第百九十三話 九月十七日
青空が広がっている。
晴れ渡った空には、それでも雲が、その白さを顕示するかのように悠然と泳いでおり、空という大海を泳ぐ白いくじらの群れのようにも見えなくはなかった。
日差しは強く、夏の終わりを感じさせない日々が続いている。秋という季節がないのかもしれない。いや、四季自体がなかったとしてもおかしいことではないのか。ここは異世界。日本と、地球と同じように考えてはいけないのだ。とはいえ、天には太陽があり、夜には月が出てくる。よく似た世界だと思うことも多い。そこに暮らす人々の姿形も、自分となんら変わらない。いや、日本人丸出しの自分とはかけ離れた容姿ではあるのだが、違和感はほとんどなかった。
だからこそ、溶けこむことができているのだろう。
どこまでも広がる地平線が、この大陸の広大さを実感させるようだ。眼下には湿原が横たわり、青々とした水草の群れや、陽光にきらきらと輝く無数の水溜りが、湿原のなんたるかを知らしめてくれている。ファリアたちが後々愚痴をこぼしていたほどだ。余程歩き悪かったのだろう。
セツナは、バハンダールの東側城壁に登っていた。死体はとっくに片付けられ、血の臭いも消えている。爽やかな風が吹き抜けていて、丘の上の都市からの眺望とあいまって、非常に心地良いものがあった。バハンダールの周囲を警戒する城壁上の兵士たちには煙たがられているようだったが。
十七日。
バハンダール攻略作戦の決行日が十五日であり、制圧したのも同日である。つまり、二日が経過しているのだが、セツナには十六日の記憶がないといっても差支えがなかった。十六日の大半を寝台の上で過ごしている。つまり、疲れきって爆睡していたのだ。
黒き矛の行使による反動。
超上空からの落下の衝撃を相殺し、さらに街中を駆けずり回っての戦闘だ。相当な運動量であり、体力の消耗も激しかったに違いない。しかし、反動が来たのが送還直後ではなかったのは、日頃の鍛錬の賜物なのかもしれない。実感はある。が、確実なことはいえなかった。まだまだ、カオスブリンガーの力を使いこなせているとは言い切れない。
圧倒的な力だ。
戦場全体を支配しているかのような万能感の中で、その力のすべてを把握し、行使できているとは到底思えなかった。それでも、強い。負ける気がしない。バハンダールにおいては、窮地に陥った記憶がない。どれだけ数で攻めてこようとも、かすり傷さえ負わなかったはずだ。
手を握り、開く。掌には血の跡があるわけでも、傷が残っているわけでもない。黒き矛を握りしめていた感触を思い出す。冷ややかな重量感。感覚が冴え渡り、それに引き摺られるように、自分が自分でなくなっていくのがわかる。絶対的な力に酔い痴れているのかもしれない。
カオスブリンガーによる戦いの最中、セツナは自分を見失うことが多かった。理不尽な暴力を振るい、敵を殺戮することに躊躇がない。それはそれで正しいのだ。セツナに求められているのはそれだ。戦果。それも圧倒的な戦果だ。雑兵であれ、将であれ、とにかく敵を倒し、戦局を決める。それが黒き矛の役目であり、使命なのだろう。
それを受け入れている限り、セツナの居場所は安泰なのだ。
「本当に高いところが好きなのね」
あきれたような、それでいて面白がっている声に振り返ると、軍服のファリアがこちらに近づいてくるところだった。王立親衛隊の制服ではなく、ログナー方面軍の青の軍服だ。彼女の制服も、ルウファの制服も、湿原を踏破したせいで泥だらけになったのだ。セツナの服は、泥よりも返り血のせいで洗うことになったのだが。
予備の制服は積んであったはずなのだが、彼女はログナー軍人との協調性を考慮したらしい。借り物の軍服は当然、女性用のものなのだが、胸が窮屈そうに思えた。無論、そんなことは口に出さないが。
かくいうセツナも、彼女と同じくログナー方面軍の軍服に身を包んでいる。王立親衛隊の制服は目立ちすぎる上、どこか堅苦しいのだ。ルウファは、その堅苦しさがいいのだ、と言い張っていたが、セツナは四六時中着ている気にはなれなかった。事実、軍服のほうが妙に落ち着くのだ。
「景色を見るのが好きなんだよ」
セツナは言い返しながら、彼女が歩み寄ってくるのを待った。ファリアは左手に籠を持ち、右手には水筒を手にしていた。
「そういうことにしておいてあげる」
「なんだよ、それ」
「ふふ、秘密」
彼女はそういって笑ったが、特に理由などないのかもしれないし、あるのかもしれない。セツナは、ファリアに心の奥底を見透かされている可能性を考えたものの、だからどうということもないことに気づいた。彼女になら見透かされても問題はない。
ファリアは、セツナにとって数少ない、気の置けない相手だ。彼女になら気兼ねなく心境を吐露できるだろうし、情けない姿を見せることもできるだろう。もう、そういう姿を見せつけてしまっている。ガンディアと《白き盾》との契約時における一部始終は、ファリアにセツナという人間の印象をどのように変えたのだろう。気にはなったが、尋ねることなどできるはずもなかった。
ファリアが、セツナの横に座った。城壁上通路だ。椅子などあるはずもなければ、なにかを敷いているわけでもない。彼女はそんなことに頓着しないのだろう。任務のためなら泥まみれになることも厭わない女性なのだ。地べたに座るくらい、気にならないのかもしれない。
「それは?」
「お昼には早いけど、お腹もすいてきた頃なんじゃないかと思って」
セツナが問うと、ファリアはそういって籠の蓋を開けてくれた。中には、焼きたてのパンがいくつも入っており、香ばしい匂いがセツナの鼻腔をくすぐった。水筒にはお茶でも入っているのだろう。バハンダールの丘の上から景色を見渡しながら昼食を取るなど、なんという贅沢なのか。
「さすがファリア」
「でしょ」
ファリアがにっこりと微笑みながら、手拭きのための布切れを取り出してきた。
ふと、周りを見ると、兵士たちの姿が遠ざかっている。気を利かせてくれたのだろうか。だとすれば、ありがたくもあり、迷惑をかけてしまったのではないかとも思った。
が、籠から漂う焼きたてのパンの匂いはなにものにも代えがたく、セツナは、兵士たちのことなどどうでもよくなったのだった。
バハンダール攻略戦において動員された兵力というのは、約三千人である。
右眼将軍アスタル=ラナディースを総大将とする西進軍を構成するのが、約三千人なのだ。王立親衛隊《獅子の尾》の三人、隊長セツナ・ゼノン=カミヤ、隊長補佐ファリア=ベルファリア、副長ルウファ・ゼノン=バルガザールに、ログナー方面軍第一軍団、第三軍団、第四軍団が組み合わさってできた部隊だった。
ログナー方面軍第一第四軍団はナグラシア攻略時に死者十二名、従軍不可能なほどの重傷を負ったものを二十五名出している。一方、ナグラシアで合流した第三軍団は無傷であり、まるまる千人が西進軍の戦力となった。
バハンダール攻略時にもっとも被害を受けたのは、南側から攻め寄せたグラードの部隊だった。第一龍鱗軍副将ベイロン=クーンが南側城壁に配置されたのが、グラード隊にとっての不幸だったのだ。彼の剛弓は常人では決して扱えないほどの代物であり、通常の弓の二倍以上の射程を誇っていた。召喚武装なのではないかと疑うのも無理はないほどの精度と威力は、ベイロン=クーンが超人的な能力を有していたからだといい、グラードにせよ、ファリアにせよ、その事実を知ってなお信じがたいといった表情をしていた。とてもひとりの人間が放つような威力ではなかったらしい。
グラード隊は、ベイロン=クーンの射撃が止むまでに多数の兵士が犠牲になった。死者だけで二十人を超え、重傷者はその倍に上るという。城壁からの矢の雨に対抗するために持ち出した大盾も、剛弓の矢の威力には平伏すしかなかったようだ。とはいえ、盾が破壊されたというのではない。盾兵ごと吹き飛ばされ、その隙を衝かれるということを繰り返しながら、被害が増えていったようだ。被害を防ぐには接近を諦めて後退するしかないのだが、後退する最中にも剛弓の矢は止まらないだろう。グラードは、前進の継続を命ずるしかなかったのだ。結果、グラード隊の被害は大きかったものの、掃討戦に間に合うことができたのだ。
掃討戦に移ってからというもの、グラード隊は湿原での鬱憤を晴らすかのように激しく戦い、活躍を見せた。その分被害も多数出たが、ベイロン=クーンによる一方的な殺戮よりは余程ましだったに違いない。グラード隊の死傷者のうち重傷が六十四名、死者が三十名。西進軍最大の被害といっていい。
つぎに被害を出したのはエイン=ラジャールの西進軍第三軍団だった。重傷者が二十名、死者は十四名にも及んだ。練兵不足ということもないはずだったが、一部の部隊が突出しすぎてしまい、敵の連携によって撃破されたようだった。エインは部下の勝手な行動に頭を痛めたが、死んだものは帰ってこない。説教もできず、生き残った部下たちに当たるわけにもいかなかった。そうはいっても、不落のバハンダールを攻略するのにこの程度の被害で済んだのはむしろ僥倖なのではないか、とも思えるのだが。
ドルカ=フォーム率いる西進軍第二軍団がもっとも被害が少なかったのは、彼の統率が優れているからなのか、彼の部下が優秀なのか。そのどちらでもあるのだろうと決めつけたのは、彼も彼の部下たちも、戦闘以外では遊んでいるように見えるのだが、戦闘になると他の部隊の追随を許さないほどの力を発揮した。日頃の訓練の成果に違いない。重傷七名、死者六名。
西進軍の戦力は多少減ったものの、それでも約三千人と言い張れる内容ではあった。
兵数、二千八百三十名。
難攻不落と謳われた城塞都市を攻略して、これだけの人数が軽傷以下で済んでいるのだ。これを上首尾といわずしてなんというのか。
エイン=ラジャールは、アスタル=ラナディースとの昼食の席でも、そんなことばかり考えていた。彼の頭の中は、ザルワーン戦争のことで埋め尽くされている。
「バハンダールの守備は、グラード軍団長に任せたいのですが」
エインが口にしたのは、西進軍の今後に関しての話だった。西進軍の目的はバハンダールの制圧だけではない。バハンダールを制圧し、レコンダールとの間に補給線を結ぶという任務だけならば、あとはのほほんと中央軍や北進軍の戦勝報告を待つだけでいいのだが、そんなわけがなかった。
西進軍には、ガンディアの最高攻撃力たる黒き矛が編入されているのだ。彼に求められるのは最大の戦果だ。ナグラシア制圧にバハンダール攻略。彼の戦果は留まることを知らないが、王はさらに上を求めているに違いない。
北進し、ビューネル砦を叩く。それにより五方防護陣なるものを破壊、龍府への突破口を開くのだ。
そのためには、バハンダールに兵を残していかなければならない。でなければ、バハンダールは無法地帯となり、ザルワーン人の市民によってザルワーンのものとなるか、メレド人によってメレドの手へと帰ってしまう。だからこそ、ただ兵士だけを置いていくというわけにもいかない。彼らを統率する、有能な指揮官を残していく必要がある。
「ほう?」
「グラード軍団長といえば飛翔将軍の片翼であり、魔剣と双璧をなした鉄壁。統率力にも優れ、部下からの人望も厚い。この都市の地形を活かして守りに徹するというのなら、グラード軍団長をおいてほかはないかと」
「納得のいく理屈だな。いいだろう。グラードに任せたいと思っていたのはわたしも同じだ。人数は五百。国境防衛隊の百人がバハンダールに入るという話もある。ここの防衛には十分すぎるか?」
「いえ。五百人は最低限必要でしょう。メレドがバハンダールの奪還に動き出したら厄介です」
メレドが動き出した場合、五百人の戦力でどうにかなるかとも思うのだが、ザルワーンの大軍が突破できなかった難攻不落の城塞都市なのだ。そう簡単には落ちないだろう。敵が攻め寄せてくれば矢の雨を浴びせるだけでいい。敵軍は攻めこむこともできずに撤退せざるを得なくなる。湿原は、護りにおいては凶悪な防壁となるのだ。
無論、敵はメレドだけではない。バハンダールの北に位置するルベンから奪還の軍勢が差し向けられないとも限らない。ルベン周囲が慌ただしいという情報もある。南下してきた場合、状況によっては、バハンダールを出発した西進軍とぶつかることになるのだろうが。
「メレドが動くと思うか?」
「探らせてはいますが、よくわかりませんね。あの国はバハンダールを取られて以来、ザルワーン方面には消極的ですから」
エインは、脳内に地図を描きながら、パンを手で千切って口に放り込んだ。焼き立てのパンは流石に美味しいものだ。心まで豊かになる気がする。とはいえ、こんな風に食事を楽しむことができるのはいまのうちだけだろう。バハンダールを出発すれば、ビューネルに着くまでは糧食で我慢するしかないし、ビューネルで食事を満喫できるとも限らない。龍府の目と鼻の先だ。全軍の足並みが揃うまで時間はあるだろうが、それを食事や趣味に費やせるというわけでもない。
「メレドはイシカを狙うかもしれない。今ならザルワーンの横槍を気にする必要はないからな」
「なるほど」
エインがうなったのは、メレドが昔から北進の意図を持っていたことを思い出したからだ。メレドの北にはイシカという国がある。イシカはザルワーンとも隣接する国であり、メレドがイシカに手を出そうとすれば、ザルワーンの魔手がメレド本国に伸びるという可能性が高かったのだ。だが、現状、ザルワーンは他国に手を伸ばす余裕はない。メレドは、イシカに侵攻する好機を得た。
難攻不落のバハンダールを取り戻すためにガンディアを敵に回すか、念願だったイシカに軍を差し向けるか。メレドの選択ひとつで、状況は変わりうる。
「我々としては、メレドがバハンダールを奪還する気にならなければそれでいい。イシカを狙ったところで、そう簡単に落とせるはずもない」
アスタルの言い分ももっともだった。メレドが隣国に野心を向け、バハンダールのことなど忘れてくれれば、これほど気楽なことはない。西進軍は安心してビューネルに向かうことができるというものだ。たとえ、メレドがイシカの領土を切り取ったとしても、ザルワーンを制圧したガンディアには敵うはずもない。
(制圧すれば、の話だけど)
ガンディアがザルワーンを飲み込みさえすれば、小国は敵ではなくなる。ガンディアは、ログナー、ザルワーンの二国を併呑し、中央最大の国となるのだ。ルシオン、ミオン、それにレマニフラという同盟国もある。小国家群最大規模の軍事力を有することになるに違いない。
そのためにも、西進軍はビューネルを落とさなければならなかったし、バハンダールを維持しなければならない。また、中央軍と北進軍のいずれかが欠けてもいけない。部隊がひとつ潰れるだけで、戦力は大きく落ち、ザルワーンの圧倒的な兵力の前に沈黙せざるを得なくなるだろう。
「ここに残る五百名はグラードに選ばせよう。そのほうが彼もやりやすいだろう」
「はい」
エインに異論はなかった。
グラードは、ハンダール待機命令に首を横に振るようなことはしないだろう。それどころか、喜んで拝命するに違いない。そういう男だ。彼はもはや栄達など望んではいない。自分を一度死んだものとして見ている。ガンディアとの敗戦で死んだ身なのだと。ガンディアに拾われ、蘇生したのだ、というのがグラードの口癖のようなものだった。
エインも、そう思わないではない。
生きているのが不思議だった。
死んでいてもおかしくはなかった。
あの日、あのとき、あの場所で。
エインは黒き矛に死を見、死に魅入られたかと思ったのだ。それなのに生きている。不思議なことだ。生を拾い、拾われた。
アスタルによって軍団長に選ばれたのはなにごとかと思ったが、将来性を考慮しての判断だと思えば納得できなくもない。十六歳。いまから場数を踏んでいけば、飛翔将軍の後釜だって狙えるかもしれない。そんな野心は毛頭ないが。
彼は、セツナの運用法ばかり考えている。