第千九百六十六話 平穏の中で
勲章授与の式典が執り行われてから二日が経過した。
三月十八日。
第二次リョハン防衛戦から十日以上を経過したこともあり、大いに安定を取り戻したリョハンは、空中都、山間市、山門街のいずれも平穏な日々を送ることができているという話がセツナの耳にも伝わってきていた。
「御主人様、機能回復訓練と致しまして、山間市まで出歩くというのはいかがでございましょう?」
「こんないい天気なのにか?」
セツナは、晴れやかな青空を仰ぎ見て、いった。春には程遠い気温の低さを忘れられるほどに澄みきった青空は、ようやく消耗による後遺症から開放され、心身ともに回復に向かいつつあるセツナの心模様そのもののようだった。
というのも、山間市は、その名から想像できるようリョフ山の間、山中に穿たれた巨大な空洞内に築き上げられた居住区だというのだ。
レムは、そのリョフ山が誇る大空洞と、大空洞内に作り上げられた町並みを一目見てみたいというのだ。
まるで観光気分だが、せっかく空中都市リョハンという世界的にも有名な遺跡都市を訪れたというのに、セツナの看病か戦女神や守護神の呼び出しに応じる以外、なにもできなかったレムにとっては、ちょっとした気分転換でもあるのだろう。
セツナ個人の気分としては、晴れやかな空の下に抱かれた空中都の町並みを満喫したかったが、ここは、数日もの間眠り続ける自分を看病してくれた従僕の望みを叶えてやるべきだという結論に至った。
レムにはさんざん心配をかけた上、苦労をしてもらったのだ。それが下僕壱号を名乗る彼女の役割といえばそうなのだが、セツナは、彼女をただの下僕だなどと想ったことはなかった。ラグナにしてもそうだし、ウルクにしてもそうだ。下僕とは、言葉の綾に過ぎない--と、セツナは考えている。
本心から彼女たちをセツナの下僕であり、自分のために尽くせ、などと想ったこともなかった。そのため、ガンディア時代、セツナとレムたちの関係性に不思議そうな顔をするものが少なくなかったが、セツナとしては彼女たちを下僕としてこき使うという発想がないのだから、仕方がない。
便宜上のことだ。方便と言い換えてもいい。レムやラグナたちを側に置くための言い訳。セツナ自身の下僕ならば、ガンディア政府に召し上げられることもなければ、ガンディア軍に取り込まれることもない。
もっとも、レムがセツナの下僕を名乗っているのは、そういう理由だけではないが。
単純に、そういうやり方のほうが、彼女の性に合っているというだけのことだろう。そして、セツナもそれでいいと想っている。レムがやりやすいようにやればよく、下僕が嫌になったならやめればいいとさえ、考えていた。当分は、下僕壱号を堪能するつもりでいるようだが、そのことには感謝しかない。
「ま、レムがそこまでいうなら、行ってみるか」
セツナが結論を述べると、レムは手を叩いて喜んだ。数日に渡って御陵屋敷に閉じこめられていたといっても過言ではない彼女には、ちょっとした不満が鬱積していたのかもしれない。
「さすがはわたくしの可愛らしい御主人様でございます」
「可愛らしいってなんだよ」
「本当のことにございますよ?」
レムは当然のことのようにいってくるが、セツナには納得ができないことだ。
「がらじゃねえだろ」
「そんなことはございませぬ」
レムは、セツナの長い髪をもてあそびながら、強く否定してくる。
「眠っておられる間、御主人様の髪の毛で遊んでいたのですが」
「おい」
「こう、結わえるとなかなか可愛らしくて、終始にやにやしておりましたよ? わたくしが、ですが」
レムは、セツナの長く伸びすぎた髪を右側頭部で纏めると、どこからか取り出した細帯で束ねて見せた。そして、懐から取り出した手鏡でセツナの顔を映し出す。セツナは、側頭部に大きな尻尾が生えた自分の顔を見て、愕然とするほかなかった。似合うわけもないし、自分が眠っている間、レムがそのようなことをして暇つぶしをしていたのかと想うと、彼女の苦労をねぎらおうとしたことが少々馬鹿馬鹿しくもなる。レムらしいといえばレムらしいのだが。
「どこが可愛らしいんだか」
「なにもかもでございます。今度、御主人様の体型にあった可愛らしい衣服を仕立て上げますので、ぜひぜひ、着てくださいましね?」
「きねーよ」
セツナは、さすがの女装は電光石火の早業で拒絶すると、レムの結んだ帯を解き、落胆する彼女に手渡した。空中都のど真ん中だ。護衛の武装召喚師だけでなく、リョハンの一般市民が遠巻きにセツナたちを見ていた。一部始終をだ。
セツナはなんとも居たたまれなくなって、その場から走り去った。
空中都を南へ。
空中都と山間市を結ぶ通路というのは、ひとつしかない。それは、リョハンにおいて空中都がもっとも重要な場所であり、もし敵対勢力に攻め込まれた場合、戦力を集中し、守りやすくするためだった。敵軍が山間市を突破したとしても、戦力を通路に集中すれば空中都の防衛はなる。
それも決して広くはない通路ならば、敵軍がどれだけ大軍勢を繰り出してこようとも、激突する戦力というのは均等になりうる。しかも、リョハン側はリョフ山の内部構造を熟知しており、隠した通路を利用し、神出鬼没の戦いを展開することができるのだという。
もっとも、リョハンとしては、山間市が落ちた時点で敗北も同然であり、空中都・山間市間の通路で戦闘が起こるようなことなどあってはならない、という話だった。
ちなみに山間市と山門街を結ぶ通路は複数あり、山門街が戦場になった場合、各所から戦力を集結しやすくしているとのことだ。
話を戻すと、山間市への通路は空中都の南側にあるのだが、セツナたちは結局のところ、山間市の探索をあきらめなければならなくなった。
なぜならば、空中都の南に聳える天門前で遊んでいた子供たちが突如としてセツナに向かって押し寄せてきたからだ。もちろん、空中都に住む子供たちだろう。五、六歳くらいで、十人近くいた。皆、分厚い防寒着から両腕を放り出すような格好で遊んでいたらしいのだが、セツナが通りかかると、待ってましたとばかりに駆け寄ってきている。セツナが山間市に向かうという話をどこかで耳に挟んだのだろうか。、
そして、年長者らしい男の子が問いかけてくる。
「お兄ちゃん、えいゆうさま、だよね?」
「あー……」
「そうですよ、お兄さんはリョハンを救った英雄様なのです」
セツナが返答に戸惑うのを見越したかのようなレムの返事に、彼は顔をしかめた。しかし、子供たちのくりっとした目が一斉に輝き出すのを目の当たりにすると、なにもいえなくなる。男の子もいれば、女の子もいて、皆、先の戦いにおけるセツナの活躍を聞き知っているようだった。興奮を隠しきれないといった反応は、セツナに感動を与える。
「えいゆーさまー!」
「えいゆうさまじゃなくて、ござんぎしだよ!」
「えー、でもえいゆうさまだって」
「これこれ、君たち、セツナ様の邪魔をするんじゃあない」
護衛のひとりが、セツナと子どもたちの間に割って入ろうとすると、レムがそれを制した。
「まあまあ、よろしいではありませんか。この子たちに悪気はなさそうですし」
「そうだな」
「セツナ様方がそう仰られるのなら、我々としてもなにもいうことはありませんが……」
護峰侍団の隊士は、不承不承といった様子でありながらも、無邪気な子供たちの姿には頬を緩めざるを得ないところがあるようだ。
リョハンは、陸の孤島と呼ばれている。
ヴァシュタリア共同体勢力圏という大海原に浮かぶ小島なのだと。
その孤島の秩序を維持するためには、ひとびとの絆が重要なのだそうだ。ひととひとが手を取り、助け合うことを規範としなければ、ヴァシュタリアの圧力に屈することなく数十年の歴史を積み重ねることなどできなかったのだ。
ヴァシュタリアはリョハンの独立を認めたとはいえ、リョハンが再びヴァシュタリアの支配を受け入れることを望み、画策していたという。リョハンは、一枚岩となってヴァシュタリアの陰謀に立ち向かわなければならなかった。
老若男女、だれも彼もが知人であり、友人であり、家族であり、同胞であるという意識がリョハン市民のだれもが持つのだ。護峰侍団の隊士の反応は、まさにそれだ。自分の家族の子供を見守る大人の笑顔だった。
セツナは、そんなリョハンの空気感が嫌いではなかった。子供たちのはつらつとした様子から、リョハンが子供たちにとって住みやすい場所であるということも明らかだ。子供が住みやすい場所というのは、生活環境がよく、衛生面も悪くないということであり、遊び回れるということは事件事故に巻き込まれる危険性が少ないということでもある。
実際問題、護峰侍団隊士の話によれば、リョハンは全居住区を合わせても犯罪の発生件数はきわめて少なく、”大破壊”以前はヴァシュタリア勢力圏内でもっとも平和な都市としてだれもが胸を張っていたものだという。
戦女神への信仰や家族意識、同胞意識が犯罪の発生率を極端に低下させているのだろうということは、リョハンの平穏極まりない様子を見れば想像もつく。
「それで、俺になにかようかい?」
セツナは、その場に屈み込むと、男の子と目線を合わせた。すると、年長者の男の子は、懐から封筒をひとつ取り出し、手渡してきた。
「これ、えいゆうさまにって!」
「俺に? だれからだい?」
セツナは封筒を受け取ると、にこにこと笑顔を浮かべる男の子に問いかけた。しかし、男の子は、セツナが封筒を受けるとやいなや、セツナから離れていった。子供たちもまた、彼に続く。
「ちゃんとよんでね! わたしたからね!」
「あ、あ、おい、ちょっと……」
セツナは慌てて呼び止めたが、時既に遅しとはまさにこのことで、子供たちは、あっという間に遠ざかっていった。レムも護衛の隊士たちも、あっけにとられたような顔をしているが、きっとセツナも同じように間の抜けた表情になっているに違いない。
「行ってしまいましたねえ」
「なんだったんでしょう?」
「これを渡したかったんだろうけど……」
セツナは、手渡された封書を太陽に翳し、中身を透かしてみた。薄っすらと、紙片が入っているらしいことがわかる。
子供たちからの感謝の手紙、というわけではなさそうだった。
なにかしら、不穏なものを感じて、セツナは山間市行きを一端取りやめることにした。