第千九百四十九話 真相(二)
レムは、戦女神ファリア=アスラリアとの会見を終えると、速やかに愛すべき主の待つ御陵屋敷へと足を向けた。リョハンの三つある居住区のうち、リョフ山の頂に広がる空中都、その東側区画に御陵屋敷はある。
御陵屋敷とは、空中都の中でも小高い丘のようにも見える尾根の上に築かれた建造物の名前だ。空中都は、太古の遺跡をそのまま利用している部分が多く、御陵屋敷も大部分が古代に建造された当初のままだという。御陵屋敷と呼称されるようになったのは、ここ数百年のことのようだが、それでも数百年に渡ってそう呼ばれ続けているのだから、十分に歴史は長い。
その御陵屋敷にレムが向かっているのは、もちろん、そこにセツナがいるからだ。
第二次リョハン防衛戦と呼称される先の戦いにおけるセツナの活躍は、リョハンの政府やその頂点に立つ戦女神のみならず、リョハン軍の将兵、七大天侍と呼ばれるひとびとに極めて高く評価された。レムはそういった評価の数々を当然のように想い、受け入れているが、それもセツナの戦いぶりを目の当たりにしたからだったし、セツナがどれほどの覚悟であの場に翔んだのかを理解しているからだ。
己の命を焼き尽くすほどの覚悟がなければ、あの場に至り、神軍の撃退など成し遂げられなかっただろう。セツナにそれほどの覚悟をさせたのは、リョハンにファリアの存在があったからにほかならないし、その事実は、彼自身認めるところだろう。セツナにとってファリアこそが最愛の人物であることは、レムにも理解できていることだったし、認めざるをえないことだ。レムはその事実を羨みこそすれ、妬みはしない。セツナとファリアの間には、入り込む隙などありはしないのだから。
ともかくも、セツナの物凄まじいとしか言いようのない覚悟の果て、神軍の撃退は成り、リョハンは平穏を得た。それにより、リョハンはセツナを評価し、意識を失ったセツナが回復するまでの寝場所として、御陵屋敷を開放してくれたのだ。
御陵屋敷は、元々、リョハンを訪れた賓客のためにのみ使われているらしく、“大破壊”から今日に至るこの二年あまり、まったく使われていなかったという。ただ、定期的に清掃だけはしているため、埃が積もっていたり、汚れていたりすることはなかった。そのため、レムは安心してセツナを寝かせることができたし、大きな屋敷を丸々セツナのためだけに開放してくれたリョハンには感謝するしかなかった。
御陵屋敷には専属の使用人が何人もいたが、セツナの身の回りの世話は、レムが自分の役目であるといって、使用人たちに手を出させなかった。下僕壱号としての誇りが、そうさせる。先の戦いにおいてほとんど役に立てなかったのだ。こういうときくらい、セツナの役に立たなければ、なにが下僕壱号なのかと弐号や参号に笑われてしまうだろう。
レムが戦宮での会見を終えて御陵屋敷に急いだのも、そのためだ。会見のため出かける前もセツナが目覚める兆候はなかったものの、主の側に控えるのが下僕たるものの務めなのだ。目覚めようと目覚めまいと側にいて、彼の覚醒を信じて待ち続けるべきだ。
戦宮を出て御陵屋敷に辿り着くまでの間、レムは道行くひとびとに声をかけられた。空中都のひとびとというのは、気さくな性格の持ち主が多いらしい。なぜレムに声をかけてきたかというと、市民のだれもが先の戦いにおけるレムの参戦を知っているからであり、レムの外見があまりにもわかりやすいからだ。レムは、相変わらず、使用人とも女給とも見紛う黒と白を基調とした衣装を身に着けている。それが死神レムの目印であると、リョハンのひとびとはなぜかよく理解していたのだ。
どうやら、ルウファやミリュウ辺りが言い触らしていたようであり、レムはその事を知ると、怒るよりもむしろ嬉しく想ったものだった。“大破壊”を経て、散り散りになったあとも、自分のことを忘れるどころか、時折話題に出して思い出してくれていたのだ。それを嬉しく思わないはずもなかった。
レムは声をかけてくれた市民に挨拶を返して、御陵屋敷へ急ぎながらも印象が悪くならないように務めた。別に自分自身がどう思われようと構わないのだが、レムの評判は、主たるセツナの評判に直結しかねなかったし、ファリアへも波及しかねないからだ。もっとも、特別なにかをするわけではない。いつものように微笑を湛え、返事をする程度のことだ。
その上で御陵屋敷に辿り着いたレムは、御陵屋敷の使用人たちに出迎えられ、またしても満面の笑みで応対しなければならなかった。
御陵屋敷は、大きな建物だ。二階建ての石造建築物であり、全体的にいかにも古代遺跡といった趣があった。リョハンは、聖皇による大陸統一以前から存在し、ひとびとの居住地として利用されていたといい、空中都の遺跡群も五百年程度では済まない長く古い歴史を誇っている。戦宮や議事堂、監視塔といった空中都の名所ともいうべき建物もそうだ。空中都に存在する建物の大半は、古代遺跡をそのまま利用しているか、多少手を加えている程度であるということだった。
御陵屋敷もそうなのだが、御陵屋敷は迎賓館としての役割を持っていることもあり、迎え入れた賓客が起居する上で不自由しないように各所に手が加えられていた。リョフ山はヴァシュタリア領土内最高峰の峻険だ。その頂に築かれた空中都は、凄まじいまでの標高に位置しており、空気が薄く、気温が低いことこの上なかった。
そもそも、ヴァシュタリア勢力圏というのは、小国家群北部に位置し、北国と称されたベノアガルドやアルマドールなどよりも北に広がる大地であり、冬が長く、それ以外の季節が短いとして有名だった。三月も半ばにいたろうというこの時期、いまだ雪が降り積もることが少なくないらしい。特に空中都を吹き抜ける風は驚くほど冷たく、吐く息は白く凍ったものだ。
御陵屋敷は、迎え入れる客人が空中都の寒さにも耐え凌げるよう、格別な計らいがされているとのことだった。詳細までは不明だが、御陵屋敷の構造上の問題を空中都の職人たちが解決したのだと、使用人たちが自慢げに教えてくれている。
レムは、御陵屋敷内に戻るなり、冷え切った体を温めることすらせず、そそくさと主の寝室へと足を向けた。ちなみに、レムは御陵屋敷を出る際、使用人のひとりに呼び止められ、防寒着を手渡されている。しかしレムはそれを着ることはせず、寒風吹き抜ける空中都を歩き回った。それは単純に、死神である彼女には、寒さなど大した問題ではないからだ。寒さに凍えて死ぬわけもなければ、耐えられないようなものでもない以上、むしろ動きやすい格好のほうがいいという判断だった。その結果、体が凍るほどの低い気温に辟易する羽目になったものの、御陵屋敷に帰り着くころには慣れきってしまっていた。防寒着を着込んでいれば、そのようにはいかなかっただろう。
御陵屋敷の迷路のように入り組んだ通路を進み、目的の部屋の前に辿り着く。と、使用人と護峰侍団隊士が木製の扉の前で立ち話をしていた。レムの姿に気づくと、護峰侍団隊士は敬礼を、使用人は居住まいを正した。
「どうぞお気になさらないでくださいまし」
レムはふたりに笑顔を向けると、彼らの反応も横目に扉の取っ手に手を伸ばし、室内に足を踏み入れた。
護峰侍団の隊士がセツナの寝室の前に立っているのは、もちろん、セツナという要人の身辺警護のためだ。普段、セツナの側にはレムという従僕兼護衛が付き従っており、身辺警護の人員など不要だといいきれる。レムひとりで護峰侍団が寄越した隊士の何倍もの働きをする自信もあった。しかし、今回のようにレムがセツナの側を離れる場合もあり、そういうとき、眠っているセツナにもしものことがあってはならないため、レムも護峰侍団の隊士を護衛につけることに納得したのだ。本来であれば、自分の役割が奪われると全力で反対したいところだが、セツナが目覚めないのだから致し方がない。
セツナが目を覚ましてくれればそれだけで解決するような問題がいくつもある。
だがしかし、そのことをいまも眠り続けるセツナ本人に直接いったところで、どうしようもないのだ。
室内に入ると、薄っすらとした闇が横たわり、穏やかな静寂の中に小さな寝息が流れていた。耳を澄まさなければ聞こえないほどか弱い音色だが、レムの耳には確かに彼の規則正しい寝息が届いている。それだけでレムは安堵し、急いで帰ってくる必要もなかったのではないか、と思わないではなかった。
が、それが第一の下僕たる自分の役割であると想えば、なんの不思議もない。
薄い闇に目が慣れるまで、時間はかからない。後ろ手に扉を締め、部外者の立ち入りを無言のまま、拒絶する。無論、御陵屋敷の使用人も護峰侍団隊士も、なにもいわずともしゃしゃりでてくるような空気の読めない人間たちではなかった。むしろ、セツナとレムの心証が悪くならないよう、気を使いすぎているきらいすらあった。
しかし、そういった配慮は、いまのレムにはこの上なく嬉しいことであり、だからこそ彼女は安心してセツナの枕元までまっすぐ進むことができるのだ。背後に、部屋の外に気を使う必要がない。
広い室内の中心近くに配された大きな寝台に彼は眠っている。
先の戦いで力を使い果たし、ファリアの腕の中で眠るように意識を失い、そのまま眠り続けているのだ。何日も、何日も。このまま永遠に目を覚まさないのではないか。そんな不安が過るほど、彼の眠りは深く、長かった。
もっとも、セツナが力を使い果たした後、長く眠るといったことは、別段、めずらしいことではない。
大きな戦闘が終わるたびに意識を失っていたといってもいいくらいだ。それほど、黒き矛カオスブリンガーに秘められた力が大きく、制御するために精神消耗が激しいということなのだが、同時に完全に使いこなせているとは言い切れないという証明でもある。
戦いのあと、消耗の余り意識を失うものが力を使いこなしているとはいえまい。
だが、しかし、今回ばかりは仕方のないことだ、と、レムは想うのだ。
薄闇の中、柔らかな枕の上で寝息を立てる主の、どうにも少年にしかみえない寝顔を見下ろしながら、彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
アレウテラス中央闘技場における、セツナの鬼気迫った表情とは真逆といっていいくらい穏やかで、愛おしさがこみ上げてきて仕方がなかった。
ファリアにもいったことだが、セツナはレムとともに、中央闘技場からリョハンの戦場に直接翔んでいる。
黒き矛と眷属の全能力開放による空間転移だとセツナはいった。
それによって、リョハンの戦場まで一気に移動したのだ。
そして、レムはセツナにいわれたまま、ファリアの救援に赴き、セツナは神軍主力の撃退に力を注いだ。
そのときのことをつい昨日のことのように思い出すのは、それだけ、あのときのセツナが印象に残っているからだろう。
ラジャムのやりように業を煮やしたセツナの表情は、魔王の杖の使い手に相応しいといえるようなものだった。