第千九百三十三話 もう一度、君とともに
黙想の石林周辺の戦場は、歓喜の声に満ちていた。
方舟が飛び立つとともに、数十万規模の神軍本隊が尽く消え失せ、戦場に残されたのは神軍将兵と神人の死体、そしてリョハン軍の生存者と死者のみだった。護峰侍団の武装召喚師のうち、生存者は喜びを分かち合い、神軍なにするものぞと言い合った。
神軍は、去った。
つまり、リョハン侵攻を諦め、撤退したということだ。
勝利したのだ。
「終わった……のね」
ファリアは、やっとの想いで、その一言を紡いだ。
精も根も尽き果てた上で戦い続けたのだ。意識を保つのが精一杯という状態で、もはやなにも考えていられないくらいだった。呆然と、している。それまで態勢を維持していた緊張が溶けてなくなり、その場に座り込まざるを得なかった。
夜中。満天の星空の下、周辺からは勝利の雄叫びが聞こえてくる。いや、勝利を喜ぶ声ばかりではない。同僚を失ったことを嘆く声もあれば、活躍できなかったことを悔しがる声も聞こえてくる。実戦を終えた緊張に震えるものもいるようだ。長時間に及ぶ死闘が終わった。生き残ることができたのは、どれくらいだろう。半数以上は生還できただろうか。なにも考えられない。思考が、回らない。
ただ、頭上を仰ぎ見ている。
方舟を見送ったまま、動こうともしないセツナの姿をじっと、見つめている。
早く降りてこないものか、と、心の底から待ちわびている自分に気づくが、どうすることもできない。精神的な消耗の激しさが、本能の赴くままに行動させている。本来ならば強い精神力で制御しうる意識も、いまやどうにもならなかった。
溢れ出る想いを伝えたかった。伝えてどうなるものでもない。そんなことはわかっている。わかりきっている。けれども、伝えなければどうしようもないという気持ちもあった。伝えて、伝えて、伝えて――。
(どうするというのよ)
自分自身に呆れ果てる想いで、空を仰いでいる。
彼は、ようやくといった感じで、地上に向かって降下してきた。ファリアから遠く離れた位置だ。そこへ駆け寄れるほどの体力は残されていない。だからといって、温存すれば良かった、などとは思わない。あのときは、あれが最良の判断だったと想っている。攻撃は、届かなかった。神軍本陣を落とすには至らなかったのだ。それもそのはずだ。セツナの攻撃さえも防がれるほどの障壁が展開されていたのだ。ファリアとオーロラストームの全力では、到底、届くまい。だが、それが間違いだった、などとは考えようもない。それは、結果論だ。結果的には、防がれた攻撃だが、あのときはああする以外には道はなかったのだ。
ゆっくりと、息を吐く。
全身、疲れ切っている。
セツナがこちらに来るまで、意識が保つのかどうか。
そもそも、こちらに来てくれるのかどうか。
不安はない。
彼が、自分のことを見捨てるわけがなかった。
そのことは、今回改めて確信に至った。
地上に降り立つなり、セツナは、危うくその場で転びかけた。決して平坦とはいえない地面ではあったが、だからといって普通、着地してこけるような場所ではない。それなのに態勢を崩しかけたのは、単純に消耗が激しすぎるからだろう。降下するために必要なメイルオブドーター以外の召喚武装は既にすべて送還しており、メイルオブドーターも着地後、送還した。
戦いが終わった以上、召喚武装を維持する必要はない。七つの召喚武装を同時併用していたのだ。その維持だけでとてつもない消耗がセツナを襲っていた。その上、とてつもない能力を行使していた。とても長時間戦闘に耐えうるものではなかったのだ。短期決戦どころの話ではない。超短期決戦専用というべき代物だ。
リョハンに翔ぶための手段がそのまま戦闘手段になっただけのことではあるのだが。
「御主人様ー!」
「おう、レム」
ほっとする間もなく駆け寄ってきた従僕の姿を見て、安堵する。レムは、傷ひとつ負っていないようだった。それどころか、疲労もあまりないように見える。セツナはレムの頭をなでてその労をねぎらうと、彼女は顔をほころばせて喜んでくれた。
すると、どこからともなく駆け寄ってくるものがあった。
「隊長、隊長、隊長じゃないですか!」
耳が痛くなるほどの大声をぶつけてきたのは、だれあろうルウファであり、セツナは、彼の変わらぬ姿を見て、感動する想いだった。
「ルウファ……元気そうでなにより」
言葉が出ない。
ルウファは、約二年前と大きく変わらなかった。
「隊長こそ、元気がありあまりすぎじゃないですか」
「もう俺は隊長じゃあないよ」
「なにいってんですか。隊長は隊長ですよ」
「こいつは馬鹿だから、一度認識したことを改めようとはしないのだ。諦めてください」
「馬鹿ってなんなんですか、馬鹿って」
「馬鹿を馬鹿といってなにが悪い」
「そういうグロリア様こそ、ルウファ様馬鹿では……」
「ふふん、名誉なことだ」
「なにが名誉なんですか」
「まったく……変わらないな、なにもかも」
「……変わりましたよ」
ルウファが、声を落として、告げてきた。
「なにもかも、変わったんです」
「そうか……」
「ただ、変わらないものもあるってだけで。そしてそれがこの上なく大切なものだって、俺もみんなも知ってるんですよ」
「変わらないもの……か」
「隊長」
「ん?」
「なにしてんですか、ほら」
「お、おい」
「待っているひとがいるでしょう?」
「……ああ」
セツナは、ルウファの気遣いに感謝するとともに彼のこの二年余りを想った。ルウファがそのような気遣いをするようになったのは、成長と呼べるのか、どうか。少なくとも、約二年前、別離の以前の彼ならばそのような気遣いはしなかったように思える。だからどう、ということはないのだが、彼も苦労してきたのだろうと感じるだけのことだ。
そしてそれは、ルウファだけの話ではない。
グロリアもアスラもそうだろうし、視線の先でこちらを見ている彼女もまた、苦労に苦労を重ねてきたに違いない。
約二年もの間、リョハンにあって戦女神の務めを果たしてきたのだ。セツナには想像の絶する苦労があっただろう。苦労の一言で言い表せるものでもあるまい。
セツナは、ルウファたちに見送られるようにして、彼女に歩み寄った。距離は、決して近くはない。疲れ果てた体では、歩み寄るのも一苦労だ。だが、その苦労も彼女の二年を想えば、安いものだ。二年。セツナは、ずっと彼女に逢いたかった。逢いたくて逢いたくてたまらなかった。地獄にいる間も、忘れたことはなかった。ずっと、想っていた。
現世に舞い戻ったからといってすぐさま逢えるわけではなかったことが、その想いをより一層深めた。
(ファリア……)
一歩一歩、踏みしめるようにして進む。
ファリアの側には、シヴィル=ソードウィン、ニュウ=ディー、カート=タリスマが寄り添うようにして、いる。元四大天侍の三名とは、クルセルク戦争以来となる。皆、歳を取った。特にシヴィル=ソードウィンは長年の労苦が顔つきににじみ出ているように見えた。そのシヴィルの手を取り、ファリアが立ち上がるのが見えた。自力では起き上がれないほどに消耗しているのは明白だ。無論、消耗しているのはファリアだけではない。ファリアを支えるニュウや、それ以外の武装召喚師たちも皆、等しく消耗している。
それほどの激戦が繰り広げられた。
多くが死に、それ以上の多くが生き残った。
戦いは終わった。
喜んでいいものかどうかわからないが、しかし、喜ぶ以外にこの勝利を祝う方法はない。
そんなことを考えながら、一歩、また一歩と距離を縮める。やがて、星明りの中、ファリアの顔がはっきりと見えるくらいの距離に至ると、セツナは、どうしようもない感動に襲われた。そして衝動。抱きしめたい。
そう想ったとき、駆け出す体を止められなかった。
駆け出して、ファリアの元へと辿り着いたとき、彼女があっという顔をした。セツナが蹴躓いたのだ。足元が覚束なくなるくらいに消耗しきっていたようだ。内心、苦笑しながら、前のめりに転倒する。しかし、セツナが地面に激突することはなかった。
ファリアに抱きとめられたからだ。
「かっこつかねえなあ」
「なにいってるのよ」
ファリアが、呆れたように、けれども心の底から嬉しそうにいってくる。
「いまのセツナ、だれよりもかっこいいよ」
ファリアの腕の中で聞いたその一言こそが欲していたものだと理解したとき、セツナの意識は闇に溶けた。