第千九百六十八話 暗影(二)
真夜中、夜陰に紛れて、空を翔けていた。
(そんなことがあるのかよ……!)
あってたまるか、と吐き捨てたい気持ちがあった。
それでは、彼女がなんのために二年以上も頑張ってきたのか、わからなくなる。血の滲むような努力も、血反吐を吐くような想いも、すべて無駄だったといわんばかりではないか。
無論、セツナは他人だ。赤の他人であって、彼女ではない。彼女の本心はわからないし、彼女がどのような努力をしてきたのか、真実を知っているわけではない。ただの想像だ。妄想といってもいいほどのものだ。しかし、セツナは彼女のひととなりをよく知っているし、彼女が一度引き受けたことは最後までなんとしてでもやり遂げる人物であることは、疑うまでもない。頑固で、意固地で、融通が利かないところが玉に瑕なほどだ。戦女神を引き受けたのであれば、どんな苦悩があろうとも、どれだけ負担があろうとも、身を粉にして働き、どのようなことにも骨を砕いてきただろう。全身全霊、それこそ魂を磨り潰すほどの想いでやり抜いてきたのだ。
だからこそ、彼女は戦女神に相応しい人物へと自分を作り上げることができた。
式典のとき、セツナは、確かに戦女神ファリア=アスラリアの偉大な姿を目の当たりにし、息を呑んだ。これがあのファリアなのか、と自分の目と記憶を疑うほどの変化だった。そこには、セツナの知っているファリアはいなかった。いつも冷静にセツナの補佐をしてくれた隊長補佐のファリアは、どこにも見当たらなかったのだ。
二年に渡る戦女神としての日々が、いまの彼女を作り上げたのはいうまでもない。そして、それこそが、彼女が血の滲むような努力をしてきた証なのだ。
一朝一夕に戦女神になどなれるはずもない。
生まれながら戦女神の後継者であり、後継者としての教育、訓練を受けてきたとはいえ、戦女神ではに期間のほうが長かったのだ。どれだけの苦労をしてきたのか、想像すらできない。セツナの想像力では、彼女の苦しみを理解し切ることは不可能なのだ。それが、少しばかり、悔しい。彼女の気持ちを完璧に理解したい。そう想った。いまも、そう考えている。
だからこそ、セツナは、逸る気持ちを抑えることもできず、夜空を駆け抜けていた。メイルオブドーターの飛行速度を全開にして、夜風を貫く。頭上には、満天の星々が輝いている。まるでいまにも降ってきそうな星空だった。夜空が地上よりも近いからだ。空中都は、リョフ山の頂に抱かれている。そしてそのリョフ山は、世界に誇る峻険だ。標高何千メートルあるのだろう。とにかく高く、そのために寒く、空気も薄い。そんな世界で戦女神として、指導者として、柱として在り続けることの責任の重さは、想像を絶するものがあるに違いない。
そんな彼女だからこそ、リョハンのひとびとは戦女神と崇め讃えているのではないのか。
セツナは、叫びたかった。
なぜセツナがそこまでの想いを抱き、焦燥感に苛まれるようにして夜空を飛翔しているのか。
原因は、数時間前にある。
セツナが北の離宮で待ちわびていた老人と接触したあとのことだ。
「――こちらへ、来てくださりませんか?」
頭巾の老人が示したのは、彼が出てきた建物だった。小さな建物だ。北の離宮のほかの建物群と同じ構えの古びた建物。扉はなく、戦宮を思い出す作りをしている。中は影になっており、内部を窺い知ることはできそうにない。老人はいまのところ、セツナに警戒心を抱かせるような気配を見せてはいないが、素顔を隠し、目だけを見せている状況では信用するに値しない。その眼力も相当なものであり、鈍く輝く鋭利な刃を思わせた。
「あなたが俺に害意がないという保証は?」
「害意があろうと、このような老人に殺される英雄殿ではありますまい?」
「あなたがひとりなら、ね」
「……なるほど、確かに一理ある。では、英雄殿が指定した場所に向かいましょう」
「……それなら」
セツナはうなずくと、南側の建物を指差した。その建物内にも老人の手配した人数が潜んでいる可能性は皆無ではなかったが、特別警戒する必要はないと判断した。例え老人がセツナに害意を抱き、手勢を潜ませていようと、セツナを暗殺するにたる戦力が用意できるとは考えにくい。いっていることとは逆のことではあるが、いったのは、一応、警戒しているというふりをするためだ。
警戒するまでもない。
老人との距離を意識しながら、南の建物内に足を踏み入れる。
建物内は、ほかと同様、暗い影に包まれていた。冷ややかな空気は、真冬のガンディア以上の気温の低さを実感させ、いかにあの国が気候に恵まれていたのか、身を以て理解する。小国家群の中でも特に温暖な気候に抱かれたガンディアには四季があり、三月には春の穏やかな日差しと気温に包まれたものだった。リョハンは違う。未だ冬の支配力が強く、春は遙か彼方といってもいいほどに遠かった。
そんな寒空の下、夜が近づくに連れ、気温も下がり続けている。防寒着を着込んでいることもあってなんということもないのだが、それもいつまで持つものかどうか。御陵屋敷の一室に籠もって暖を取りたくなるのも時間の問題だろう。
とはいえ、いまは目の前の事態に集中しており、寒さも大した問題にはならなかった。
頭巾に防寒着の老人は、セツナが建物内の様子を確認するのを待ってから、入ってきた。老人が手をかざすと、淡くも冷ややかな光が灯り、がらんとした建物内の様子が照らし出された。携行用の魔晶灯だ。おそらく暗くなるであろう帰り道のためなのか、それとも、建物内での密談のためなのか。おそらくは両者だろう。
「存分に、確認なされよ。まだ時間はありますからな」
「……まるでなにかの時が迫っているような台詞ですね?」
「ええ、まあ……」
老人の反応は、なんともいいがたいものであり、要領を得ない。
セツナは仕方なく、建物内を少し調べ、すぐに諦めた。なにやら資材置き場のようであり、様々な荷物が積み上げられた建物内には、ひとの隠れる隙間はなかった。離宮と呼ばれてはいるものの、どうやらそれほど重要な施設ではないのかもしれない。だからこそ密会の場所に指定してきたのだろうが。
「しかし、英雄殿があのような不審な手紙に対し、なんら警戒せずに応じるとは想いもしませんでしたな」
老人は、子供から受け取った手紙の内容を吟味せず、ここまで来たことに対し、セツナの無警戒ぶりに疑問を感じたようだった。疑問というよりは、失望に近いのかもしれない。しかし、セツナは、こともなげに言い放つことで、老人の虚を突く。
「警戒する必要もないからですよ」
「ほう?」
「たとえこの場に現れたのがあなたのようなご老人ではなく、手練れの武装召喚師複数人であったとしても、俺を害することなんてできやしませんから」
やはり、先程とは真逆の言い分ではあったが、老人はさして気にしなかったようだ。むしろ、セツナのそういう不遜な言い分のほうが気にかかるらしい。眉根を寄せている。
「随分と自信を持っておられる。ここを武装召喚術の総本山と知っての発言とも想われぬが……」
「その武装召喚術の総本山存亡の危機を救った相手に対する物言いとは、とても想えませんね」
「……確かに」
老人は、一本取られたとでもいいたげに苦笑し、目を細めた。幾重にも刻まれる皺の数が、さながら年輪のようであり、彼の背負った時間の重さを感じさせる。そして、彼は頭を振ると、手を頭巾に伸ばした。
「仰るとおりだ。だからこそ、あなたに頼らざるを得ないのです。セツナ殿」
「あなたは……」
セツナは、おもむろに頭巾を取った老人の素顔を見た瞬間、衝撃のあまり言葉を失った。頭巾の中から現れたのは、だれあろう護山会議長代理アレクセイ=バルディッシュだったのだ。
「アレクセイさん……ですよね? ファリア、いや、戦女神様の祖父の」
セツナは、なにがなんだかわからず、彼にその名を尋ねるほかなかった。尋ねるまでもなく、アレクセイ本人であることは明白だ。そっくりそのままの赤の他人であろうはずもない。そんな人間がリョハンにいるのであれば、ファリアから聞かされているはずだ。そういう話がない以上、同じ顔をした他人ではない。アレクセイ=バルディッシュ本人。だからこそ、セツナは混乱する。なぜ、彼ほどの人物がセツナを呼び出したのか。いや、それだけならばまだしも、なぜ、あのようなまどろっこしい方法を取らざるを得なかったのか。
老人は、厳かに頷いてくる。
「ええ」
「どうして、あなたほどの御仁がこんな手間のかかる方法を用いたんです? 俺に用事があるなら、直接呼び出せばいいじゃないですか」
「確かに議長代理の権限を駆使すれば、あなたを呼び出すことはたやすい。ですが、そういう方法を用いれば、いらぬ憶測を呼ぶやもしれませんし、無用な警戒を招きかねない」
「警戒?」
不要な憶測を呼ぶかもしれないということを危惧するのは、わからなくはない。
アレクセイの立場が微妙なものだという話は、レムからも聞いている。レムの地獄耳(”死神”を駆使した情報収集)は、リョハンの内部事情を知る上でも大いに役立っている。
彼が議長代理となったのは、先の議長モルドア=フェイブリルが政策の失敗を受け、引責辞任したためだ。つぎの議長が決まるまでの空白を埋めるのが議長代理の役割であり、彼が議長代理に選ばれたのは任期の長さからだという。実力や実績を買われてのことではなく、そのことから、議長代理としての権限を行使しすぎると、ほかの議員たちとの確執や軋轢を生みかねず、あまり表だった行動にはでられる状況にはないとのことだ。故に、彼が議長代理としての権限を駆使してセツナと直接面会するのを控えるのは、わからないではなかった。
それにアレクセイは、当代の戦女神ファリア=アスラリアの祖父であり、戦女神に大きく肩入れしていることを公言してはばからない人物だ。そんな彼が戦女神と関わりを持つ、英雄”護山義侍”セツナとふたりきりで会おうというものならば、くだらない憶測が飛び交ったかもしれない。
そういうことを警戒し、セツナを会うためにあのような手順を用いたというのは、十二分に理解の及ぶことだ。しかし、どうやら彼のいう警戒とは、彼自身のことではないらしい。
「ええ。彼奴等が警戒し、慎重さを身につけるのは、我々としても厄介極まりないことなのです」
「彼奴等? 話が全く見えてこないんですが」
「では、単刀直入に申します」
アレクセイが、苦い顔をことさら厳しくした。
「今宵、戦女神の暗殺計画が実行されるのです」
「はっ……!?」
セツナは、想いも寄らぬアレクセイの発言に素っ頓狂な声を上げかけて、あわてて両手で口を覆った。いくら人気のない北の離宮のはずれとはいえ、大声を上げれば、だれかに聞こえるかもしれない。そうなれば、セツナはともかく、アレクセイがまずい。もちろん、レムが”死神”を駆使して周辺の警戒に当たってくれてはいるものの、万が一にでもこの場に部外者が現れれば、それこそつまらぬ憶測がアレクセイの首を絞めかねない。
「なんだって……? 暗殺計画? 戦女神様の?」
反芻して、ますます混乱する。
戦女神とは、無論、ファリアのことだ。ファリア=アスラリア。セツナの最愛のひとであり、老人にとっても最愛の孫である人物。そして、このリョハンの中心にあって、天地を支える柱の如く敬われ、尊崇される存在であるはずだった。まさに神の如き存在であり、神聖不可侵、犯意など抱くものなどいようはずもないとされる人物だった。きな臭い話も聞いてはいる。しかし、それは政治的な問題であって、彼女の政治的敵対者はいずれも理性的であり、実際に彼女に害意を成すことなどありえないとも聞いていた。そも、リョハンの秩序の根源たる戦女神を暗殺することは、戦女神の政敵たちにとっても喜ばしいことではないはずだった。
リョハンの混乱を纏め上げるために戦女神の座についたのがファリアであり、実際に混乱を収め、リョハンに安定をもたらしたのだ。そんな彼女を暗殺で失えば、瞬く間にリョハンの秩序は失われ、混乱は加速するだろう。だれの得にもならない。
「はい」
「だれがいったいなんのために?」
セツナは、苦渋に満ちたアレクセイの顔を見つめながら、言いようのない怒りに身を震わせた。心が燃えたぎり、全身を巡る血が沸騰するかのようだった。ことは、ファリアの命に及ぶ。セツナの感情が一気に沸点に達したのは、当然といってよかった。
ファリアがいかにリョハンのために尽してきたのかについては、マリアやルウファたち、またレムがリョハンで集めた情報からわかっているし、彼女の性格をよく知るセツナには想像するにあまりあるものだった。
戦女神暗殺計画とやらは、そういったファリアの二年以上に及ぶ努力を全否定するものだった。
「説明すれば長くなりますが……しかし、知っておいていただく方がよいでしょうな」
老人は、嘆くように告げてきた。