第千九百五十一話 真相(四)
「だとしたら、どうだというのだ?」
ラジャムが、セツナが掲げる黒き矛を見据えながら、いった。さながらセツナの感情を逆撫でにするかのような物言いであり、セツナが眉をぴくりと動かすのがレムの目にも見えた。試合会場上空。通常、表情まではっきりと見えるはずもないのだが、レムの目は、いつもより格段に良くなっていた。本来見えないはずの彼方のものまで、手に取るように把握できる。まるで召喚武装を手にしているかのような感覚だった。召喚武装を手にすることによる副作用が、いままさにレム自身に発生しているような、そんな状態。
それは、レムにとってごく普通の感覚だ。普段から、常人以上の五感を有している。それがマスクオブディスペアの能力によって仮初の生を得た結果、生じた副作用のようなものであることは、疑いようもない。しかし、その副作用は、決して大きすぎるほどのものではない。確かに視覚や聴覚といった感覚が強化され、身体能力まで引き上げられているというのは、それだけで強力だ。だが、その程度では、セツナの戦いにはついていけないのだ。それでは、主の足手まといになる未来しか見えない。
そう、思っていた。
だが、いまレムの身に起きている異常事態は、セツナのわずかばかりの表情の変化すら認識しうるほどのものであり、大気の揺らぎさえもはっきりと認知できるほどだった。まるでいくつもの召喚武装による影響を受けているかのような状態。
なぜ、そんなことが起きているのか。
考えるまでもないことだ、と、彼女は、自分の愚かさに呆れる想いがした。胸に手を当てる。胸の奥、心臓は動いているのかどうか。そこに確かに存在する仮初の命を意識して、その命の源へと視線を注ぐ。セツナ。
彼から流れ込んでくる命が強烈な熱を帯びていることが、なんとはなしにわかるのだ。それが力となって、レムの身体能力さえも引き上げている。
「我がすべてを知っていたから、なんだというのだ」
「あんたは、俺をここに引き止め、俺との闘技に興じるため、そのためだけに真実を隠した。リョハンでいまなにが起こり、いままさに窮地に陥っているという事実すら、ひた隠しにした」
(リョハンが窮地に陥っている……?)
レムは、セツナがいったその言葉に驚くとともに彼がなぜ、ラジャムに怒りのまなざしを向けたのかを理解した。そして、セツナがなぜ、リョハンの状況を把握しているのかも想像がつく。おそらく、召喚武装の同時併用が原因だ。七つもの召喚武装を同時併用したことがセツナの五感を常人には想像もつかないほどの領域へと引き上げ、その結果、遥か北方のリョハンの状況すら認識してしまったということだろう。それ以外には考えられない。
黒き矛一振りでさえ、極限まで力を引き出せば、とてつもない範囲の情報を感知することができるというのだ。眷属すべての力を合わせ、その上で力を引き出したとなれば、その目や耳がリョハンにまで届いたとしても、決して不思議ではない。もちろん、だとしてもとんでもない事実であり、到底、理解しきれないことではあるが。
際限なく流れ込んできているであろう膨大な量の情報に、セツナがまるで混乱していないことが不思議に思えるほどだ。彼は至って冷静に、しかしいまにもはちきれんばかりの怒りを隠しきれないといった様子でラジャムを見据えていた。
「そうしなければ俺と闘えないからな」
「よくわかっているではないか。そうだ。そのとおりだ。セツナよ。魔王の杖の保持者よ。そなたが強く、猛々しい魂の持ち主であることは、これまでの戦いでよく理解できた。なれば、我としてはそなたとの闘技を望まずにはいられまい。我は闘神。勝利と鎮魂を司るものなり」
「その願いは、もう叶わない」
「なに?」
「俺があんたの闘技に付き合ってやったのはだ。あんたたちがリョハンに関する情報を握っていたからだ。俺がリョハンの状況を知り、リョハンの位置を把握したいまとなっては、そんなものに価値はないのさ」
セツナは、吐き捨てるように告げると、レムのほうを一瞥してきた。燃え盛る炎のように輝く深紅の瞳には、数日間に渡って自分たちを引き止め続けた神への怒りが渦巻いているものの、レムに向けたまなざしそのものは、ひどく優しい。レムがふと心配になるくらいに柔らかく、穏やかだった。燃え滾る怒りと繊細なまでの優しさは、矛盾なく同居できるものだろうか。レムが不安を抱いたのは、セツナが無理をしているように想えてならなかったからだ。
七つの召喚武装の同時併用もそうだが、感情の処理そのものも、無理に行っているのではないか。
ラジャムがセツナを見据える。全身から神々しいまでの光が放散される。まるでラジャムの感情の高ぶりを表現しているかのようだった。
「行くというのか? リョハンに」
「ああ。あんたはここで、闘士たちの闘技でも見て楽しんでな。俺は、行く」
「ふはははは……! この状況、そなたという最高の対戦相手を前にして、我がみすみす見逃すとでも想うたか。我はそなたとの闘技を所望しておるのだ。そなたとの魂の尊厳を賭けた、全身全霊の決闘を!」
閃光が奔った直後、轟音が響き渡った。衝撃波が試合会場を襲いかかり、爆風が膨大な量の土砂を舞い上げる。感覚を強化されたレムでさえ、一瞬、なにが起こったのかわからなかった。ラジャムがセツナに飛びかかり、猛烈な一撃を叩き込んだのだ。その衝撃が周囲に拡散し、試合会場をでたらめに破壊した。幸い、観客席やレムたちが観戦している場所はラジャムの結界によって護られているため、なんの被害もなかったものの、吹き上げる土砂が濛々と立ち込める霧の如くであり、立て続けに聞こえてきた激突音がなにを意味するのか、まったくわからなかった。セツナは、ラジャムの攻撃をどう対処したのか。応戦しているのかどうなのかさえ、判別できない。だからといって、セツナが負けているとは微塵も想えなかった。闘争を愉しむことに執念を抱く神が、ちょっとしたことで己の全存在を揺るがすような真似をするとは考えられない。
「見よ、この力を!」
ラジャムが勝ち誇るように告げる中、粉塵が空高く舞い上がっていく。そして、レムはそれを目の当たりにして、驚嘆した。レムだけではない。その場にいただれもが、我が目を疑ったことだろう。闘士も一般市民も関係なく、セツナとラジャムの闘技を見、熱中していただれもが、その変容を目の当たりにしたとき、驚くよりほかはなかった。
「これが我が力、闘神としての最大力なり……!」
ラジャムは、空中にあって、六本の腕と、その手の先に煌めく六振りの得物を構え、地上に落ちていたらしいセツナを見下ろしていた。
変容。そう、変容なのだ。ラジャムの姿は、金色の鎧を着込んだウォーレン=ルーンとはまるで異なる外見へと変わり果てていた。まず、人間には見えない外見だった。ウォーレン=ルーンという人間の要素は完全に消えてなくなり、金色の甲冑だけが印象として残っている。いわば異形化し、巨大化した甲冑だった。神々しいというよりは禍々しいというべき異形の甲冑を目の当たりにしてレムが真っ先に思い浮かんだのは、ベノアガルド騎士団十三騎士が用いていた真躯だ。オールラウンドやハイパワードほどの質量はないものの、ウォーレン=ルーンの身長の二倍から三倍はあろう体躯は、巨躯といっていいだろう。そして、その巨躯を覆う金色の甲冑は至る所で変化があり、元の造形がどうだったのか思い出せないくらいだった。腕は六つ。それぞれの手には剣、刀、槍、斧、棍、槌と多様な武器が握られている。燃え盛る炎を象徴するような光背が浮かび、そこから拡散する光は、神々しいといって差し支えない。ウォーレン=ルーンの顔は、兜の面当の奥に隠れているのか、まったく変わり果ててしまったのか。面当は、鬼を思わせるような威圧感に満ちたものであり、双眸は金色に輝いていた。
いままさに闘神ラジャムが顕現したのだ。
周囲の闘士たちから感嘆の声が漏れたかと思うと、膝から崩れ落ち、涙を流すものまでいた。闘士だけではない。観客席の一般市民の多くも、闘神ラジャムの姿を目の当たりにして、だれもが信仰心の赴くままの反応を見せていた。あるものはラジャムに手を合わせ、あるものは祈りの言葉を唱え、あるものは泣き崩れた。
ここは闘都アレウテラス。
“大破壊”以来、闘神への信仰が心の拠り所となった都市なのだ。市民のいずれもが、闘神への信仰心を持っている。闘神の姿を見た途端、崩れ落ちるのも無理からぬことだ。
無関係なレムでさえ、ラジャムの放つ絶大な神威の前には膝を折りそうになったほどだった。
「ああ、すごいよ。やはり神様の力ってのは偉大だ」
セツナの冷めきった声が、レムの耳に心地良く響く。彼の声を聞くだけで、神の威に当てられ、萎縮を始めた心が立ち直り、力が戻る。アレウテラスのひとびとにとっての心の支えがラジャムならば、レムにとっての心の支えがセツナなのだ。
「けどな、俺はあんたに構っている暇なんてねえんだよ」
「そなたにはなくとも、我にはある」
「それがうぜえってんだよ!」
セツナが怒りを露わにしながら、地を蹴った。もはや我慢ならないといったところだろう。ラジャムは、ついに神の姿を顕現した。ウォーレン=ルーンの肉体を借りただけでは出し切れないほどの力を発揮していると見て、いい。セツナがいま、かつてないほどの力を発揮しているとしても、無視できない存在となったのだ。だから、セツナはラジャムとの闘争に身を置かざるを得なくなった。そのことが、彼の全身から怒気を迸らせたに違いない。
レムは、まるで自分の心が震えるような感覚の中で、セツナの怒りの激しさを知った。その怒りがどういう由来のものなのかは、考えずとも察しがつく。リョハンの現状を知ったというのだ。窮状を。最愛のひとの危機を。セツナが怒り狂うのも、当然だった。
「はははっ、怒れ、もっと怒れ、セツナよ!」
ラジャムは、六本の腕を暴風のように振り回した。斬撃が光を帯び、光波となってセツナに襲いかかる。セツナは、光波の乱撃に対し、ロッドオブエンヴィーを振り上げた。先端の髑髏より黒く禍々しい手が出現したかと思うと、迫りくる光波の尽くを薙ぎ払ってみせた。だが、それでラジャムの猛攻が終わったわけではない。虚空を蹴ったラジャムは、一足飛びにセツナへと肉薄する。遠隔攻撃では決定打になりえないと踏んだのだろう。接近戦を挑むつもりのようだ。それは、セツナにとっても望むところのはずだ。ラジャムが吼える。
「人間は感情の生き物だ! 怒りが力を増幅させ、戦闘を激化させる! 闘技としては美しさには欠けるが……致し方あるまい。その力が発揮されるならば、多少醜くとも問題はないなあ!」
「黙れ、ラジャム!」
「はははははっ! もっと、もっとだ! もっと力を上げろ! 熱を入れよ! 火を付けよ!」
ラジャムとセツナの間で無数の光が交錯する。レムでさえ認識しきれない攻撃の応酬。物凄まじいとしかいいようのない猛攻の数々は、まるで閃光そのもののように認識し、網膜に焼き付けられていく。斬撃がぶつかり合えば力の爆発が起き、轟音が響き渡る。それも一瞬のうちに何度となく発生し、中央闘技場だけでなく、アレウテラスそのものが激しく揺れた。
「体に! 心に! 魂に!」
ラジャムは、待ち望んだ闘争に昂揚を隠しきれないといった様子だった。対するセツナは、燃え盛る怒りをその攻撃のひとつひとつに込め、力を引き上げていくのが、レムには痛いほどわかった。ただ見守ることしかできないレムには、それが辛く、苦しい。
「でなければ、我がそなたを打ちのめしてしまうぞ!」
「……おおおおおおおおおおっ!」
ラジャムの哄笑を掻き消すかのようにセツナが発した咆哮は、レムの胸に響き、魂を震わせた。
そのとき、確かにレムは聞いたのだ。
セツナの鼓動に合わせ、世界が震撼する音を。
そして、異変が起きた。