第百九十五話 北進一路
北進軍がマルウェールを望む丘に陣を張ったのは、十八日の正午のことだ。
ガンディア方面軍第二、第三軍団と、ログナー方面軍第二軍団からなる三千名の大部隊だ。陣も華やかなものだといえる。丘の上の中央にガンディア方面軍第二軍団、左翼に第三軍団があり、丘の下の右翼にはログナー方面軍第二軍団が布陣している。
丘の上から見渡す景色は、ザルワーンの黒い大地であり、景観もなにもあったものではなかった。その大地に聳えるのが、大都市マルウェールの分厚い城壁である。マルウェール側は既にこちらに気づいているようで、門は堅く閉ざされているのが遠目にもわかった。騎馬で一時間もかからない距離だった。
あまりに近い距離ではあったが、マルウェール攻略作戦の性格上、北進軍を展開するのは都市に近ければ近いほどよかった。
北進軍全部隊で総攻撃をかけるわけではない。事前情報における敵戦力は第五龍鱗軍千人であり、こちらの三分の一ではあるが、攻城戦となると数倍の戦力が必要とされている。三倍では同等の戦力といってもいいくらいなのだという。つまり、まともに攻め込めば、北進軍の被害も馬鹿にはできないものになるだろう。総大将のデイオン=ホークロウは、北進軍の被害を最小限に押し止めてマルウェールを制圧したいのだ。戦術もなく総攻撃など、端からありえないのだ。
そこで、カイン=ヴィーヴルは考えた。
マルウェールに駐屯する第五龍鱗軍の翼将は、ハーレン=ケノックだという。その情報を耳にした時に思い浮かんだことがあったのだが、まさか自分がマルウェール攻略部隊に配属されるとは思っていなかったこともあり、心の奥底に秘めていた。
それを思い出した。
カインは、ナグラシアからマルウェールまでの道中、デイオンに秘策があるということは伝えていた。具体的な方法は教えなかったが、彼はカインの策を採用することに決めたようだった。ほかにこれといった策も思いつかなかったのか、それとも、武装召喚師と怪人ひとりの命くらい、惜しいとも思わなかったのかもしれない。
「本当に、だいじょうぶなのか?」
陣を出るとき、左眼将軍は不安げに聞いてきたが、カインは仮面の中で笑うだけだった。
「いざとなれば召喚武装で切り抜けるさ。ここからもわかるくらい派手に暴れてやろう」
もっとも、いざ、というときとは、武装召喚術を行使する前に死ぬというときにほかならないのだが。
「……わかった。これ以上はなにもいうまい。健闘を祈る」
「そういうのはいいさ。ただ、いつでも出撃できる準備はしておいたほうがいい。上手くいけば、あっという間だ」
「ああ。わかっているとも」
力強くうなずいたデイオンに見送られながら、カインは馬を走らせた。
馬上、カインは女を抱き抱えるようにしている。女の両手首は縛り上げてあり、馬から振り落とさないように注意を払わなければならなかった。女は、カインの腕の中で身じろぎひとつせず、こちらを見ている。灰色の目。冷ややかで、感情をどこかに置き忘れてきたような目だ。ウル。
「本当に、うまくいくのかしら」
彼女は他人事のようにつぶやいたが、それはカインにもわからなかった。
策の内容については、ウルには説明してあった。彼女は、カインの正体を知っているし、協力して貰う必要もあり、すべてを包み隠さず話したのだ。カインひとりでは、ただの殺戮劇になりかねず、それでは無駄に時間がかかる上、効率的でもない。手早く、被害も損害も少なく制圧するべし――デイオンの掲げた目標を達成するには、彼女の協力が必要不可欠だ。
いくらハーレンが旧知の仲とはいえ、カインのいうことを聞いてくれるとも思えない。
「まあいいわ。あなたが殺戮してくれるというのなら」
ウルの発言に、カインは目を細めた。視線は前方に向けている。
馬は丘を南に下り、原野を走っていた。北進軍の陣地から直接マルウェールに向かっても、迎撃されるだけだ。迂回し、ガンディア軍との関係性が薄いということを示さなければならない。もちろん、それだけでは信用されるはずもない。
そろそろ、北進軍陣地より騎馬兵五十名がカインの追手として放たれる頃だろう。ウルを捕まえたカインは、北進軍に追い立てられ、命からがらマルウェールに辿り着くのだ。
「いったはずだ。殺すかどうかは状況次第だとな」
「わかっているわ。だから、そういう状況を作ってあげるのよ」
「勝手にしろ」
カインは、ウルの言葉を額面通り受け取るつもりはなかったが、彼女ならばやりかねないことだとも思った。無駄な労力を費やすのはデイオンの方針に反するが、かといって、戦いもなくマルウェールを制圧するのもカインとしてはつまらないことだ。とはいえ、総大将の命令はレオンガンドの命令も同じである。彼の掲げる目標を達成することに否やはないのだ。
振り返る。五十名の騎馬兵が、なにやらがなり立てながら追いかけてくるのが見えた。迫真の演技といってもいい。中には馬を猛進させながら弓を構え、矢を放ってきたものもいた。矢は大きく逸れ、無駄にはなったが、演出としては十分すぎるだろう。カインはつい笑ってしまったが、追手たちの様子は、デイオンになにかを言い含められたのかとも思った。追撃が本気であればあるほど、マルウェール側の信用も勝ち取れようものだ。
もっとも、必要なのは最初の一手だけだ。
城門に接近し、衛兵に話しかけることさえできればいい。それだけで、カインの策略は成功の一歩を踏み出すだろう。ハーレンが彼の言伝を無視できるはずもないのだ。
マルウェールを目指し、大きく迂回する間にも、矢はつぎつぎと飛来した。
「ちょっと、本気で当てにきてない?」
「そのようだ」
「なんで笑ってるのよ」
「さあな」
カインはウルの文句など聞き流して、馬に速度を上げさせた。飛来する矢の数、精度は上がる一方だが、精度を上げるには狙いを付けなければならず、馬の扱いはおざなりにならざるを得ない。こちらが速度を上げれば、追いつけなくなるはずだ。
やがて、マルウェールが見えてきた。強固な城壁は、皇魔の襲来のためだけのものではない。有事には城塞として機能するように設計されているのだ。その城壁の外周を伝うように、城門を目指す。城壁の上から矢の雨が降ってくるようなことはなかったが、カインの追手たちに向かって矢が放たれたのはわかった。追手の矢が止む。マルウェールの兵士たちによって追い払われたのだ。
カインは馬の速度を落とすと、ゆっくりと城門へと近づいていった。閉ざされた城門の前に衛兵が二名、立っている。いや、城門は少しだけ開いていて、敵軍が攻め寄せてくれば即座に閉門するという算段になっているようだった。でなければ、門外の衛兵が見殺しになる。
「案外、簡単に騙されるものなのね」
「ここから先は黙っていろ」
「はいはい」
ウルは適当に相槌を打ってきたものの、次の瞬間、彼女の表情は拉致されて恐怖に身を竦ませた人間のものになっていた。体も小刻みに震えており、その熱演ぶりにカインは声を上げて笑いたかったが、表情にも出さなかった。
衛兵ふたりが、門の前――カインの進路に飛び出してくる。そのうちのひとりが、槍の切っ先をこちらに向けてきた。
「止まられよ!」
「貴様は何者だ! ガンディア軍に追われていたようだが……」
もうひとりは腰の剣の柄に手をかけていたが、脅しにもなっていないのが滑稽だった。槍を突きつけてきた兵士の方がまだしも見込みがある。
カインは、馬を止めると、鷹揚に告げた。
「カイル=ヒドラが来たと、ハーレン=ケノックに伝えてほしい」
が、兵士たちの顔は、明らかに怒気を帯び、赤くなった。
「なにをいっているのだ? 貴様!」
「質問をしているのは我々だぞ!」
それでも、カインは涼しい顔で続けるのだ。
「わたしはカイル=ヒドラ。ガンディアの要人を拉致してきた」