第千九百五十三話 主従
「なに泣いてんだよ」
セツナは、彼に抱きついたまま肩を震わせ、小さく嗚咽を漏らす少女を認めて、なんともいいようのない気持ちになった。少女は、セツナの声など聞こえていないかのように泣き続けていて、セツナはどうすればいいものかと困り果てながら、決して悪い気分ではない自分に気づいていた。それだけ大切に想われていることの証明であり、そういった反応を目の当たりにしてなにも感じないような人間でもない。
ゆっくりと息を吐き、確かめるように手を動かす。手のひらを開き、握る。全身、あまねく神経は行き渡り、彼の意のままに動くことがわかり、安堵する。自分でも無謀と思えるほどの無茶をしたのだ。その反動が肉体のどこかに現れたりしていないか、不安があった。しかし、どうやら考え過ぎのようだった。肉体そのものに障害として残るほどの反動はでず、ただ、消耗しすぎたために長時間に及ぶ睡眠を必要としたのだろう。故に少女は泣いている。不安だったのだ。セツナがこのまま目覚めないのではないかという不安に駆られていたのだ。
首を巡らせ、自分の置かれている状況の把握に務める。高級そうな寝台の上にいて、分厚い毛布にくるまれていることは、既にわかっている。着せられているのもまた厚めの寝間着であり、防寒対策のように思えた。そういえば、空気は凍てつくように寒い。
セツナの目に届く範囲で確認できるものといえば、高級そうな調度品のいくつかと、寝台くらいのものだ。石造りの壁はどこか古めかしいが、妙な味わいがあった。天井も同じだ。そして天井からは魔晶灯が吊り下げられており、魔晶灯からは冷ややかな光が投下されている。眩しすぎるほどではないが、目覚めたばかりのセツナの目には痛いかもしれない。
ここがどこなのか、見当はつく。
リョハンだろう。
リョハンの三つある居住区のいずれか。山門街、山間市、空中都のうち、どこに招待され、どこで保護されているのかまではわからない。なぜならば、セツナはしばらく眠り続けていたのだ。少なくとも数日あまりの間は寝ていたに違いない。でなければ、少女がここまでの反応を見せるはずもない。
静寂が、横たわっている。
そのどこまでも穏やかな静寂の中を少女の嗚咽だけが響いていて、彼は、仕方なしに両腕を動かした。泣き続ける少女の華奢でか細い体を抱きしめ、彼女がびくりと反応を示すのを認める。しかし、彼女は抗うのではなく、むしろ受け入れ、身を任せるようにしてきたものだから、セツナは少女の小さな体を慈しんでやるほかなかった。彼女には、さんざん苦労をかけている。セツナが意識を失っている間もずっと、セツナの世話や周囲の対応に追われていたに違いない。
彼女だけが頼りだった。
ファリアやルウファといったかつての部下たちは、このリョハンにおいて新たな人生を歩み始めている。ファリアは戦女神となり、ルウファたちは七大天侍のひとりとして、リョハンの守護者を担っているのだ。かつての上官だからといって彼らに頼り、我が物顔をするのはお門違いも甚だしい。所詮、セツナは部外者以外のなにものでもないのだ。
「苦労をかけたな……レム」
セツナは、少女の震えが収まるのを待って、声をかけた。小さな、本当に小さな体だった。彼女が最初に死神となったのは十三歳のころ。それから十年以上が経過したいまも、彼女の時間は止まったままだ。肉体は死に、与えられた仮初の命は成長を促さなかった。それは、セツナがあの場に満ちた死の力を凝縮し、マスクオブディスペアのあらん限りの力を用いても、変えられなかったことだ。死を欺瞞しているのだ。仮初の命。そこに未来はなく、現在が永遠に続く。一種の呪いだ。少女の姿のまま、行き続けなければならないのだから。
セツナは、彼女にそんな状態を強いているといっても過言ではない。故に時折、心苦しくなる。彼女が本当は死神としての自分を、いまの状態を望んではいないのではないか、と。
「苦労だなんて……そのようなことありませぬ。わたくしはわたくしの務めを果たしただけのことにございます。セツナ=カミヤの下僕壱号としての務めを」
レムは、セツナの胸に埋めていた顔を上げると、満面の笑みを浮かべてきた。泣きはらした顔に刻まれる笑顔は太陽のように輝いていて、彼女が死神の異名を持つことを忘れさせた。
「御主人様が目覚められたことが嬉しくて、仕方がないのでございます」
レムのその言葉が嘘偽りないものであることは、彼女の表情を見ればわかる。見つめていられないほどに眩しくて、輝きに満ちていた。彼女がそんな表情を見せるのは、極めてめずらしいことだ。普段から笑みを絶やさないレムではあるが、本心からの笑顔というのはあまり見せなかった。そんなレムだからこそ、セツナも本音を漏らした。
「……俺は幸せものだな」
「はい?」
「おまえみたいな主想いの従者がいてさ」
セツナが照れくささのあまり天井を仰ぎ見ると、レムがきょとんとしたようだった。
「……ふふ。当たり前でございます」
レムが満面の笑みを浮かべているだろうことは、想像がつく。だからこそ、余計に視線を下ろすことができない。いま彼女の笑顔を見れば、気恥ずかしさのあまり卒倒してしまうだろう。
「わたくしほどの下僕に巡り会い、なおかつラグナやウルクといった下僕たちと出会えたのでございますよ。これを世界一の幸せものといわずして、なんと呼ぶのでございます?」
「……まったく、そのとおりだな」
「また、逢えますよね?」
「当たり前だ」
レムが問うてきたのは、ラグナとウルクのことだろうが、セツナはなんの心配もなく肯定した。
ラグナは、転生竜だ。たとえ肉体が滅びても、力が満ちれば、また再び新たな肉体を得て、この世に転生を果たす。あれから数年。既に転生を果たしているかもしれないし、いまだ魂だけの存在となってさまよっているかもしれない。しかし、いずれにしても、逢えない訳がない。
ウルクは、現在どうなっているのかわからない。だが、魔晶人形たる彼女が“大破壊”を生き延びられないとは思えなかった。彼女の躯体は極めて強固であり、並大抵の衝撃では傷ひとつつけられない。並の召喚武装ですら、だ。それだけ強固な躯体を誇るウルクならば、この世界のどこかに流れ着き、活動を再開しているのではないか。
「ファリアたちともまた逢えたんだ。逢えないものかよ」
「はい……!」
レムが力強く頷く。彼女もまた、この再会を心の底から喜んでいる。
二年前のあの日、別離の決断をしたことが、つい昨日のことのように思えた。意味のない決断ではなかった。あの決断によって、ファリアたちはリョハンに辿り着き、“大破壊”以降、変わり果てた世界を生き延びることができたのだ。そして、セツナと再会を果たすことができた。もしあのとき、ファリアたちを王都に置いていたら、どうなっていたか。神軍に囚われていたかもしれないし、“大破壊”に巻き込まれ、命を落としていた可能性も低くはない。
決して、無駄ではなかった。
「あ、そうでした」
レムが突如思い出したようにいってきたのは、しばらくしてからのことだ。セツナの抱擁を満喫したらしい彼女は、腕の中から離れ、寝台の脇に置いた椅子に腰掛けていた。
「ん?」
「御主人様がお目覚めになられたら、すぐにでもファリア様にお伝えしなければなりませぬ」
「……ああ」
「しばし、お待ちを」
いうが早いか、レムは颯爽とした足取りで部屋のひとつしかない扉に向かっていった。その軽々とした足取りは、セツナが覚醒したことで不安が払拭されたということもあるのだろう。ふと、そんな彼女の軽やかな様子を見て、セツナは口を開いた。
「レム」
「はい?」
「俺は何日、寝てた?」
「五日ほどでございます」
レムの即答ぶりは、彼女が毎日毎日、セツナの眠っている日数を数えていたという証明にほかならないだろう。
「五日……か」
「どうされました?」
「いや、想ったほどじゃないなって」
「五日も眠り続けられたのですよ? それを想ったほどではないとはいったいどういうことでございますか」
ずかずかと詰め寄られて、セツナは渋い顔をした。まさかそこにレムの逆鱗があるとは思わなかったのだ。
「んー……そりゃおまえ、あれだけのことをしたんだぜ? もっと寝込んでもおかしかねえだろ」
「それは……そうでございますが」
「けど、あれくらいのことをしなきゃ、あの状況を打開することができなかったのは紛れもない事実だ」
「はい……」
「ああしなきゃ、ファリアも皆も、助けられなかった」
黒き矛と六眷属の同時召喚による完全武装は、一種の賭けだった。
「良かった……間に合って」
セツナは、心の底から安堵の言葉を述べて、寝台の上で大の字になった。
全身、疲れ果てている。
眠れば眠るほど疲れが取れるというものでもない。その上、五日間ほぼ眠り続けるということは、消耗した精神力や体力の回復と同時に多少なりとも筋力が低下していたとしても、おかしくはなかった。肉体は、鍛え続けなければ衰えるものだ。人間なのだ。神でもなければ化物でもない。
そんな人間が神の軍勢と戦い、撃退できたのは奇跡というほかないのではないか。
(いや)
セツナは、天井に伸ばした手を握り締め、拳を作った。まるで黒き矛を握りしめるように。
(奇跡なんてもんじゃねえよな)
できて当然。
そう想わなければ、やっていけないだろう。
戦いは、これから激化していく。
彼は、そう予見した。
世界が再び滅亡の危機に曝されかねないほどの戦いが起きるだろう、と。
そのためにも、完全武装を使いこなせるようにならなければ、ならない。