第千九百五十九話 英雄と戦女神(六)
「なんだか寂しいものでございますね」
戦宮を出ると、レムが唐突に囁いてきた。小声なのは、護衛についてくれている護峰侍団隊士たちに聞こえないよう、配慮してのことだろう。護峰侍団隊士たちもまた、セツナたちを気遣い、ある程度の距離を取って先導してくれている。戦宮での式典のためだけに御陵屋敷を出たのではない。病み上がりのセツナには、つぎの目的地があるのだ。
晴れやかな空は、まるでセツナの勲章授与を賞賛するかのようだと受け止められなくもないが、それほど脳天気でいられるような心境であるはずもなく、彼は、先行するレムの後頭部を見て、うなじを見た。いつもとは異なる格式張った礼服を着込んだ少女の細い首筋は、妙に色気がある。
「なにがだ?」
「ファリア様のことでございます」
レムはこちらを振り返り、なんともいいにくそうな顔をした。
「ファリアがどうしたって?」
「ファリア様ったら、御主人様とお話にもなられませんでしたよ? 時間もたっぷりありましたのに」
「式典のあとのことか?」
「はい。御主人様を無視するばかりで……なんだか、いけずです」
「仕方がないだろう」
セツナは、レムのいいたいことも理解しながら、肩を竦めて告げた。言葉通り、仕方のないことだ。確かに、彼女のいうように時間はたっぷりとあった。護山義侍というセツナのためだけに新たに設けられたという勲章を授与し、セツナとレムの活躍を讃えるためだけの式典が無事に終わると、セツナは七大天侍たちに取り囲まれた。ルウファやグロリアだけでなく、シヴィルやニュウとの数年ぶりの再会を喜び、互いのことを話し合ったのだ。そのとき、ファリアと言葉を交わすことだって、できなくはなかったはずだ。しかし、戦女神ファリア=アスラリアは、式典が終わると、そそくさと女神の間を後にした。戦女神としての公務が待っているからだろう。
「ファリアにはファリアの役割があるんだ」
「ですが」
「戦女神様だからな。立場ってもんがある」
「でも、寂しいですよ、わたくしめは」
レムのその言葉は、彼女の素直な気持ちであることは疑いようもない。レムはセツナの隣に並ぶと、甘えるように上目遣いをしてきた。
「御主人様は……どうお考えなのでございます?」
「俺の考えなんて聞いてどうすんだよ」
セツナは、レムの可憐さを振り切るようにして、ぶっきらぼうに告げた。
「どうにもなんねえだろ。なるようにしかならねえよ」
ここは、リョハンだ、とセツナは古めかしい町並みを見回しながら、再認識する。古代遺跡をそのまま都市として利用しているという話通り、リョハンの空中都はどこもかしこも遺跡めいていたし、その古めかしい町並みには、惹かれるものがあった。古都として知られる龍府よりもずっと歴史を感じさせる。龍府が数百年前に作られた都市ならば、リョハン空中都は数千年前に作られたのではないか、と思う程だ。無数に入り組んだ石畳の通り、立ち並ぶ家屋群、目的のわからない建造物の数々など、悠久の時の流れを感じさせた。
そのリョハンにあって、ファリアは、いま途方もなく特別な存在なのだ。そして、彼女はその立場に真摯に向き合っている。それも二年以上だ。二年以上に渡って、彼女はこのリョハンの支柱として在り続けてきた。そんな状況下で、突如、約二年前まで彼女の上官だったものが現れ、我が物顔をされても困惑しかないだろう。いや、迷惑ですらあるかもしれない。
もちろん、彼女がいまもセツナのことを想い、好意を抱いてくれていることは、言動からも明らかだ。その気持ちは、この別離の期間でより深まっているとさえ想えた。セツナ自身がそうであるように、離れれば離れるほど想いは強くなった。
けれど、だからといって、そのことで彼女は戦女神を辞めることはないのだ。
好きなひととの念願の再会を果たしたからといって、それで立場を放棄し、役目を忘れるほど無責任で自分勝手な人間では、決してない。ファリアはむしろ、責任感の塊のような女性だ。そのことは、戦女神として振る舞うことに徹する彼女を見れば、はっきりとわかるものだ。いや、いまの彼女だけではない。これまで彼女がセツナの記憶に刻みつけてきた言動の数々を思い出せば、そういう人物であることは明白なのだ。責任感の強さのあまり、周りが見えなくなるほどだった。
いま、ファリアは戦女神としての務めを果たすことに全身全霊を注いでいる。
「あいつは女神で、女神はこの街に必要不可欠な存在なんだ。どうしようもねえ」
「御主人様……」
「無事な姿を見られただけでも、十分さ」
セツナは、なにもかもを振り切るようにいい切った。
本心は、違う。本当は、もっと側にいたい。もっと彼女の側にいて、もっと彼女のことを見ていたい。声を聞きたい。想いを伝えたい。話をしたい。触れ合いたい。そういった気持ちを心の奥底に封じ込めざるを得ないのは、ファリアの足を引っ張るようなことはもっとしたくないという想いが、セツナの中にあるからだ。
戦女神としての務めを果たそうと精一杯頑張っている彼女を応援こそすれ、本来のファリアに戻って欲しいなどとは口が裂けてもいえることではない。それは、彼女の想いを踏みにじる行いだ。許されることではない。
「では……もう戻られるのでございますか?」
「ん……それも考えたが、ひとつ、やり残してることがあるだろ」
「ひとつ?」
レムがきょとんとする。
セツナは、彼女の額を人差し指で小突くと、その横を通り抜けた。
「ミリュウのことだよ」
「ああ……!」
「あいつのこと、放っておくわけにはいかねえよ」
セツナにとって、ミリュウもまた、大切な存在であることに違いはない。ミリュウだけではない。セツナの人生を支えてくれた多くのひとたちのことは、いまも忘れてはいない。セツナがいまあるのは、別離のときまで支えてくれたひとたちがいたからこそだ。
特にミリュウのことをいったのは、無論、ミリュウが任務中、消息を絶ったまま、音沙汰がないという話をルウファたちから聞いたからだ。ミリュウだけではない。エリナも、一緒になって消息不明になってしまったというのだ。リョハンはそれからというもの、途切れることなく捜索部隊を送り込んでいるが、いまだ、手がかりひとつ見つかっていないとのことだった。
ともすれば絶望的な状況だ。しかし、リョハンのひとびとがミリュウたちの生存を疑っていないように、セツナもまた、ミリュウたちが生きていることを信じていた。ミリュウは、並大抵の武装召喚師ではない。たとえ神人が相手であっても簡単にやられるようなわけもない上、神人に遭遇し、その結果殺されたのであれば、亡骸や戦闘の痕跡が見つかっているはずであり、捜索部隊はそういったものを発見することができていないのだ。
ミリュウもエリナも、リョハン近郊の何処かで生きている。
セツナは、リグフォードたちの元に戻る前に、せめてミリュウたちを探し出し、無事を確認しなければならないと想っていた。
元々、セツナのリョハン行きの目的は、ファリアたち皆の無事を確認することだ。ミリュウとエリナの無事を確認せず、リグフォードの元に戻るのは、おかしな話だった。
リグフォードも、セツナが目的を果たすまでは待ってくれるといっていたのだ。
時間ならば、いくらでもある。
静寂が、室内に満ちている。
戦宮内、奥まったところにある一室は、戦女神が執務室として用いている。当然、扉はなく、開け放たれている上、戦女神の指示により、護峰侍団隊士による警備も行われていなかった。つまり、戦宮に入ることができれば、だれでも戦女神の執務室まで足を踏み入れることができるということだ。もっとも、そのような無礼な人間がこのリョハンにいるはずもなければ、仮にいたとしても、戦宮に入って来られるわけもなく、故に執務室内は常に沈黙に包まれている。
書類を広げるか、あるいは紙面に筆を走らせる音、通り抜ける風の音だけが聞こえるような静けさの中、アレクセイ=バルディッシュは、熱心に書類仕事を続ける偉大なる指導者の横顔を見ていた。この世にふたりといない指導者は、彼にとってたったひとりの孫娘でもあり、その真剣そのもののまなざしを書類に注ぐ横顔の凛然たる様は、贔屓目に見ずとも美しいとしか言いようがないと想っては、相変わらずの親馬鹿ぶりに内心苦笑をもらす。そして、同時に想うのだ。
本当に、これでいいのか、と。




