第千九百六十話 英雄と戦女神(七)
いや、いいも悪いもないことくらいわかっている。
わかりきっている。
彼女は、責務を全うしようとしているだけだ。自分に与えられた戦女神という、ほかのだれにも真似のできない役割に全身全霊で挑み、リョハンに安定をもたらそうとしているだけのことだ。それは理解しているし、それが最善であるということも把握している。そうするよりほかはない。このリョフ山という峻険に抱かれた都市に生きるひとびとにとって、戦女神こそが生きるために必要不可欠なものだった。空気と同じだ。なくてはならない。なければ、どうにも纏まりがなくなる。
どれだけ護山会議が善政を敷き、より良い生活を送れるようにと努力したところで、市民の心の奥底に刻まれた戦女神への信仰心を揺るがすことはできなかった。
先ごろ、引責辞任により護山会議長より降りたモルドア=フェイブリルが会議の席で言及したことは、事実だ。護山会議は、リョハンのヴァシュタリアからの独立に際し、どのようにすればリョハン市民の心をひとつに纏め上げ、滞りなく導いていけるものかと考えあぐね、散々に頭を悩ませていた。独立戦争の折り、ヴァシュタリア軍を相手に古今無双というに相応しい活躍を見せた武装召喚師のうち、ファリア=バルディッシュに白羽の矢が立ったのは、彼女がだれにもまして英雄的であり、勝利をもたらす軍神の如き戦いぶりを見せたからだ。そして、その栄光に満ちた活躍ぶりは、リョハン市民にも知れ渡っており、彼女の名を利用しない手はないと考えたのも無理のない話だ。
そこまでは、アレクセイにもわかることだ。アレクセイも、もし当時護山会議の議員であれば、リョハンに新たな秩序を齎すための礎として、彼女の名を利用したかもしれない。それくらい、ファリア=バルディッシュの戦果はめざましく、他の追随を許さなかったのだ。
護山会議は、独立後のリョハンを運営するに当たって、それまでとはまったく異なる方法を取るというのは困難を極めるものであると考えた。つまり、至高神バシュタラへの信仰によって成り立っていたリョハンから神の教えを完全に排除するのは、大きな混乱を伴い、危険性を孕むものであると見たのだ。そこで護山会議が考えだしたのが、戦女神という仕組みなのだ。至高神ヴァシュタラへの信仰をそのまま戦女神ファリア=バルディッシュへの信仰に切り替えさせることで、速やかに新たな秩序へ移行することができるよう、取り計らったのだ。もちろん、それでも混乱が起きなかったわけではない。しかし、元より当時のリョハンには、独立に賛成し、反ヴァシュタリア共同体、反ヴァシュタラ教会を掲げる護山会議の意志を理解するものしか残っていなかったこともあり、信仰対象が変わることへの抵抗は想像よりもずっと少なかった。それ以上に、実在も怪しい神よりも、現実に存在する現人神を信仰することのほうが、リョハンのひとびとにとっては理解しやすく、受け入れやすいことだったというのも大きいだろう。
結果、戦女神という仕組みは、瞬く間に定着し、それから五十年以上に渡ってリョハンという天地を支え続けてきた。護山会議は戦女神こそが唯一絶対の存在であるとリョハン市民を教育し、リョハン市民もまた、自分たちの子や孫にそのように教え、育てていく。やがて、戦女神は人間でありながら、本物の神のように敬われ、信仰心を集めることとなった。もはや、リョハンと戦女神は切っても切れぬものであり、先代戦女神の人間宣言も、結局はリョハン市民に混乱を招いただけに終わってしまった。
つまりだ。先代戦女神も、彼女の意向を尊重したアレクセイも、リョハン市民の信仰心を見誤っていたということになる。
いくら戦女神の言葉だからといって、数十年の長きに渡って積み上げられてきた戦女神への信仰という生活習慣を捨て去ることなど、できるわけがないのだ。
よって、彼の孫娘が戦女神の後を継いだのも、致し方のないことだった。そうしなければ、リョハンは混迷を深め、神軍の攻撃に対し、為す術もないままに滅び去った可能性がある。ファリアが戦女神として立っているからこそ、リョハンは一丸となって危難に立ち向かうことができるのだ。
とはいえ。
彼は、いつまでも孫娘の横顔を見ていたいという欲求を抑えるようにして、口を開いた。
「……式典の後、なにも話されなかったようですが、よろしいのですか?」
「はい?」
ファリアが筆を止め、こちらを見た。眼鏡越しの目が美しく透き通っている。
「議長代理、あなたがなにをいいたいのか、わかりかねますが……」
「セツナ殿のことです」
アレクセイがその名を口にしたのは、相手の反応を期待してのことだったが、残念ながら、戦女神ファリア=アスラリアは微塵も表情を変えなかった。
「セツナ殿がどうかされたというのですか?」
「いえ……そういうわけではなく」
「セツナ殿が護山義侍について、不満でも漏らされていたというのであれば、即座に対応しなければなりませんが、そうでないというのであれば、なんの問題もないでしょう」
ファリアはそういい切ると、書類仕事に集中し始めた。取り付く島もないとはまさにこのことであり、アレクセイは、途方に暮れかけた。
(そういうことをいっているわけではないのだがな)
アレクセイは、議長代理としてではなく祖父として、血の繋がった家族として、彼女のことを気遣っているだけに過ぎない。
セツナ=カミヤなる人物がファリアの想い人であることは、彼女に親しい人物にとっては周知の事実だ。アレクセイの妻であり先代戦女神ファリア=バルディッシュ公認の仲といってもよく、当初、アレクセイは難色を示した――最愛の孫娘をどこの馬の骨ともわからない男にくれてやる道理はないと息巻いていた――ものの、妻に説得され、いまとなっては折れに折れている。いまではすっかりファリアの恋を応援する側の人間になっていて、そのためにはどうすればいいのか腐心する日々を送っている。とくに彼がリョハンを救うべく現れてからと言うもの、そのことを考えない日はなかった。
しかし、ファリアがセツナのことで戦女神であることをかなぐり捨てたのは、二度ほどしかなかった。
一度目は、戦場でセツナと再会したときのことで、戦女神であることも憚らず、戦場の真っ只中でセツナと抱き合ったというが、それは致し方のないことだ。二年ぶりの再会で、それも最愛の人物とようやく念願叶った再会を果たしたのだ。感極まってタガが外れるのも無理ない話だ。
二度目は、セツナが長い眠りから目覚めたという報告が届いたときのことであり、ファリアはその一報を聞くや否や、会議を唐突に打ち切り、彼の元へと飛んでいってしまった。会議室に残された議員たちは呆気にとられる反面、ファリアがようやく人間らしい一面を覗かせるようになったことに安堵したりもした。だれもがファリアに戦女神であることを求める一方で、ファリアが人間であることを忘れてはいないのだ。むしろ、傍若無人なまでに奔放だった先代戦女神と比べると、当代の戦女神はどうもおとなしくていけないという意見が出るほどだ。多少、羽目をはずすくらいがちょうどいいのだ。
ただ、それ以降のファリアは、戦女神としての立場と責任を自覚したかのようになってしまった。戦女神としての責務を果たし、役割をまっとうすることに全力を注いでいる。それそのものは悪いことではないし、責任感の強い彼女ならば、そうなるだろうと想定した通りではあった。
ファリアは、一度決めたことを最後までやり遂げようという頑固者であり、融通の効かなさは、難民問題の例を見るまでもない。
一度、戦女神を継承した以上、どんなことがあってもその責任を果たそうというのだろう。
そういう峻烈さはだれに似たものか、と想うのだが、彼女の父親がそうだったかもしれない。
メリクス=アスラリア。
異邦人である彼は、アズマリア=アルテマックスによってリョハンにもたらされた。彼は、聡明な人物であり、面差しの涼やかな青年だった。アレクセイの一人娘が世話をするうちに惚れるのも無理のない性格の持ち主で、アレクセイ自身、メリクスにならばと諦めを覚えたものだ。そんな彼のいいところであり、悪いところなのが、融通の効かない頭の硬さだった。一度これと決めたら、曲げることを知らないのだ。意固地で頑固。だからといって、頭が悪いわけではない。むしろ、先もいった通り聡明であり、武装召喚術を瞬く間に体得し、リョハンでも最高峰の武装召喚師へと上り詰めたくらいには頭脳があった。
そんなメリクスは、その融通の効かなさで命を落としたといっても、言い過ぎではなかった。
彼は、リョハンの人間であり、ミリアの夫にして、ファリアの父であることを捨てられなかったのだ。
そのことがアズマリア=アルテマックスの怒りを買った。
(なぜ……いまさら)
アレクセイは、脳裏を過ぎった火影と鼻腔に満ちた焦げ付いたにおいに眉根を寄せた。そして、頭を振る。詮無きことだ。いまさら、あのときのことを思い出したところで、どうなるものでもない。
ただひとつ、そこから思い浮かぶことがあるとすれば、いま目の前にいる孫娘には、後悔に満ちた生き方だけはして欲しくないということだ。
「護山義侍についての不満はないでしょうが」
「それならば、よいではありませんか。無論、護山義侍とあの短刀程度では、セツナ殿の働きに報いたとはいい切れませんが……それは護山会議のほうで考えてくださればよろしいのです。わたくしからいえば、角が立ちましょう?」
「……まあ、余計な詮索を生むことは間違いありませんな」
戦女神からセツナの活躍を讃えるべく護山会議に働きかければ、それだけで議員たちを刺激しかねない。少し前まで反戦女神派なる派閥が幅を利かせていたのだ。その筆頭であり、頭目といっても過言ではなかった元議長モルドア=フェイブリルは、難民問題に関するすべての責任を負って、議長の座を降り、議員さえも辞めた。その際、彼は反戦女神派などというものがいかにも馬鹿馬鹿しいくだらない存在であるかを解き、反戦女神派議員や護峰侍団幹部に衝撃を与えている。それ以来、反戦女神派は鳴りを潜め、もはや活動的になることはなくなってはいるものの、余計な刺激を与えるべきではないというのはアレクセイとファリアの共通認識だった。
護山会議の議長は、議員たちの投票によって選出される。議長が辞任したからといって自動的に選ばれるものではなく、選挙を行う必要があるのだ。もちろん、選挙など即座に行えるものではなく、リョハンが落ち着きを取り戻すまでは議長の席は空白のままだ。しかし、それでは護山会議の活動に支障がでるため、議長代理が置かれることが慣例だった。議長代理には、議員としての在任期間の長いものが選ばれることが多く、アレクセイが議長代理を務めることとなったのは、今回で三度目となる。
その議長代理たるアレクセイが戦女神派筆頭であることは疑いようもなかったし、彼自身、戦女神派であることを隠そうともしていなかった。そも、先代戦女神の夫だったのだ。そして、孫娘の肩を持つのはひとの親として当然のことであると彼は考え、公言し、市民からも議員からも一定の評価を得ていた。反戦女神派を名乗っていた連中には、苦虫を噛み潰したような顔をされたものだが。
いまや反戦女神派は、勢いを失い、消滅寸前ではあるものの、ここで戦女神そのひとや議長代理が、戦女神の権力を振りかざすようなことをし始めれば、また元通りに戻ってしまいかねない。
モルドアは、ファリアに戦女神として正しいことをすればいい、といっていたが、だからといってなにごとにも限度というものがある。それに、リョハンの救世主たるセツナを評価するのは、なにも戦女神だけの仕事ではあるまい。
ファリアのいうように、護山会議の議員たちに任せればいいのだ。彼らも決して無能ではない。無能な人間が務められるほど、護山会議は暇ではないのだ。
「でしょう。セツナ殿、レム殿への感謝の気持ちは、いまも溢れんばかりにありますが……その感謝を表す方法は、議員の皆様に委ねましょう」
「はい」
それに関しては、アレクセイにも異論はなかった。しかし、彼にはまだ、話があったのだ。
「しかし、セツナ殿個人の不満となれば、話は別でしょうな」
「セツナ殿個人の不満?」
「せっかく遠路遥々戦女神様に逢いに来られたというのに、話し合う時間もないというのは、寂しいものでしょう」
「……なにを」
戦女神の冷静さに満ちた表情が一瞬だけ崩れ去り、私人ファリア=アスラリアの表情が覗いたのを彼は見逃さなかった。
「なにをいうのですか」
彼女の声は、僅かに掠れていた。