第千九百五十四話 英雄と戦女神(一)
「ああ……!」
部屋の扉が開け放たれるなり飛び込んできたのは、まさに感極まったというに相応しい声だった。見るとそこにはファリアが立っていて、彼女は、寝台のセツナをじっと見つめていた。その目には涙さえためている。
「ファリア様!?」
「戦女神様!?」
「セツナっ……!」
周囲の制止を振り切るようにして、ファリアが室内に駆け込んでくる。護衛たちが彼女を制止しようとしたのは、無論、彼女の立場上の問題だろう。ファリアは、戦女神なのだ。戦女神とはリョハンの政治的中心であり、支柱であるという。そのような立場にある人間が、個人的な感情で動いていいはずがない。
そんなことはファリアもわかりきっていることだろうが、しかし、彼女は自身の感情の赴くままに行動しているようだった。そして、あっという間にセツナが横たわる寝台まで到達すると、驚くセツナの手を取って、その手を両手で包み込むようにした。
「目覚めたのね……! 良かった……!」
セツナは、ファリアが発した声に込められた想いの強さに感動すら覚え、自分の手を包み込む彼女の両手と、自分の目を見つめる彼女の目を交互に見た。それから、脇に立つレムに目を向ける。彼女もまた、ファリアの反応に感動しているようだった。出入り口を見やると、護衛のものたちが室内に入るのを躊躇っている様子を見せ、そのうちひとりが扉を閉めた。ファリアの反応を見て、口出しをするのは無粋だと判断したのかもしれない。
セツナは、ファリアが良い部下に恵まれているといおうとして、彼女に再び目を向けた。
「ファリア……」
「なあに?」
ファリアは、セツナの顔をじっと見ていた。両目から流れ落ちた涙が頬を伝い、顎から雫となって落ちている。泣き笑いの表情には、彼女の万感たる想いが込められているようで、セツナはいうべき言葉を見失った。
「いや……なんでもない」
「ふふ、変なの」
彼女はセツナの反応をおかしく笑うと、それ以上はなにもいわず、ただセツナの手を握り締め続けた。セツナはそんな彼女の様子に心を打たれるとともに、ファリアが以前と比べ、大きく雰囲気が変わったことに気づいた。
まず第一に髪が伸びている。彼女は青みがかった黒髪をいつも短めにしていたものだが、戦女神となってからは伸ばすようにしていたようだ。腰辺りまで伸ばされた髪と身に纏う威厳に満ちた衣装のおかげで、別人のような雰囲気すらあった。戦女神ファリア=アスラリアとしての二年あまりが、いまの彼女を作り上げたに違いない。以前にもまして大人びた様子からも窺い知れる。
しかし、ファリアの表情、声、反応――どれをとっても、昔の彼女そのままだ。なにも変わらない。本質はなにひとつ変わっていないのだ。
そのことがどうしようもなく、嬉しい。
「髪、伸ばしたんだな」
「久しぶりに逢えて、最初にいうことがそれ?」
「そりゃあ……まあ、そうなるだろ」
「……そうかも」
ファリアは、ゆっくりと考え込んだ末、セツナの言葉を肯定した。久々の再会の一言といえば、外見への言及になるのは、仕方がないのではないか。まずは当たり障りのないところから触れ、込み入った話をしていくものだろう。ファリアはうなずくと、片手で自分の髪に触れた。
「うん。伸ばしたの。そのほうが威厳が出ると想って」
彼女の答えは、セツナの想像通りのものだった。まずは見た目から入っていくというのは、間違いではない。実際、ファリアの今の姿は、以前よりも随分と威厳に満ちている。無論、戦女神として振る舞い続けた二年間が作り上げたものもあるのだろうが、髪を伸ばし、形から入ったことも影響しているはずだ。
「出てるよ、威厳」
「そう?」
「ああ。平伏したいほどにな」
セツナが軽口を叩くと、ファリアは笑った。彼女の笑顔を見るだけで、セツナは、先の戦いにおける消耗がすべて報われるような気がした。それは気の所為などではない。彼女のために、彼女の笑顔を見るためだけに飛んできたといっても過言ではないのだ。もちろん、ルウファやほかの皆を助けたいと思わなかったわけではないが、第一は、ファリアだ。ファリアがリョハンにいて、最前線に立っていたからこそ、なによりも急いだ。命を削りかねないほどの行動に出た。
「ふふ。わたしの前に跪く?」
「それも悪くないな」
「そうね、それも悪くないわね」
そういって、彼女はくすくすと笑った。涙を零しながら笑い続けて、そして、セツナの手を自分の頬に触れさせる。ファリアは、静かに目を閉じ、セツナの体温を感じることに集中するかのようにした。
「二年半よ」
ファリアが不意に漏らした一言には、万感の思いが込められていた。約二年半。セツナがファリアたちとの別離を決断し、最後の決戦に赴いたあの日から、それほどの年月が経過している。状況は変わった。世界そのものが変わり果てた。ひとびとを取り巻く環境、それぞれの置かれている立場、状況が様変わりするのは当然といえる。
「二年半……待ったわ」
「待たせたな……」
「ううん。勝手に待っただけだもの。セツナを責めてなんかいないわよ。でも、長かった。あまりにも長すぎて、君の顔も、君の声も、君の体温も忘れてしまいそうだった」
「ファリア……」
セツナは、ファリアの揺れる瞳を見つめながら、なんといえばいいのかわからず、言葉を詰まらせた。彼女の言うとおり、彼女はセツナを責めてはいない。責めてはいないし、セツナに対し、怒ってもいない。だからといって、なにも感じていないわけではないだろうし、想うところもあるだろう。ぶつけたい感情だってあるに違いない。この二年半あまり、様々なことがあっただろう。セツナが側にいれば、それだけで解決した問題だってあるかもしれない。
彼女の苦悩を想えば、セツナはなにもいえなくなる。それなのにファリアは、笑顔を浮かべてこういうのだ。
「うふふ。冗談。君のこと、忘れることなんてできるわけがないでしょ?」
「俺も」
セツナは咄嗟にいって、上体を起こした。レムが慌ててセツナの体を支えようとするのを目で制する。五日もの間眠り続けたが、だからといってすぐさま衰えきるほど、やわな体はしていない。
「ファリアのことを忘れたりなんかするもんか」
「セツナ……」
ファリアは、セツナの左手を握り締めたまま、ただ涙を流した。透明な涙がこぼれ落ちる様を見ていると、彼女を抱きしめたい衝動に駆られる。しかし、立場もあり、即座に行動には移せなかった。彼女は戦女神。セツナがおいそれと触れていい立場の人物ではない――などと想ったのも一瞬のことだ。つぎの瞬間には、セツナの体は彼の思考とは無関係に動いていた。
ファリアを抱き寄せたのだ。その瞬間、ふわっと髪が舞い上がり、花の香りが鼻孔をくすぐった。
ファリアは抗わなかった。それどころか、セツナの左手を開放すると、自身の両手をセツナの背に回し、みずからも抱きしめ返したのだ。
そのまましばらくなにもいわず抱き合い、互いの体温を感じ合った。鼓動を感じ、呼吸を聞く。体内を流れる血の温度が上がり、速度が増す。互いの命を感じ取り、そのことが感動と興奮を呼ぶ。生きている。ただそれだけがこれほどまでに嬉しいことだとは、思いもしなかった。幾度も死線を潜り抜け、そのたびに生存を喜びあったものだが、いまはそれらのいずれよりも大きな感動がふたりを包み込んでいた。
ただそれだけのことだ。
たったそれだけのことで、セツナもファリアも満足した。




