第千九百五十八話 英雄と戦女神(五)
戦宮は、話に聞く通り、壁こそあっても扉がなく、話し声も筒抜けの奇妙な建物だった。扉がないということは、密閉空間が作れないということだ。冬の間など、外気が通り抜け放題であり、寒さを凌ぐのも困難ではないだろうか。春先であろう三月のいまですら、戦宮内は寒くて敵わず、アレクセイのように防寒着を要した。
アレクセイの説明によれば、戦女神の住居には戦宮の在り様こそが相応しいとのことだ。先代戦女神ファリア=バルディッシュがそう定義した。リョハンの中心であり、柱である戦女神には、リョハン市民との隔たりなど不要であり、そのため、戦宮に扉などの遮蔽物を設置せず、市民の出入りさえ半ば自由にしようとしたという。さすがに市民の自由な出入りを解禁すると、戦女神に膨大な負担がかかるということもあり、一部の日のみ、市民の出入りを許すということにしたようだが。
ともかく、戦宮は、そのような事情から部屋と通路の間を隔てる扉がなく、室内の話し声も聞こえ放題、密談など不可能な場所となっていた。そういう印象こそ、先代戦女神の狙いでもあるという。戦宮では、密談密議などできようはずもなく、戦女神やその一派がなにかしら企むようなことなどあろうはずもない、と、リョハン市民に信じさせることこそ、戦女神誕生の当初から気にかけてきたことのようだ。
いまでは戦女神に絶対の信頼と信仰を寄せるリョハン市民も、戦女神という役割が誕生した当初は、決してその通りではなかったのだ。戦女神という絶対者を作り上げるために、先代戦女神も護山会議も相当腐心したようであり、その成果が二代目戦女神へのリョハン市民の信仰心からも窺い知れるとのことだ。
女神の間に至ると、セツナが覚悟するまでもなく、扉もない出入り口からファリアの姿が覗き見え、どきりとした。ファリアは、戦女神に相応しい格好をしていた。戦場で垣間見た戦装束ではなく、式典のための礼装を身に纏っている。白を基調とし、金銀を織り交ぜた荘厳な装束は、遠目に見ても目を奪われるほどに美しい。息を呑んだのは、その衣装の美しさだけのせいではない。ファリア本人が遠目にみても、格段に美しく、神々しくさえあったからだ。
まさに戦女神と呼ぶに相応しい姿が女神の座の奥にあり、セツナは、ただただ呆然とした。
アレクセイが先導して、女神の座に足を踏み入れる。
「セツナ=カミヤ殿、および、レム殿をお連れいたしました」
「議長代理みずから先導とは、ご苦労なことです」
「英雄殿を迎えるのです。当然のことでしょう」
「それもそうですね」
アレクセイとファリアのやり取りをぼんやりと聞きながら、レムに急かされるようにして女神の座に足を踏み入れる。すると、無数の視線がセツナに注がれるのがわかった。セツナは、女神の間にいる戦女神にしか注目していなかったため気づくのが遅れたが、式典である。当然、戦女神以外のリョハンの要人が集っていてもおかしくはない。
女神の間の最奥部に戦女神が立っていて、そこに至るまでの両脇に何人もの要人たちが立ち並んでいた。だれもかれも礼装を着込み、緊張感を持って整列している。セツナの左手には、見知った顔が何名か並んでいる。七大天侍に名を連ねるものたちだ。シヴィル=ソードウィン、ニュウ=ディー、カート=タリスマ、ルウファ、グロリア、アスラ。やはりミリュウの姿はない。彼女が見つかり、リョハンに帰還したのであれば、真っ先にセツナの元に姿を見せたはずであり、彼女が不在のままなのは想像通りではある。
ほかには、おそらく護峰侍団の幹部たちだ。どれもこれも一癖も二癖もありそうな人物揃いに思えるが、見た目から判断してはいけない。
右手側には、左手側の屈強な戦士たちとは異なる絵面が展開していた。アレクセイと同じような衣装を身につけていることから、護山会議の議員たちなのだろう。老人ばかりというわけではなく、四十代くらいの議員の姿もあった。若いといえるかは微妙だが、政治家としては若い部類に入るのではなかろうか。アレクセイが議員連中に並ぶ。と。
「セツナ殿、レム殿、寒い中、よくぞ参られました」
ファリアが、視線をこちらに投げかけてきた。相も変わらず理知的なまなざしだった。見つめ返すだけで満足してしまうのは、きっと、セツナ自身、心から彼女との再会を喜んでいるからだ。最愛のひとの姿を見れば、だれだって心高鳴るものだろうし、二年もの間音沙汰もなく、ようやく再会を果たせたのだ。感極まるのも無理ないことだと、セツナは想った。
「わたくしはリョハンにおいて戦女神を務めるファリア=アスラリアです」
改めて自己紹介をしてきたのは、ファリアが、私人ファリアとしてではなく、戦女神ファリアとしての線引をするためなのだろうことは、想像がついた。
「戦女神様御自ら紹介頂くとは、光栄の至り」
「セツナ殿が恐縮されることはありませんよ」
戦女神が穏やかに告げてきて、セツナはなんだか気恥ずかしくなった。レムがくすりと笑ってきたのも、大いに関係がある。
「セツナ殿、レム殿、あなたがたは先の戦いにおいて、このリョハンを窮地より救ってくださったのです。あなたがたがいなければ、あなたがたが来てくださらなければ、リョハンはいまごろどうなっていたものか、考えるだに恐ろしいこと」
ファリアではなく、戦女神としての威厳に満ちた発言には、セツナもただ静かに聞いているよりほかなかった。女神の間に立っているのは、セツナがよく知るファリア・ベルファリア=アスラリアではないのだ。戦女神ファリア=アスラリアがそこにいる。身につけた装束だけでなく、身に纏う空気そのものが違っていた。表情ひとつ、声音ひとつとっても、普段の彼女とは違う。
彼女が戦女神となってからというもの、二年以上もの歳月が流れている。ファリアが戦女神として堂に入っているのも、当然のことかもしれない。
「特にセツナ殿。あなたには感謝のしようもありません。あなたはたったひとりで、リョハンに迫りくる神人を撃退し、神軍本陣においては敵女神の撃退および神軍の総撤退を促すほどの戦いぶりを見せつけられた。あなたがいたからこそ、わたくしや皆は、こうして平穏なる日々を享受することができるといっても過言ではありません」
戦女神は胸に手を当てた。
「あなたに心よりの感謝を」
どきりとするくらい色気を帯びたまなざしを注がれて、セツナは呼吸を忘れた。
「そして、リョハンを絶体絶命の窮地より救って頂いた英雄殿にこそ、護山義侍の勲章を授けたいと想いますが、いかがです、皆様?」
「異論はありません」
「同じく」
「右に同じ」
「セツナ殿以上に相応しいものはおりませんな」
議員や七大天侍、護峰侍団幹部が口々に意見を述べていく様にセツナはあっけにとられた。式典の場で意見を求めるのも不思議なものだったし、それに対し、平然とそれぞれの意見を発するのもまた、奇妙な光景だった。しかしどうやら、だれもが手慣れた様子であるところをみると、リョハンにとってはありふれた光景なのかもしれなかった。
「皆もそういっています。セツナ殿、どうか、護山義侍の勲章を我々からの感謝の気持ちとして、受け取ってくださいませんか?」
戦女神からの打診に対し、セツナは迷うことなく首を縦に振った。
「……謹んで、受け取らせていただきます」
「それはよかった。英雄殿には不要なものではないかと心配していたのですよ」
戦女神が見せた笑顔は、極めて柔らかく、ファリアのことを思い出させたものの、やはり戦女神としての表情のほうが強く、壁を感じさせた。戦女神ファリアには、セツナとの距離を取ろうという意志がある。それを肌で感じるからこそ、セツナもファリアに対してではなく、戦女神に対する態度を取るほかない。
「では、セツナ殿、こちらへ」
戦女神に促されるまま、セツナは彼女の目の前まで歩み寄った。緊張に満ちているのは、室内の空気のせいだろう。決して、戦女神を前にして緊張しているわけではない。
(って想うんだがな)
どうなのか、自分でもはっきりとはわからないところがあり、彼は内心、首を傾げた。眼の前にいるのは、ファリアだ。セツナがよく知る人物であり、彼にとっての最愛のひとだ。彼女が自分のことをいまも思ってくれていることは、数日前、目覚めたばかりのセツナの元を訪れた彼女の態度や、再会した瞬間の彼女の表情からもよくわかっている。そこに愛情がないとはいわせない。けれども、いま目の前でセツナの到来を待ちわびているのは、ファリアの姿をした別人のような印象すら受けるのだ。ファリア本人であるはずなのにだ。
戦女神ファリア=アスラリアは、ファリア・ベルファリア=アスラリアとはまったくの別人なのではないか。
そんな印象さえ受けてしまうほどの冷ややかさが、そこにはあった。
セツナが戦女神の目の前に辿り着くと、戦女神みずからなにかを差し出してきた。見れば、漆黒の鞘に収められた一振りの短刀だ。
「これは、護山義侍のために打たれた代物です。どうか、お収めください」
「はっ。ありがたく」
セツナは、漆黒の短刀を手にすると、その重みに目を細めた。ずっしりとした重みは実戦に耐えうる代物であることを示しているようだった。
「護山義侍は、リョフ山を護り抜いたセツナ殿のために新たに創設した勲章です。あなたが第一号なのです。その価値は、これより先、歴史を積み上げていくことで否応なしに高まるでしょう。もっとも、セツナ殿が受け取ってくださった時点で、高まりようがないくらいに価値の高いものとなりましたが」
戦女神の微笑みにセツナがくらくらするのは、きっと、普段のファリアとはまったく異なる魅力がそこにあったからだ。
「ともかく、我々リョハンのものは、あなたがたに感謝してもしきれないくらいに感謝しているということを知って欲しかった。ただそれだけのことなのです。言葉だけでは、態度だけでは示しきれませんから、こうして形として示しておくべきである、と」
形とは、短刀のことだけではない。勲章もそうだし、式典そのものもそうだ。なんらかの行動を起こし、記録に残す。それそのものが、彼女のいう形に違いない。
「しかしながら、この程度の感謝では済ませられないほどのことだったのもまた、事実です。これからも様々なことでお二方には感謝を示していきますので、お覚悟の程を」
などという戦女神の冗談で、勲章授与式は幕を閉じた。
式典の間もそうだが、式典が終わったあとも、ついぞ、ファリアと話す機会には恵まれなかった。
戦女神がそこにいて、式典後も、彼女は戦女神として振る舞い続けていた。
セツナは、ファリアを一瞥して、ようやく理解した気がした。
彼女は戦女神としての人生を歩むのだ、と。