第千九百三十一話 第二次リョハン防衛戦(二十五)
マリクの戦場に突如訪れた窮地は、突然現れた謎の集団によって瞬く間に覆された。
爛々と燃えたぎる深紅の双眸を持つ、影の戦士たち。
彼らは、それぞれ異なる体格、得物を持ちながら、影法師のような黒ずくめという統一性の取れた格好をし、常人離れした身体能力と高強度の神人さえ凄まじい連携攻撃で撃破するほどの圧倒的戦闘能力を誇っていた。決して、人間ではない。それは、影の戦士たちから感じ取る気配でわかる。生命反応がなかった。
そして、あっという間に翼を生やした神人を撃滅すると、マリクたちの戦場に向かってきたのだ。
「なんなのでしょう? あれは?」
「敵ですかな?」
《いや……あれは味方と見て間違いないよ》
マリクは、味方武装召喚師たちの不安を拭い去るべく、神の聲によって呼びかけた。空気を振動させる声とは異なり、頭の中に直接呼びかける神の聲は、はっきりと明確に伝わる上、場合によってはひとの心を落ち着かせる効果が期待できた。
《あれだけじゃない》
マリクの感知範囲内に、味方とも神人とも異なる気配が大量に出現していることに、彼はいまさらながら気づいた。それはおそらく、有翼神人を撃ち落としたものたちと同時に出現したのだろう。だから、山門街に気を取られていたマリクが気づかなかったのだ。でなければ、気づかないわけがなかった。
それらは、影の戦士たちとまったく同じ存在のようだった。
夜の闇に溶けるような黒装束に黒い得物を持ち、ぎらぎらと燃え盛るような赤い双眸だけが輝いている、そんな連中。一言も発さなければ、気合の声さえ聞こえない。呼吸などしてもいない。生物ではないのだ。なにかしらの力によって具現した存在。おそらくは召喚武装の能力。だが、頼りになるのは間違いない。なぜならば、突如出現した影の戦士は、何百、何千という数であり、それらがリョハン軍の味方をしてくれているからだ。
《あれらは皆、ぼくたちの味方をしてくれているようだ》
「いったい、どういうことなのでしょうか?」
《おそらくは……彼の力だろうね》
「彼……?」
武装召喚師のその疑問には、応えなかった。
まだ確証があるわけではないのだ。確信も持てないのに言葉にするわけにはいかなかった。ここの連中だけに伝わるならばまだいい。ファリアにまで聞こえれば、余計な期待を抱かせることになりかねない。
影の戦士たちは、なるほど、彼の力に似ている。
彼が愛用する召喚武装黒き矛の眷属たるマスクオブディスペアの能力は、影法師のようなものを作り出し、操るものだと聞く。しかもそれを複数体生み出すことができるという情報も、マリクの耳に入っている。彼の話は、ファリアたちから散々聞かされているのだ。彼の能力は、余すところなく知っているといっていい。
しかし、だとしても、少々――いや、それどころではないくらいに多すぎるのではないか、と思うのだ。無論、影の戦士の数のことだ。何千もの影の戦士が、リョハン軍と神人の物量差を埋め合わせるべく滅多矢鱈に戦ってくれているのは、いい。だが、これほどの数を同時に生み出し、操るほどの力が彼にあるとは信じがたいのだ。
彼の武装召喚師としての力量は、贔屓目に見ても、特段、優れたものではなかった。大きく見積もっても中の上といった程度で、そこからどれだけ修練を積んだとしても、これほどまでの数の影の戦士を同時に発生させられるとは思い難いのだ。無論、影の戦士を生み出すために必要な力が微量ならば話は別だが、その場合、影の戦士が束になっても神人には敵わないだろう。実際には、影の戦士は低強度の神人ならば一対一でも戦えるようであり、高強度の神人にも複数体で対等以上に渡り合っていた。とてもではないが、微量な消耗で維持できるような代物ではなかった。
(いまは考えていても仕方がないか)
マリクは、影の戦士たちの参戦を好機と見た。何千もの期待できる戦力が味方してくれているいまこそ、神人を撃退する機会だ。
マリクは、七霊を散開させると、リョハンの武装召喚師たちにはドラゴン属と協力して事に当たるように厳命した。非力な人間が突出するよりも強靭な生命力を誇るドラゴンと共闘するほうが、生存率はぐっと高くなる。それに影の戦士とは交流することは不可能だが、ドラゴンたちならば、人間の言葉を理解してくれるものだ。ラムレスの眷属には、人語を解する竜が多い。
マリク自身も、神人の撃滅に全力を注いだ。
数十の竜属、数千に及ぶ影の戦士の到来は、リョハン軍の戦意を否応なく昂揚させた。
負ける訳にはいかないという意識から、勝てるという意識への変化。
リョハン南部の戦場は、そこから一気に好転していく。
「ファリア様、リョハンのこと、心配御無用にございますことをわたくし、セツナ=カミヤが第一の下僕である死神レムが命を懸けて誓いましてございますわ」
”死神”たちを自在に操りながら、神人の猛攻をものともせずに立ち向かう死神少女の凛然たる横顔は、彼女の主への信頼を雄弁に物語っていた。闇色の頭髪に深紅の虹彩というセツナそっくりの容姿へといつからか変容した彼女は、まさにセツナと一心同体の存在といっても過言ではない。彼女の命はセツナの命そのものであり、セツナが死ねば彼女も死ぬ。セツナが生きている限り生き続ける彼女が、セツナを揺るぎなく信頼していることは喜ばしいことだろう。もし仮に彼女がセツナへの信頼を失い、失意を得たとき、それは彼女の人生にとっての絶望的な日々の始まりになるのだから。
「そういってくれるのはうれしいけれど、あなた、死なないじゃない」
ファリアが肩を竦めていうと、レムはこちらの反応がわかっていたとでもいうようにほほえんでくる。レムは死なない。たとえ肉体をばらばらに引き裂かれたとしても、粉々に打ち砕かれたとしても、セツナが生きている限り、死ぬことはないのだ。肉体は瞬く間に復元し、元通りに戻ってしまう。不老不滅。それが、彼女が第三の人生を歩む上で背負った呪いというべきものだ。
「まさかセツナの命を懸けたとかいうんじゃないでしょうね?」
ごく自然に発した言葉の中に、この二年あまりの日々、無意識のうちに禁句とし、暗黙の了解のようにリョハン市内で用いられなくなった名前を入れてしまっていることに気づき、彼女ははっとなった。そして、いまさらのように彼がそこにいるという実感が沸き起こり、物凄まじい熱量が心の奥底から溢れだしてくる。止めどなく溢れる奔流は全身を痛烈に貫き、さまざまな感情を呼び起こす。
「うふふ……御主人様なれば、わたくしの戯れ言など笑って許してくださりましょう」
「そう……よね」
「ファリア様? どうされました?」
問われて、返答に窮する。
なにをいうべきか。なにをどうするべきか。なにもわからない。なにも思いつかない。感情の洪水が押し寄せてきて、処理しきれないのだ。涙が溢れている。止めようもなく、止める気にもなれない。
彼がいる。
すぐ目の前といっていい距離に彼がいて、彼女を守ってくれている。そのためだけにどこからか飛んできてくれたのだと傲慢にも思いこんでしまうほどに、ファリアの意識はセツナ一色に染まっていた。
女神の猛攻を物ともしないどころか、揺さぶりにも動じないセツナの背中は、どうにも禍々しく、悪魔めいているのだが、それを差し引いても頼もしく、大きく見えた。いや、彼の背が大きく見えるのは、いまに始まったことではない。
いつからか、先陣を切る彼の背中に安心感を抱くようになっていた。
(本当に……いつからなのかしら)
ファリアは、自分の胸に手を当てて、薄い胸当ての奥で高鳴る心臓に苦笑した。このような状況で、そんなことを想っている場合ではないというのに、心は、魂は、彼との再会に歓喜の声を上げている。それを止められない。止めようがない。
状況は変わっていない。
相変わらず、セツナと女神の戦闘の余波が敵味方関係なく戦闘不能者を続出させ、余波になぶられながらも平然とした様子の神人たちの進撃はとどまるところを知らない。このままでは、リョハン軍が敗北するのが目に見えている。七大天侍や一部武装召喚師、レムだけでは地上の神人を掃討するのは困難を極めるだろう。
だが、ファリアの心からは不安が取り除かれ、勝利の確信が生まれていた。
セツナがいる。
ただそれだけでどんな状況からも脱しうる勇気が湧いてくるのだ。そしてその勇気は、ファリアの残された力を何倍にも増幅し、立ち上がらせる。重いオーロラストームも悠々と持ち上げることができたし、レムと“死神”たちの連携に参加することもできた。
神人を一体一体確実に撃破していくことで、戦況を少しでも好転させていくのだ。
しかし。
ファリアは、不安こそ抱かないものの、敵の数が一向に減らないという現実を直視しなければならないことも知っていた。神人の数は減るどころかむしろ増えているような気配さえある。本陣にいた数以上の神人が戦場に現れ、猛威を振るっているように思えるのだ。でなければ、計算が合わない。
そんなとき、オーロラストームを手にしている副作用によって強化されたファリアの目が、直前までただの人間であった神軍の兵卒が白化症を発症し、みるみるうちに神人化していくのを目の当たりにする。それもひとりやふたりではない。地に伏した神軍兵の多くが、瞬く間に神人化し、戦線への復帰を果たしていく。
ファリアは愕然とするほかなかったが、同時に納得もした。女神の神威を直接浴びた兵士たちが神人化することで、神軍はさらなる戦力を戦場に供給しているのだ。これでは、神人が減らないどころか増えるはずだ。そして、これでは、いくらセツナがいても、戦況を好転させることなど不可能ではないか。このまま神人が増大し続ければ、リョハン軍が圧倒的に不利だ。勝てる見込みがない。道理がない。
消え失せたはずの不安が鎌首をもたげる中、ファリアは、空を仰いだ。
女神と凄まじい攻防を続けるセツナの姿に勇気をもらうものの、それだけでは状況を覆すことはできない。
そう想い、地上に視線を戻した矢先、ファリアは、神人化した神軍兵がつぎの瞬間、ばらばらに切り裂かれ、肉体を崩壊させるのを目撃した。無数の黒い影が視界を駆け抜け、つぎつぎと神人を撃滅していく。最初、レムの“死神”の猛攻かと想ったが、そうではなかった。
影法師のようなものたちは、赤い双眸を輝かせながら、神人を圧倒していく。
「あれらも御主人様の御力にございます」
レムの解説に、ファリアは、呆然とする他なかった。
なぜならば、影の戦士たちは、戦場を圧倒するほどに多数存在し、その数の力で神人をつぎつぎと討滅しているからだ。
それだけの数の影法師を生み出すなど、いくらセツナが強くなったとはいえ、到底信じられることではなかった。
彼は、ファリアが想像した以上の成長を遂げていたのだ。