応を頼もしいものと判断しながらも、そうする必要はない、といってきた。
「セツナ殿には、戦女神様をしばらく匿っていてもらいたいのですよ」
アレクセイの刃のように鋭い眼が、鈍く輝いた。