第千九百六十一話 英雄と守護神
「やあ、待っていたよ」
肉声でもって迎え入れてくれた相手に対し、セツナは、その変貌ぶりに驚きを禁じ得ないことを気まずく想った。
空中都監視塔最上層・守護神の座に、彼はレムとともに招き入れられている。
守護神の座は、その名の通り、リョハンの守護神であるマリク神の御座すところであり、神殿といっても過言ではないという話だった。監視塔そのものは、空中都全体を見渡すことのできる高層建造物のことであり、まさに長大な塔だ。その最上層に守護神の座はあり、マリクはその中心、神の居場所として相応しく飾り立てられた領域にいた。
マリクは、以前の姿とは様変わりしたといっていい姿だった。セツナの記憶の中には、十代半ばから後半の少年時代、人間時代の彼の姿が記録されており、その姿といまの姿を見比べると、変わり果ててしまっていた。少年めいた姿はそのままに、神々しい雰囲気を纏い、金色に輝く目だけでなく、全身が淡く光を発しているように見える。それだけで以前の彼とは比べ物にならない存在感があり、神秘性を感じずにはいられない。
守護神の座には、セツナたちを除き、マリクしかいなかった。彼の世話係のようなものはいないらしい。いたとしても、席を外しているのかもしれない。
「よく来てくれたね、セツナ」
マリク神は、相も変わらぬ馴れ馴れしさで話しかけてくるが、セツナは、どう対応すればいいのかわからず、少しばかり困惑した。
彼とは、別段、深い付き合いではない。彼と知り合ったのは、彼がまだ人間としてこの世界にあった時代、ガンディアが隆盛を迎え、クルセルクとの存亡を賭けた戦いの最中のことだった。彼はリョハンから救援に訪れた戦力のひとりであり、戦女神の四大天侍のひとりとして、クルセルクの戦場にてその力を発揮した。リョハン史に残る天才児と謳われた少年武装召喚師は、セツナから借りた黒き矛の力を存分に引き出して見せたことを覚えている。それによって黒き矛の秘められた力の強大さを理解するとともにマリク自身の武装召喚師としての実力を把握したものだが、いまとなっては、あれも神だったからこそのものなのかもしれない。
「神様がお呼びとあらば、参上せずにはいられませんよ」
「へえ、信心深いんだね?」
マリクがセツナの反応に対し、面白いものでもみたかのような顔をした。
「神様の呼びつけを無視したら、なにされるかわかったものじゃあないですから」
無論、冗談ではあるが、セツナがレムを伴って守護神の座を訪れたのは、マリクから呼び出しを受けたというのは事実だ。呼び出しというよりは、お願いだが。
ちょうど、勲章授与の式典後にはなにも予定がなく、ファリアとも話す時間が持てなかったこともあり、手持ち無沙汰になったセツナは、レムと話し合って、マリクの招きに応じることにした。そのため、護峰侍団の隊士ひとりを先行させている。
「呪われるかもって?」
「まさに」
セツナがうなずくと、マリクが目を細めた。深い睫毛に彩られた双眸は、少女のそれのように美しい。
「……神に呪われたという君にこういうのもなんだけれど、神がひとを呪うことは本来、ありえないことなんだ」
「はい?」
「レムから聞いたよ。セツナ。君、呪われたそうだね? アシュトラ……ヴァシュタラの一柱に」
レムを一瞥すると、彼女はなにもいわず頷くだけだった。セツナが気を失っている最中にでも、マリクと話し合う機会があったのだろう。そこで、彼女はセツナがアシュトラに呪われたことを彼に伝え、その呪いというものがどういったものなのか、聞き出そうとしたに違いない。神の御業は、神に聞くのが一番だろう。
「ああ。といっても、あれ以来、別になにも変わったことはないんですがね」
夢の淵で、とんでもない宣告を受けたが、それだけだ。それだけのことで、生活には一切の支障はなかった。生活だけではない。戦闘にも、なんの問題も出ていない。数日あまり眠り続けていたのだって、そうだ。あれが呪いの力などではなく、消耗し尽したことによる反動だということはわかりきっている。呪いのせいではない。
「……そうか。それならいい。おそらく、アシュトラも大したことはできなかったんだろうね。君と、黒き矛の、魔王の杖の力に翻弄され、頭に血が上ったのさ」
「神様なのに?」
「神とは元来、完全無欠の全知全能なるもののことだ。けれどもこの世に満ちた神々はすべて、全知全能とは程遠い存在だ。肉体を成し、自我を得、人格を獲得したとき、神はようやく形をなすことができるのだけれど、同時に完璧さも失うんだよ」
ぼくのように、と、彼は自分を指し示しながらいった。
「全知全能であるはずの神が不完全な別物へと成り果てる。そうして誕生したものたちが神を名乗り、神の如く振る舞い、神のようにあろうとする。おかしなことだけれど、それがこの世界……いや、ありとあらゆる世界の条理となってしまった。いまさらその仕組を変えることはできないだろうね。一度自我を得た神々がみずからを手放すとは思えない」
「全知全能とは程遠い……か」
「とはいえ、そこらへんの生き物とは比べ物にならないのは間違いないよ。君に敗れ去ったアシュトラだって、本来ならばだれひとり太刀打ちできないはずだ。君と、魔王の杖でなければ、ね」
そういい切るマリクに対し、セツナは反論の言葉を持たなかった。確かに彼のいうとおりだ。アシュトラには、黒き矛を手にしたセツナ以外のだれひとりとして、太刀打ちできなかっただろう。たとえばシドやベインたちが完全な状態であり、真躯の力を限界まで引き出せたとしても、喰らいつけたかどうかさえわからない。
次元が違うのだ。
神に対抗しうるのは、神に匹敵する力を持ったものだけだ。
神に力を貸し与えられた十三騎士では、とてもではないが、敵うわけもない。
「アシュトラは、魔王の杖の力を侮っていた。それがどういったものであるかを把握できていなかったんだ。哀れにもね。その結果、君との戦いの中で圧倒され、翻弄され、神としての自尊心に傷がついた。神としての己を見失ったとき、彼は最終手段に打って出た。それが呪いだ」
「最終手段ねえ」
セツナは、拳を作り、開くようにして感覚を確かめた。呪われて以来、感覚に異変は起きていない。肉体に作用する呪いではないのか、それとも、わかるほどのものではないのか。
「神は元来、人間を呪わないものだ。なぜならば、神は人間の祈りによって生じたものであり、人間を祝福するために存在するといっても過言じゃあない。神が人間を呪うということは、みずからの存在理由を否定するということにほかならない。そして、それを果たしたとき、神は神でいられなくなる。みずから呪われるのさ」
「え……?」
マリクの説明にセツナは衝撃を受けた。神ではいられなくなるとは、いったいどういうことなのか。
「では、アシュトラ様も?」
「アシュトラが本当にセツナを呪ったというのであれば、アシュトラはもはや神ではない、低次元の存在へと変わり果てていることだろうね。低位の神であれ、高位の神であれ、そこに例外はない」
「そんなことが……」
「だから、神たるものはひとを呪わない。ひとを祝福し、ひとに力を与え、ひとの願いを叶えようとする。その方法は神によって様々だし、中にはアシュトラのような邪神とも呼べる存在もいる。けれども、邪神ですら人間を呪いはしないんだ。それは、神の本質を否定する行い以外のなにものでもないのだからね」
マリクの話により、セツナは、これまで逢ったことのある神々を思い出した。ミヴューラ、アシュトラ、マウアウ、ラジャム。アシュトラを除き、いずれも人間に対し、好意的な神々だった。ミヴューラは人間に力を貸し、マウアウは人間を巻き込まんとし、ラジャムは人間の闘争を好んだ。アシュトラは、人間の人生を狂わせることを楽しんでいたまさに邪神というふ相応しい神だったが、そういった神のほうが少ないのかもしれない。
そして、そんな邪神だからこそ、セツナに圧倒されたことで我を忘れ、神としての本質さえも忘れてしまったのだろう。セツナを呪い、みずからもまた、呪われてしまったのではないか。それがなにを示すのかはわからないが、アシュトラが己の軽はずみな行動のせいで呪われたというのであれば、ざまあみろと内心いいたくなった。溜飲が下がる。
マリクが不意に目を細めた。
「ただ、今回の場合、問題はそこにあるんだ」
「問題?」
きょとんとする。いったい、彼がなんの話をしているのか見当もつかない。
「呪いの唯一の解決策は、呪いをかけた当人に解いてもらうということなんだ。呪いを解くためには、それ以上の方法はない。そして、アシュトラが神ならざるものへと成り果てている以上、アシュトラ神の呪いを解くことはできないだろう」
「なんでそうなるんだ?」
「神とそれ以外では次元が異なるからね。たとえアシュトラが君の呪いを解こうとしても、解けないんだ」
「……へえ」
セツナは、再び自分の両手を見下ろした。傷だらけの両手は、彼の思い通りに動く。呪いの影響など微塵も感じない。そもそも、呪いとはどういったものなのかわからない以上、手足が思い通りに動いたからといって、関係あるのかどうかすらわからないが。
「御主人様は呪われたままだということですか?」
「そうなる」
マリクが断言すると、レムが肩を落とすのが気配でわかった。セツナは、そんなレムの心配に感謝しながらも、それ以上の心配は不要だと胸を張っていいたかった。
「ま、いいんじゃねえの?」
「セツナ」
「御主人様……」
「さっきもいったけどさ、なんの問題もないみたいだし、これからさきも問題なんて起きねえよ」
「……そうだね」
マリクが静かにうなずいてくる。
「きっと何の心配もいらないさ」
セツナは、レムを心配させまいと強気にいい切って見せた。実際、いまのところなんの問題もないのだ。呪われてから随分経つというのにも関わらずだ。それなのに、セツナの肉体も精神も、なんら不自由がない。故に呪いとはどういうものかすらわからないのがセツナだった。
いまとなってみれば、アシュトラの負け惜しみとしか思えない。
セツナは、マリクにそのことを問うた。
「そもそも、呪われたからってなんだってんだ? いまのところ、なんの影響もないぞ?」
「それは単純に呪いの影響がまだ現れていないからかもしれないし、微々たるものだからかもしれない。あるいは、アシュトラが呪いをかけ損なったか。神たるものがそのようなドジを踏むとは思えないけれどね」
とはいうものの、人間に呪いをかけるという神としてはあるまじき行いをしたのがアシュトラでもある。呪いをかけそこなったというのも、ありえないことではないのではないか。などと想う一方、やはり、それはないだろうとも考えるのだ。アシュトラは、激昂のあまり我を忘れただけのことだ。神の力による呪いまで失敗しているとは考えにくい。そしてその結果、アシュトラ自身も呪われたのだとすれば笑い草だが、セツナ自身としては笑い話ではすまない。たとえばその呪いの力が、アシュトラがいったとおりの効力を発揮するのだとすれば、笑うに笑えない。
もっとも、呪いの力でセツナ自身の運命が捻じ曲げられ、不幸に堕ちたとしても、それそのものは大した問題ではない。別に幸福になりたいためにいまを生きているわけではないのだ。自分がどれだけ不幸になろうと構いはしない。だが、そのために、自分が呪われたがために周囲の人間まで巻き込み、不幸を撒き散らすようなことだけはしたくはなかった。それこそ、周囲のひとたちには幸福になって欲しいというセツナの願いに反することだ。
「じゃあ……影響が少ないのか、まだ現れていないだけってことか」
「うん。そして、呪いによる影響なんてのは、千差万別だ。肉体に直接作用することもあれば、精神に異常をきたすような呪いもある。呪いをかけたものにすら、なにが起こるのかわからないことだってある。アシュトラがセツナにどのような呪いをかけたのかなんて、ぼくにわかるわけもない」
マリクが嘆くように頭を振るのを見て、セツナは少し残念な気持ちになった。マリクに呪いのことを問うたのは、彼が神であり、神ならば多くの知識を持っていると想ったからに他ならない。完全な答えはなくとも、なんらかの手がかりが得られるものと考えていたのだ。
「そっか……神様なら、なにかわかるかと想ったんだけど」
「すまない。君の力になれなくて」
心の底から無念そうにいってくる神様の姿に、セツナは、むしろ申し訳なくなった。
「いや、謝ることじゃあないさ。呪ったのはアシュトラで、呪われたのは俺自身の問題だ。マリク様が悪いわけじゃない」
「ふふ、マリクでいいよ」
「でも、神様だし」
「くすぐったいんだよ、君にそういわれるのは」
「そうか? じゃあ、そう呼ばせてもらうよ、マリク」
セツナがあっさりと彼の言に倣うと、マリクはにっこりと微笑んだ。かつての美少年の面影が、神としての超然とした造形の中にある。発光する肉体も、慎ましやかな光背も、変容した容姿も、以前のマリクとはなにもかもが違うというのに、彼にはマリク=マジクのにおいが多分に残っていた。だからだろう。セツナが彼に親しみを感じていた。
「ああ、それでいい。神様なんて呼ばれているけれど、神様らしいことなんてなにひとつできていない有様なんだ。敬われるほうが気持ち悪い」
「そうでございますか?」
レムが、マリクの言動に驚いてみせた。
「わたくしには、立派に守護神をなされているように思えてなりませんが」
「そういってくれるのはありがたいけれどね。実際には、君たちの力がなければリョハンを護ることもできなかった体たらくだ。神としての存在理由さえ見失いかけそうだったよ」
そういって、マリクは遠い目をした。
彼がその金色に輝く神の目でなにを見ているのか、セツナには想像すらできなかった。悠久の時の流れを感じさせるまなざしだったのだ。