第千九百五十五話 英雄と戦女神(二)
ファリアとの面会は、あっさりと終わった。
しかし、短くも濃密な時間がふたりの間には流れていて、ファリアは、セツナの部屋を出る間際まで、人間ファリア=アスラリアとしての表情を失わなかった。彼女が戦女神に戻る瞬間をセツナはついぞ見ることはなかったのだ。つまり、彼女はセツナの前では戦女神たろうとしなかったという話であり、そういった気遣いには感謝するよりほかなかった。単純にそうしなければ、ファリアがセツナと満足に触れ合えないからというのもあるのだろうが。
戦女神という立場の大変さは、かつてファリア自身から聞いたことがある。リョハンにいる限り戦女神であり続けなければならず、私人としての自分になれることはほとんどないというのだ。戦女神は、リョハンという天地を支える柱であり、希望であり、光であり、指導者でもある。そのような立場が、軽いわけもない。
もちろん、その戦女神というのは彼女の祖母ファリア=バルディッシュのことであり、当のファリアは、自分がいずれ戦女神を継ぐことに関しては、深く考えないようにしていた節がある。さらに彼女が一度リョハンに赴き、そこで戦女神の継承問題に片がついてからは、戦女神という立場そのものについても語らなくなった。
戦女神は、彼女の祖母ファリア=バルディッシュの代で終わるはずだったのだ。
だが、“大破壊”がそれを許さなかった。
“大破壊”による損害がリョハンを襲うことはなかった。守護神マリクの結界がリョハンを守ったからだ。しかし、“大破壊”がもたらした様々な影響までは防ぎきれず、結果、リョハンもまた、混乱に包まれたらしい。それを纏め上げるには護山会議の力だけでは足りず、戦女神の出番となったのだ。戦女神の後継者として白羽の矢が立ったのは、当然、先代から直接後継者として選ばれていたファリアだ。ファリア以外に戦女神に相応しい人物はいない、と、護山会議のみならず、リョハンのひとびとは考えていた。
ファリアは、責任感の強い女性だ。
リョハンのためと頼まれれば、断りきれなかっただろう。
二代目戦女神となった彼女は、それから二年あまりの間、リョハンの中心人物たり続けたのだ。様々なことがあったに違いない。苦悩もしただろうし、心労たるや想像するに余りある。そんな彼女の支えになったのが、彼女とともにリョハンに辿り着いたミリュウたちであろうこともまた、想像に難くない。ファリアとともに数年間、死線を潜り抜けてきたミリュウたちだからこそ、ファリアの心の支えになりえたはずだ。
セツナがもし、このリョハンにいれば、そんな支えのひとりになれたはずであり、そのことを多少後悔しないでもなかった。とはいえ、あのとき、自分もまたリョハンに行くという選択肢などあろうはずもなく、あのときの選択が間違いだったとは彼は一切想っていなかった。
あのとき、セツナが王都に残らなければ、このような状況にはなっていない。
ファリアたちとともにリョハンに逃げていれば、最終決戦の場にはおらず、戦いもせず、矛を折られもしなかったのだ。たとえアズマリアが地獄に誘おうと現れても、応じなかったに違いない。となれば、どうなるか。
セツナは、黒き矛の力をあれ以上引き出すことも、眷属を自在に操ることもできなかっただろう。神軍との戦いは、まったく別の結末を迎えることになる。
つまり、あの日、あのとき、セツナがクオンに破れ、心折られたことは決して無意味ではなかったということだ。あれがあったからこそ、セツナは地獄に逃げ、二年あまりの修行に没頭することができた。そして、強くなることができた。
だれに頼られても、その想いに応えられるくらいには。
これからは、ファリアにいくら頼られても、なんの心配をかけることもなく、対応できるはずだ。もはや、かつての自分ではない。弱く、脆く、無惨な自分は、過去のものと成り果てた。セツナは、ファリアの体温が微かに残る左手を握り締めながら、決意を新たにした。
と、そのとき、不意に部屋の扉が叩かれ、レムが応接に向かった。セツナはその間、寝台に横たわり、多少疲れた体を休めていた。ファリアとの面会中は、疲れなど一切感じなかったが、彼女が部屋を出ていった途端、座っていられなくなるほどの疲労感が押し寄せてきたのだ。病み上がりだったのだ。いくら相手が最愛の人とはいえ、疲れを感じないわけがない。
「御主人様、皆様が来られましたよ」
「皆様?」
セツナがきょとんとそちらを向くと、レムが開け放った扉から室内に飛び込んでくるものがいた。
「隊長、俺ですよ、ルウファです」
「わたしもいるぞ」
「わたくしもいますよ」
立て続けに自己主張をしてきたのは、かつて、セツナが《獅子の尾》を率いていた時代の部下たちだった。ルウファ=バルガザールにグロリア=オウレリア、アスラ=ビューネルの三名。ひとり足りないのだが、彼女については、戦場でも見なかったことを考えると、なんらかの理由があるのだろう。
「懐かしい顔が勢揃いって感じだな」
セツナは、いまや七大天侍の一員として名を馳せる三人が以前の部下のように振る舞ってくれることが嬉しくてたまらなかった。特にルウファは、セツナのことを未だに隊長と呼んでくれるのだ。それがどれほど嬉しいことなのか、セツナは表現する言葉を持ち合わせていなかった。
「えっへっへっ」
ルウファは、相変わらず人好きのする好青年といった感じがあった。彼は、別段、雰囲気が変わらない。金髪碧眼の貴公子然とした人物であり、年を経るに連れ、彼の兄であるラクサスとはますます別方向へと進化している様子がある。ラクサスも美形だったが、ラクサスが冷厳たる美しさとすると、ルウファのそれは柔和な美しさというべきかもしれない。
七大天侍の制服らしい白装束は、彼の召喚武装シルフィードフェザーを分厚くし、装飾を過多にしたような印象がある。
「なにを笑っているんだ、気持ち悪い」
ルウファの反応を一刀両断したのは、グロリアだ。グロリア=オウレリアも、相変わらずといった様子だった。この室内でだれよりも上背のある長身の美女だ。ルウファの師匠だけあって彼に対しては辛辣だが、彼女の辛辣さはなにも彼に対してだけではなかった。セツナに対してもいうべきことはいってくれる貴重な人物といっていい。相も変わらぬ鋭いまなざしは、彼女の武装召喚師としての自負を感じさせ、いかにも頼もしい。
ルウファとお揃いの白装束を身に纏っているが、細部が異なるのは女性用だからのようだ。
「まあまあ、いいではありませんか。久々に逢えたのですから」
と、アスラがグロリアを宥める。アスラは二年前と比べると、髪型が大きく変わっていた。以前は長い長い髪を適当に伸ばしていたという印象が大いにあるのだが、いまは長すぎる髪をひとつに束ね、右肩から前に向かって垂らしている。それだけで随分と印象が変わり、おしとやかという言葉がよく似合っていた。無論、彼女もルウファやグロリアと同じ白装束であり、形状はグロリアのそれとそっくりそのままだ。もっとも、体型の違いから、グロリアは胸元の主張が激しくなってしまっているが、仕方のないことだろう。
「相変わらずだな」
「それはもう、ねえ?」
「なにがねえ、なんだ」
「うふふ。皆様、ご健勝そうでなによりでございます」
「レム様も変わりませんね?」
レムとアスラの反応を見る限り、どうやらレムはセツナが眠っている間、ルウファたちとの再会を喜んだりしている暇はなかったようだ。セツナにつきっきりで看病していたというのは本当なのだろう。途中、何度か呼び出されたようだが、ほとんどセツナのことを見守っていたらしい。
「わたくしはいつまでも変わりませんよ?」
「羨ましい限りです」
「そうでしょう?」
心底羨ましそうなアスラに対し、満更でもないといった様子のレムの対応を見ていると、案外、不老不滅の身の上を満喫しているように見えなくもない。
「エミルも連れて来れば良かったな」
「まあ、いつでも逢えますし」
「それはそうか」
ルウファの一言にグロリアが納得したようだった。エミルとは無論、ルウファの妻であり、かつてのセツナの部下のひとり、エミル=バルガザール(旧姓リジル)のことだ。彼女も、最終決戦目前、ルウファたちとともにガンディオンを離れている。当然、一緒にリョハンに辿り着き、それから二年あまりの間、ここにいたのだろう。
「そういや、エミルもいるんだったな。ゲインさんも?」
「もちろん、ゲイン様もここリョハンにおりますよ。ゲイン様は山間市でお店を持たれておいでです」
「へえ……」
アスラがもたらした驚くべき情報にセツナは、素直に感心した。ゲイン=リジュールは、《獅子の尾》専属の調理人であり、《獅子の尾》隊舎での食事は、彼特製の絶品料理ばかりだったことを思い出す。ゲインの手料理が原動力だった時期があるほどだ。なによりもまず、セツナの舌に合わせた味付けをしてくれたことが大きい。味付けが合わなければ、どれほど美しく盛られた料理であっても、美味しくいただけないものだ。その点、ゲインの手料理に外れはなかった。
「また、食べたいな、ゲインさんの手料理」
「食べられますよ、隊長が元気になれば」
「そうか。じゃあ、明日にも食べられるかな」
「ははっ、目が覚めた翌日には元気ですか。隊長らしいや」
「うむ。相変わらずだ」
「まったくです」
三者三様でありながら、セツナのことをわかりきったような反応には、彼も苦笑せざるを得なかった。しかし、それが嬉しいとしかいいようのないことであり、その感動を噛みしめるようにセツナは三人の顔を眺めた。