第千九百四十話 責任の在り処(四)
「リョハンが独立以降、大きな混乱もなく数十年に渡る歴史を積み上げ、今日まで生きてこられたのは、紛れもなくその戦女神という象徴のおかげだ。そのことは、皆様も承知のはず。戦女神という象徴がなければリョハンがひとつに纏まるには時間がかかり、そこにヴァシュタリアが付け入る隙も生まれたことだろう。当時の護山会議には、その点では感謝するほかあるまい。リョハンが生き延びてこられたからこそ、我々もまた、今日を生きていられるのだから」」
モルドア=フェイブリルの演説は、続く。彼の声は、年齢や体格からは考えられないほどよく通り、まるで歌物語でも聞いているような気分になってくる。
「つまり、戦女神を矢面に立たせることで、護山会議は、市民からの批判や非難、不平不満もすべてかわすことに成功した。戦女神という絶対的な象徴には、純粋なリョハン市民が不満をぶつけることなどありえない。多少の不平不満は、戦女神のお考えという一言によって霧散するのだから。故に護山会議は、リョハンを好き放題にできたというわけだ」
護山会議と戦女神の在り様をそんな風に考えたことは、ファリアにはなかった。護山会議の上に戦女神という立場があり、戦女神は護山会議の決議に意見を挟むことができる、ということは理解していたし、実際、ファリアはそのように何度となく口を挟んでいる。先代戦女神である祖母もそうだったし、それが戦女神の立場であり、護山会議は苦々しく受け入れるほかないと思っていたのだが、どうやら内実は違うということのようだ。
護山会議は、むしろ戦女神を思う存分利用しており、時折戦女神の我儘に振り回されるのも織り込み済みのことのようだった。
「我々も、その恩恵の中にあるという事実を忘れてはならない。我々が護山会議の一員として権勢を誇っていられるのは、すべて、戦女神という盾があればこそなのだ。そのことを忘れ、戦女神の排斥を望むなど、愚の骨頂、筋違いも甚だしい」
「しかし、議長は難民問題については反対なさっていたのでは?」
「それとこれとは別の話だろう。わたしは、難民問題については反対したが、それ即ち反戦女神などと捉えられては心外だ。リョハンにとってより良い政策を考えるのが護山会議員としての使命。なれば、難民を受け入れた結果、リョハンが害を被る可能性を考慮し、保護に反対するのは当然のこと」
「でしたら、なにも議長が辞任なされる必要は……」
「それが筋違いだというのだ」
モルドアが議員たちを一喝する。
「我々は、戦女神様の加護によって、護山会議を運営し、リョハンの為政者という立場を得ている。我々の決議が戦女神様のお考えであるならば、戦女神様の判断が間違ったのであれば、その責任の所在はどこにある?」
モルドアの質問に議員たちが渋い表情をする中、ただひとり彼だけは明朗快活な顔をしていた。
「簡単なこと。我々よ」
モルドアは、続ける。
「戦女神様。これは、戦女神という象徴を創出したときから護山会議の取り決めとして定まっていたことであり、なにもおどろくようなことではありません。戦女神という盾を利用してリョハンを統治運営すると定めた護山会議は、同時にその責任の在り様も考えていた。つまり、政策が失敗した場合、だれが責任を取るのかということ」
「それが……議長?」
「場合によっては、議員の総辞職もありえますが、この度は、リョハンの被害がなかったこともあり、わたしひとりの首で勘弁願いたい。いま、この状況下で護山会議全員の首を飛ばせばどうなるか、戦女神様も、七大天侍の皆様にもおわかりのことと想う」
「それは……そうですが……しかし……」
「戦女神様、あなたは約二年前、“大破壊”後の混乱を鎮めるべく、急遽戦女神の座に着かれた。決意も覚悟も本物でしたでしょうが、しかし、準備期間もなにもなかったのも事実。戦女神として必要な知識も、力も、なにも足りなかった。それでも今日までリョハンのために奔ってこられた。難民問題も、戦女神として当然の決断をなされたに過ぎない」
モルドアのまなざしは、いままでにないくらいに優しく、ファリアは、驚きをもって彼を見つめ返す他なかった。モルドアがファリアに対してそのような表情をしたことは、これまで一度だってなかったのだ。子供の頃からよく知る人物だ。二十年以上前、彼女が物心付いたときには彼は政治家として辣腕を振るっており、祖母の元にもよく訪れていた。そのころでさえ、彼は常に渋い顔をしていた。ファリアは、彼に嫌われているのだと心底想っていた。戦女神の後継者に相応しくないと判断されたのだ、と。
だが、どうやら彼の本心は別のところにあったらしい。
「先代戦女神様も、あなたと同様の決断をなされたことでしょう。そして、先の戦いと同じ事態を招いたに違いありません。それが戦女神なのです。なにも間違ってはいない。されど、我々護山会議の立場からは、それには反対しなければならなかった。難民を受け入れた挙句、リョハン市民に苦痛を強いるなど、リョハン市民の代表者たる我々にはとてもとても、納得できるものではない。だから、わたしや皆は反対した。それでもなお、戦女神様が強行するだろうことを理解した上で、です」
「議長……」
「難民を受け入れ、市民に我慢を強いるか。市民のために難民を見捨て、多くの命を散らせるか。どちらが正しく、どちらが間違っているのかなど、判断しようもない。正しさなど、立場によって変わるもの。リョハンを第一に考える我々ならば後者が正しく、戦女神としての立場ならば前者が正しいのです」
彼のいうように、正義は、立場によって変わるものだ。
そのことは、ファリアはこれまでの人生における様々な経験によって理解したことだが、まさか政敵と認識していた相手からそのような言葉が発せられるとは想っても見なかったし、まさか自分の判断が間違っていなかったなどといわれるとは考えたこともなかった。
「あなたは正しいことをなされた。胸を張ってください」
「正しいこと?」
口を挟んだのは、ヴィステンダールだ。彼は、モルドアを睨むと、強い口調で迫った。
「その正しさのために護峰侍団の隊士たちが犠牲になったことをお忘れか?」
「御山のために命を張るのが、貴公ら護峰侍団の使命であろう」
「御山のためならばいざしらず、難民のためになど……!」
ヴィステンダールが思わず口走ったのは、彼の本心に違いない。リョハンの民でもなければ、ただの敵であったものたちのために命を落とすなど、護峰侍団の隊士たちにとってはこれほど無念なこともない――という彼の気持ちも、わからないではない。モルドアがヴィステンダールに対し表情を歪めるのは、それを理解した上でのことだろう。
「難民も、当時は御山の一部だったのだ。そのこと、ゆめ忘れるべきではない」
「しかし……!」
「しつこいぞ、ヴィステンダール侍大将。責任は、わたしにある。わたしの首がほしければくれてやる。いつでも取りに来るがいい」
「……たかが富豪の首など、なんの価値もあるものか。そも、だれの首を欲するという話ではありませんぞ」
モルドアがまるで豪傑のような口ぶりで告げると、ヴィステンダールはつまらなそうに外方を向いた。さすがはリョハン最大の政治家といったところだろうか。政治家として多くの修羅場を潜り抜けてきただけのことはある。
「ならば、この話は仕舞いだな」
「……いいでしょう。このたびは、議長が全責任を負うということで、我々も矛を収めることにします。死んだものたちは納得しないでしょうが、してもらうほかありますまい」
「このたびだけの話ではないぞ。今後、どのような問題があったとしても、責任を取るのは護山会議の面々だ。たとえ戦女神様が致命的な失態を犯したとしても、な」
「そんな……」
「戦女神様、なにを驚かれることがある。先もいったでしょう。護山会議は、戦女神という盾の後ろで好き放題に政治を行う組織である、と。これからもその構造が変わることはないのです。今後も、護山会議は戦女神様の威光を借りてリョハンを統治運営し続けることになりましょう。そして、その決議が気に入らなければ、戦女神様自身が口を出されれば良い。そうやって、リョハンはこれまで歴史を積み上げてきたのですから」
モルドアの言葉が、ファリアの心に染み渡るようだった。
「そして、政策が失敗に終われば議員のいずれかが責任を取る。戦女神様の名を穢すわけには参りませんからな。戦女神様があればこそ、リョハンは安定していられる。そのことは、先代様亡き後、痛いほど理解しました」
深刻そうな表情でモルドアが告げると、ほかの議員たちも彼と似たような表情をしていた。皆、モルドアの心労を理解しているという様子だ。祖父もそうだ。護山会議にとって、先代戦女神ファリア=バルディッシュが亡くなってからしばらくというのは、冬の時代と呼ぶに相応しい時期だったらしい。
いわゆる人間宣言は、戦女神ファリアをただの人間に戻すものであり、ファリア=バルディッシュが生涯を終え、後継者を出さないために必要な儀式だったのだが、それによって護山会議が負った苦労は想像を絶するものがあったようだ。アレクセイは、護山会議ならばリョハンを引っ張っていけると息巻き、祖母もそう信じていたが、どうやらそう簡単にはいかなかったのだろう。
そして、最終戦争が起き、“大破壊”が起きた。民心が乱れ、護山会議だけでは収まりがつかなくなった。だから、ファリアは戦女神になった。そうすることでリョハンが収まるのであれば、そうしよう。ただそれだけのこと。それ以上でも、それ以下でもない。ただ、そこに覚悟と決意があったのはいうまでもない。並大抵の覚悟では、祖母の後を継ぐなどできるわけもないのだ。
「リョハンは、いまや戦女神なしでは生きていけぬものたちの都となったのです。だからこそ、あなたに戦女神になって頂いた。そうするほか、リョハンを安定させる術がなかった。いい大人が雁首揃えてひねり出した結論がそれだ。先代様の人間宣言を踏みにじることを恥ずかしげもなくやってのけた。まったく、議長であったわたしがいうのもなんだが、嘆かわしいことだ」
彼は嘆息する様を、ファリアは、呆然と見つめていた。ファリアは戦女神の継承問題に関して、護山会議の議員たちの苦悩など、想像したこともなかった。自分のことだけで精一杯だった。戦女神として相応しくあるにはどうすればいいか、とか、戦女神として上手くやっていけるのだろうか、とか、本当に必要とされているのだろうか、とか、そんなことばかり考えていた自分が恥ずかしくなった。もちろん、リョハンのためが第一ではあったが、護山会議の面々がどれほど苦渋の決断を下したかなど、考えたこともなかったのだ。
「しかし、リョハンをそのようにしてきたのは、我々護山会議なのだ。戦女神なくしては生きられない、そんな世界を作り上げてしまった。守護神様には申し訳ないことだが、守護神様では、リョハンの柱にはなりえぬのです」
モルドアがなんともいいにくそうに告げた直後だった。
《気にしなくていいよ。ぼくは好きでリョハンを守っているだけだから》
突如頭の中に直接響いた神の聲に、ファリアは愕然とした。
「マリク様!?」
「……聞いておられたのですか?」
モルドアは極めて冷静に対処したものの、それ以外の多くの議員、護峰侍団幹部、七大天侍たちは一様に驚きを隠せないでいた。それもそうだろう。守護神マリクは、リョハンの政治には関心を示さず、干渉しようともしないのが通例だった。どのような重要な会議であったとしても、意見を述べることもなければ、会議に耳をそばだてるといったことさえなかった。それがまさか、このたびの会議に至っては聞き耳を立てるどころか、話に割り込んでくるなど、だれも想像しようもなかったのだ。
《ニュウから大事な会議だと聞いていたからね。最初から聞かせてもらっていたよ》
ニュウがバツの悪そうな顔をしながら、懐から円盤を取り出した。守護神との通信器だ。もちろん、既に作動していて、中心部からマリク神の幻像が浮かび上がっていた。つまりマリクは通信器を通して、会議の内容を聞いていたということだ。ファリアがニュウを見ると、彼女は困り果てたような顔をして見せた。彼女としても、ファリアに黙って通信器を持ち込んだことには後ろめたいものがあったのだろう。
《とはいっても、ファリアが戦女神の座を降ろされるようなことになるのも問題なんでね、そういう状況になったとき、口を挟ませてもらおうと想ったんだけど……どうやらその心配はなかったようだ》
「マリク様……」
ファリアは、マリクがまさかそのようなことを考えていたなど思いもよらず、胸がいっぱいになった。マリクは、リョハンの政治には干渉しない。護山会議と戦女神の対立も、どうでもいいことのように眺めているだけで、ファリアに助言のひとつもくれたことはない。しかし、それは無関心だったからではなく、口を挟む必要がないと判断してのことのようだった。
《戦女神ファリアがいなければリョハンは自壊する。そしてその自壊は、ぼくの結界でどうにかできるものではない。ひとを護ることはできても、ひとの心を繋ぎ止める力は、ぼくにはないからね。ひととひとを結びつけるのは、心だ。神の力なんかじゃあない》
卓の上に置かれた通信器に浮かび上がるマリクの幻像は、力強く、そして優しく、いう。
「心……」
《それを君が担うのさ、ファリア》
「わたしが……」
ファリアは、自分の胸に手を当てた。心。リョハンのひとびとの心を結びつけるのが戦女神の役割だと、いう。そういう風に考えたことは、なかった。ファリアはただ、戦女神たろうとしただけだった。戦女神たることで、それだけでリョハンを纏め上げられるものだと考えていたからだ。そういう自分の考えの浅はかさを認め、改める。
「そうです。戦女神様。あなたはこのリョハンの象徴であり、希望であり、光であり、柱なのです。あなたが、リョハンの民の心を結ぶ中心にあるからこそ、リョハンは存続しうる。なればこそ、護山会議ものうのうと会議を繰り返し、護峰侍団も訓練にうつつを抜かし、七大天侍も飛び回れる。すべては、あなたを中心に回っている」
モルドアの目は、やはり、柔らかで、優しい。
「戦女神様、これまでわたくしがあなたと対峙してきたのは、それがリョハンにとって、護山会議にとって正しいと信じたこと故。そして、それゆえにこの度はわたしがすべての責任を負いましょう。あなたを中心とするリョハンの未来のため、このリョハンに生きるひとびとのために」
「モルドア様……わたくしは……」
「泰然となされよ」
モルドアの一言に、彼女ははっとなった。そして、自分がいかにも気弱になっていることに気づく。
「あなたが道を間違えることはない。あってはならない。行く道は正道であり、行いは正義であるべきだ。それが戦女神の戦女神たる所以。戦女神がリョハンの中心たる所以。あなたはなにも恐れず、前に進めばよいのです。もちろん、リョハンのため、リョハンの民のためを第一に考えてくださらなければなりませんが、その上で戦女神としての正義を捻じ曲げる必要はありません」
モルドアが説くのは戦女神の在り様であり、ファリアが胸に刻むべき内容だった。
「たとえそのために護山会議や護峰侍団と対立したとしても、それが戦女神としての正義であれば、なんら恥じることはない。ものどもはリョハンのため、民のためと口うるさくいうでしょう。それを聞き入れるのもよろしかろう。されど、戦女神としてこれだけは曲げられないということであれば、折れることなく、まっすぐに進まれればよい。結果、間違ったのであれば、そのときこそ反省し、考えを改めればよいのです。その責任は護山会議が負いましょう。そして、あなたはまた、新たな道を行く。それがリョハンというもの」
モルドアの断言にだれも口を挟まない。
「このたびはわたくしがすべての責任を取る。そのかわり、あなたには戦女神としてより一層精進していただく。それがリョハンのため、リョハンの民のための最善であると、わたくしどもは判断し、結論致します。反論など、ありましょうか?」
「……わたしに戦女神が務まると、本当にお思いなのですか?」
「務まります。この度の戦い、あなたが先陣を切り続けたこと、知っております。それこそ、戦女神に相応しい戦いぶりだと、だれもが褒めそやしております。戦女神は、その在り様でもってひとびとに勇気を与え、希望となるもの。あなたは、当代の戦女神としてなにも間違ったことはしていない。これからも、そうでしょう。胸を張ってください。前を向いてください。あなたの進む道を我々は胸を張ってついていくのですから」
「モルドア様……」
ファリアは、モルドアの言葉を心に刻みながら、自分が戦女神としてやっていけるのかどうかといった不安が薄れていくのを実感した。モルドアの言葉を信じればいい。彼は、リョハン最大の政治家であり、長らくこの都市の実権を握っていた人物だ。リョハンのすべてを知り尽くしているといっても過言ではない。そんな彼が断言してくれたのだ。迷うことはない。悩むことはない。自分が信じる戦女神の道を行けばいいのだ。
モルドアが会議室内を見回す。
「よろしいな」
「議長がそう仰られるのでしたら、異論を挟む余地はありませんな」
「うむ……」
「確かに」
議員たちは、モルドアの顔を立てるようにいった。議員の多くは反戦女神派といわれるが、それは、モルドア=フェイブリルの派閥と同義であり、モルドアが結論づけたことに対し、反論を述べるような議員はそこにはいなかった。一方、戦女神派の少数の議員たちにとっても、この結論に反論を述べる理由はない。戦女神に責任を問わないとなれば、異論を挟む意味もないのだ。それは七大天侍も同じだ。
「ヴィステンダール殿は?」
「先も申し上げた通り、異論はありません」
「よろしい」
モルドアは、ヴィステンダールの渋い顔を見つめながら、満足げに頷いた。
「難民問題はこれにて解決とする」
モルドアがいい切ると、護山会議の議員たち、護峰侍団幹部たち、七大天侍たちそれぞれが首肯することによってその決議を肯定した。
議題がつぎの話題へと移る中、ファリアは、自分に課せられた使命の大きさを改めて実感した。
そして、再び別離のときが来ることも、理解した。
おそらく彼は旅立つだろう。
そのとき、ファリアはこの地を離れることはできない。
それが戦女神というものなのだから。