第千九百三十六話 戦女神と守護神
《ともかく、無事に終わってよかった》
マリクは、守護神の座にあって、穏やかな表情を見せた。
防衛戦において、押し寄せた神人の集団からリョハンを護るべく守護結界を一時に解き、戦場に出た彼は、神軍が撤退を始めるなり、すぐさま空中都の守護神の座に戻り、結界の再構築に従事したという。彼の眷属たる七霊も同様に結界の再構築のため、リョハン各地に散ったそうだ。そうして、ファリアたちがリョハンに辿り着いたころには、リョハンは再び七霊守護結界に覆われていた。
無論、麓特区は結界から除外されている。そのため、マリクたちの負担も多少は軽くなったはずだ。ほんのわずか、彼らにとっては大きな差はないかもしれないが。
いまのマリクは、麓特区を結界内に収めていたときよりも幾分、余裕があるように見えなくもなかった。神々しく輝く少年めいた神。リョハンの守護神。
《護峰侍団は多くの犠牲を払ったけれど、その犠牲に見合う価値のある勝利だ》
マリクの言葉にファリアはうなずくしかない。実際はどうあれ、そう想うことで多くの犠牲を払ったという苦さを飲み下すしかないのだ。命を散らせたものたちがそのときなにをどう想ったのかなど、ファリアには想像もつかない。死にたくないと叫んでいたかもしれない。あのような戦場に赴く羽目になったことを恨んだものもいたかもしれない。呪われたかもしれない。護峰侍団に入るほどのものがそんなことを考えるとは思い難いことだが、だれもが高潔に生きられないのもまた、事実なのだ。護峰侍団に入ったからといって、リョハンのために命を散らせることをよしとするものばかりではないだろう。それが現実というものだ。
だからこそ、ファリアは戦女神にならなければならない。
戦女神の鉄面皮でもって、すべてを受け止め、受け入れなけれならないのだ。でなければ、心が折れてしまう。
戦宮で護山会議員たちの出迎えを受けたファリアは、議員たちとしばしやり取りしたのち、休む間もなく空中都監視塔の最上階に登っていた。議員たちは、皆、リョハンの勝利と無事を喜ぶとともにファリアを戦女神の再来と褒め称えるばかりだった。だれひとりとして、難民問題に触れようとはしなかった。麓特区の難民が全員、神人化したためにリョハンは存亡の危機に陥ったというのにだ。不自然なほどだったが、勝利の喜びに水を差したくないという配慮だったのかもしれない。護山会議の議員たちは大人だ。子供のように感情論だけで動いているわけではない。
ただ、モルドア=フェイブリルが言外にいったように、ファリアの責任を追及するつもりでいるのは確かなようだ。リョハンが勝利し、リョハン軍が帰還した早々、ファリアを糾弾すればリョハン市民の反発を受けるということを考えてのことだろう。落ち着きを取り戻し、政治家としてのファリアが彼らの舞台に顔を見せたときにこそ、責任追及が始まるのだ。それまでは、嵐の前の静けさのようなものだ。
《神軍はおそらく本気でリョハンを潰すつもりだったんだろう。あのとき、リョハンを狙った神の攻撃も、本当にリョハンを滅ぼすためのものだった。直撃していれば、リョフ山は跡形もなく消滅しただろうね。ぼくが結界を解くのを見越していたのさ》
マリクの説明に肝が冷える想いだった。
そして同時に自分がいかに考えなしで行動し、意固地になっていたのかを思い知らされる。難民に救済の手を差し伸べるのは、戦女神としては当然のことだ。そこにはなんの疑問もない。しかし、その難民の正体が神軍の兵士たちであり、神軍がなんの意味もなくリョハンに放置していくはずもない、と考えるべきだったのだ。神軍は、彼ら兵士たちがリョハンに拾われ、保護されることを見越していた。そして、その結果、リョハンが内部分裂すれば良し、しなくとも、リョハンへの再侵攻に合わせ、神人化させることで大混乱を招くことができると踏んでいたに違いない。それにより、マリクを揺さぶり、結界を解かせることまで考え抜いていた。
ファリアは、そこまで考えていなかった。
ただ、戦女神とはどうあるべきか。
そのことばかりに意識を向け、思考と硬直させていた。恥ずべきことであり、大いに反省するべきことだ。戦女神になることは重要な事だが、もう少し視野を広げ、思考を柔軟にするべきだろう。
《まあ、ぼくにはラムレスが来てくれていることがわかっていたし、セツナがこっちに向かっている可能性も察していたからあんなことができたんだけれど》
「……マリク様は、いじわるですね」
《いっただろう。セツナの気配は感じたけれど、それが本当にセツナなのか、そして彼がこちらに来てくれるのかまではわからなかったって》
「それは……そうですが」
ファリアには、返す言葉もなかった。そういわれれば、そのとおりだ。しかし、セツナが生きていて、彼がこの大地にいるという情報を与えてくれれば、ファリアはもっと奮起できただろう。いや、むしろ死ねないと臆病になっただろうか。いずれにせよ、あのとき、セツナのことを知っていれば、ファリアの行動になんらかの変化がでたのは間違いない。
「でも、いじわるです」
ファリアは、マリクの穏やかな表情を見つめながら、そういった。そういうほかなかった。マリクに悪気がないのはわかっているし、不確定な情報を与えてぬか喜びをさせるわけにはいかないという彼の考えも理解できる。それはそれとして、ファリアは一瞬でも早く知っておきたかったというのもまた、事実だ。
《……戦女神様のそういう反応が見れるのなら、意地悪も悪くないかな》
「マリク様……」
《君は少々、気を張りすぎだ。先代戦女神なんて、片手間に戦女神をやっているようなひとだったんだ。もう少し肩の力を抜いてもいいはずだよ》
マリクが苦笑を交えながらいってきたのは、先代戦女神ファリア=バルディッシュのことを思い出しながらだったからだろう。マリクは、ファリアよりも余程長く祖母のことを見てきている。それこそ、ファリア=バルディッシュが子供のころから見守り続けてきたというのだ。先代戦女神の人格、性格について彼ほど理解しているものはいないだろう。そして、その彼がいうのだから、祖母が片手間に近い感覚で戦女神をやっていたというのは、紛れもない事実なのだ。とはいえ、その片手間がファリアの本気以上のちからの入れようなのもまた疑いようのない現実だ。でなければ、リョハン市民に尊崇される戦女神になどなれるはずもない。
だからこそ、祖母は偉大なのだ。
ファリアの全身全霊さえ、片手間に行えるというのだから、想像もつかない。とてつもない器量の持ち主であり、実力者だったのは疑うまでもない。武装召喚師としても超一流であり、為政者としても立派だった。到底、ファリアに真似のできるものではない。が、そこでくじけないのがファリアだ。
「先代様は、先代様です。わたしが先代様のような戦女神になるには、同じではいけないんです」
《それもわかるけれどね》
「……だいじょうぶです」
ファリアは、にっこりを微笑んだ。わざとらしすぎたかもしれない。しかし、笑顔にならなければ、やっていられなかった。そうやって振り切らなければ、前に進める気がしない。
「マリク様や皆がわたしを支えてくれていますから。折れませんよ」
戦女神としての覚悟がある。
戦女神を受け継いだときから、決めていたことだ。
リョハンを支える柱として、生涯を捧げる。そのために生まれ、そのためにあのときまで生きてきたのだ。生かされてきたのだ。ならば、そのまま生き抜くべきだろう。戦女神として、人生を費やすべきなのだろう。
《……そう。それなら、安心だ》
マリクは、なにかいいたげな様子を見せたが、飲み込んだようだった。
「はい。安心して、リョハンを任せてください」
《ああ。任せよう。ぼくにできるのは、リョハンの守護だけだからね》
マリクの事も無げな一言にファリアは少し笑ってしまった。
「それ、とんでもないことなんですけどね」
《そう?》
「はい」
ファリアは、マリクの目をじっと見つめながら、肯定した。神の目は、黄金色の光を湛えている。
「マリク様がいなければリョハンが立ち行かなくなるほどに」
《……いつかは、そうならなくなるさ》
「……はい」
うなずく言葉も小さかったのは、それが遠い未来の可能性の話であるということをファリアは知っているからだ。
マリクがかつていったことだ。
この世界は、神威に満たされ、毒されている、と。
世界は緩慢たる死へと向かっているのだ、と。
それを止める方法はないのだ、と。
ゆっくりと、しかし確実に滅びへと向かう世界。守護神の加護を不要としないリョハンが存在する未来など、あるものだろうか。