第百九十二話 龍府騒然
バハンダール陥落の報が届いたとき、龍府は騒然となった。
ミレルバス=ライバーンも、その報告を耳にしたとき、耳を疑ったものだ。当初の予想では、ガンディア軍はバハンダールは無視するものだと思い込んでいた。ルベンを目指すのが当然だと決めつけていたのだ。だからこそ、ミレルバスも彼の腹心たちも同様に驚き、セロスもまた、愕然としたようだった。
ミレルバスは、虚報ではないのかと周囲に問い質したが、つぎつぎと入ってくる情報は、初報の正しさを裏付けるだけだった。
バハンダール。ザルワーン南西部の都市だ。難攻不落の城塞都市として知られ、その名が知れ渡ることになったきっかけとは、ザルワーン軍によるバハンダール攻略が幾度となく失敗に終わり、大敗を喫することも多かったからだ。
小高い丘の上に築かれた城塞都市の攻略を困難にしているのは、その周囲に広がる地形のせいだった。バハンダールの周囲広範に渡って横たわる湿原は、バハンダールの丘への接近を著しく阻害し、近づけば近づくだけバハンダールからの弓の的となったのだ。遅々として進まぬ軍勢に向けて放たれる矢の雨は、無慈悲な天災そのもののように兵士たちを殺戮した。
バハンダールを落としたのは六年も前のことだ。力攻めでは落としきれないと判断したミレルバスは、各国の情勢を分析し、ザルワーンへの侵攻が行われないであろう時期にバハンダールを包囲した。バハンダールとその丘を囲んだのではない。湿原そのものを包囲し、蟻一匹通さない強固な布陣を構築した。長期攻囲による兵糧攻めである。メレドからのバハンダールへの兵糧の供給を絶つ一方、ザルワーン軍にはルベン、ゼオル、ナグラシアから定期的に兵糧が届くように補給線を築いた。さらに、メレド領に張り巡らせた包囲陣には、グレイ=バルゼルグの部隊を用いることで、メレド側が攻囲を崩すのを諦めさせた。半年以上の年月がかかったものの、ザルワーン側の被害はほとんど出ないままバハンダールを手に入れることができたのだ。
バハンダールは湿原の中心である。兵糧攻めに対抗するために打って出るにも、湿原を進まなくてはならないのだ。護るには硬い不落の城塞都市も、攻撃に転じるのは不得意以外のなにものでもなかったのだ。
ミレルバスは、バハンダール制圧の手腕により、一躍国主としての人気を不動のものとしたが、彼にとってはそんなことはどうでもよかった。バハンダールを得たことで、ザルワーンの南進への橋頭堡ができたのだ。また、メレドがザルワーンに度々ちょっかいをだしてこられたのは、バハンダールという鉄壁の護りがあったからであり、バハンダールがザルワーンのものとなった以上、メレドが軍を差し向けてくる可能性は減るに違いなかった。
ログナーの攻略に力を注ぐことができるというものだった。
それが、六年前。ミレルバスの国主就任から一年後のことだ。
「バハンダールが……な」
彼は、龍府天輪宮泰霊殿の会議室で、みずからの半身たちとともに戦況の把握に努めていた。各地から送られてくる情報に明るいものはない。グレイ軍が動きを見せないことも、不気味さを助長しているだけだ。ナグラシアに集ったガンディア軍が、部隊をふたつに分けたという情報も届いている。先に西に向かった部隊と合わせると、三部隊。多方面を同時に攻略するというつもりなのだろう。そして、ザルワーンのような巨大な国を相手にするには、それしかあるまい。もっとも、各部隊の戦力が小さければ、各個撃破されるだけなのだが。
しかし、それはザルワーンにとって都合のいい捉え方だ。
現実には、ガンディア側の采配は当たっている。
バハンダールを落としたのは、その少数の部隊なのだ。およそ三千名の部隊が、難攻不落のバハンダールを制圧してしまったという。信じがたい話だ。ミレルバスが国主となる前に行われていたバハンダール攻略戦は、毎回、三千人などという規模ではなかった。最低でも五千人以上の兵士が投入され、そのたびに負けてきたのだ。城壁に取りつくことができたのは一度だけであり、突破できたことは一度もなかった。
たった三千人でなにができるというのか。
ミレルバスは唸るしかない。
そして、敵軍がバハンダールを攻略した際の詳細が明らかになると、彼は呆れるしかなかった。
超上空からの黒き矛の投下である。
黒き矛の名は、ミレルバスですらよく知っている。ガンディアが隆盛の勢いを得たのも、その武装召喚師の少年のおかげだという話だった。一騎当千の実力者であり、その矛は、戦局を傾けるだけの力を秘めている。彼が頭角を現したのは、バルサー平原でのガンディア軍とログナー軍の戦いだった。圧倒的な火力で、ログナー兵を千人以上殺し、ガンディア軍の勝利を決定づけた。ついで、ガンディアがログナー制圧に乗り出した戦争では、彼の戦いが勝敗を決めたといわれている。
セツナ・ゼノン=カミヤ。
レオンガンドは彼を寵愛し、王宮召喚師という称号も彼のために作り上げたのだと云われている。王立親衛隊《獅子の尾》隊長に任じ、側に仕えさせているのもその現れだろう。レオンガンドの趣味など知った話ではないが。
ともかく、王の親衛隊が、護るべき王と別行動を取っていることに驚きを隠せなかったのは事実だ。が、ガンディアの最高戦力ともいえる黒き矛をバハンダールの攻略に持ってくるのは、ある意味では当然かもしれない。難攻不落のバハンダールを制圧することができれば、ザルワーン全軍に与える衝撃も大きく、また、世間への聞こえもいい。
それに、バハンダールを放置して龍府に攻めこむような真似はできない。それこそ、龍府を半日や一日で落とせるというのならまだしも、この龍府が、そう容易く落ちるわけもない。攻略にかかっている間にバハンダールからガンディア領土へと侵攻されては、ガンディア軍としては嬉しいはずもないのだ。
ザルワーンへの侵略戦争を仕掛ける以上、戦力のほとんどは出払っていると見るべきだ。国土防衛のための戦力をどの程度の残しているものか。
バハンダールさえ残っていれば、そこから揺さぶりをかけるという手もないではなかった。ナグラシアから西へ向かった軍が、ミレルバスらの予想通りルベンに攻め寄せていれば、そういう手段も取ることができたのだ。さらにいえば、ルベンにはミリュウ=リバイエンら武装召喚師を配置していた。バハンダールほど簡単には落ちなかったか、撃退した可能性だってある。
敵は、黒き矛だけではない。
セツナ=カミヤ以外の兵を殺し尽くせば、彼だって撤退する以外にはあるまい。無論、敵軍も指揮官がまともならば、壊滅する前に撤退したはずだ。敵軍をバハンダールまで押し下げることができれば、他の部隊の行動をも牽制しただろう。
(……もう、遅い)
終わったことの可能性を考えても仕方のないことだ。もはやバハンダールは落ちた。つぎはルベンか、ヴリディア砦に歩を進めるのだろう。が、その前にルベンに派遣したミリュウたちが動き出すかもしれない。彼女らは龍府にあるときですら早く戦いたくて仕方がないようだった。ルベンではなくバハンダールを落とされた以上、ルベンで大人しくしているとはとても思えない。天将としての権限により、軍を出動させる可能性は高かった。
彼女らは、バハンダールを襲うだろうか。
敵の手に落ちた難攻不落の城塞都市。武装召喚師三人の力なら、力攻めで落とせるのか、どうか。相手には黒き矛がいる。防備は完璧に違いない。それに、たとえミリュウたちが強力な武装召喚師であったとしても、三人だけで突出しては、多勢に無勢。数に押し負けるということも考えられる。やはり、二千の兵と歩調を合わせるとなると湿原を進むよりほかはなく、それはザルワーンの大敗の歴史が否定するだろう。
(どうでる? 魔龍窟の武装召喚師よ)
バハンダールの湿原を抜けた先、ルベンからほど近い平原で戦うのか。それとも、ヴリディア砦に先回りして、敵が来るのを待つか。もっとも、バハンダールを落としたガンディア軍が、ヴリディア砦にまっすぐ向かうとは限らない。ルベンへと侵攻する可能性も低くはないのだ。ルベンの第二龍鱗軍は千人規模の部隊だ。バハンダールを瞬く間に制圧するような敵を相手に、半日持てば僥倖とさえいえる。その千人にミリュウらの二千人が加われば、まったく違う結果も見えてこようものだが。
ミレルバスは、無表情に虚空を見ていた。なにもない空間に視線を注ぎ、思考を巡らせる。黙考するときの癖だった。
黒き矛の狙いはどこか。
ミリュウたちがそれさえわかれば、戦いようもあるのだろうが。
「龍眼軍はいつでも出撃できます。五方防護陣との連携も良好。龍府の守備は万全ではありますが」
不意に口を開いたのは、セロス=オードだ。髪に白髪の混じり始めた武人の目には精気が満ち、悲壮感などまったく感じられない。彼はまだ勝利を諦めていないのだ。いや、負けているとさえ思っていないのかもしれない。彼は、龍府さえ、ミレルバスさえ守り抜けば勝ちだと思っているところがある。
彼のミレルバスへの狂信は、ミレルバス本人さえもときに薄ら寒くなるほどなのだが、かといってミレルバスには彼以上の軍才も武力もなく、従って彼を使うよりほかにない。彼は無能ではない。むしろ有能であり、軍事に関してはナーレス、グレイに次ぐ実力者だという話だ。ミレルバスにはわからない分野の話だが、ミレルバス配下時代のグレイ=バルゼルグがセロスをそのように評していたのだから、信頼してもいいはずだ。
バハンダールの長期攻囲において、彼の部隊はまったく士気が下がらなかったということでも有名だった。長陣において、戦意や士気の低下ほど恐ろしいものはない。包囲陣は、人間の堤防のようなものなのだ。士気が下がれば、そこから堤が崩れ、包囲網そのものが崩壊の憂き目に遭いかねない。しかし、長期に渡る攻囲だ。士気の低下を防ぐのは難しく、最初から最後まで緊迫感を保てたのは、度々メレド軍と小競り合いをしていたグレイ=バルゼルグの陣地とセロス=オードの陣地くらいのものだったようだ。
それ以来、ミレルバスは彼を重用するようになった。グレイも彼を見込んでおり、度々軍談に花を咲かせることもあったようだ。同じ武人として、気が合ったのだろう。しかし、ミレルバスを見限ったグレイに対し、セロスはなにもいわなかった。ただ、敵として戦うべき相手なのだと認識しただけのようだ。
「龍府の守備……な」
彼には龍府守護の戦力たる龍眼軍二千人の配下がおり、それらは精強で知られている。グレイ=バルゼルグの三千人とも渡り合うと豪語しているが、本当のところはどうかわからない。それが明らかになるような事態は来ないだろう。それは、グレイ=バルゼルグの軍勢が龍府に攻め寄せてきたときにしかありえず、そうなった場合、ミレルバスは躊躇なく切り札を使うからだ。
(オリアン。おまえのいう通りだ。龍府の守備は万全。負けることはありえない)
ミレルバスは、軍議に顔を連ねる連中を見回した。神将セロス=オードと、ミレルバスが作り上げた五人の腹心たち。マーロウ=ライバーン、ダンエッジ=ビューネル、ユーラ=リバイエン、ドークス=ファブルネイア、ゲーシュ=ヴリディア。魔龍窟の難を逃れた五人の若者は、ミレルバスの元、ザルワーンを彼の理想の国へと作り変えるために懸命に働き続けてきた。彼らはミレルバスの思考を理解し、呼吸を把握している。異体同心といっても過言ではない。彼らがいる限り、ミレルバスはいつ死んでも問題はないとさえいえた。そのために、育成してきたのだ。
ミレルバスは、己の死後のザルワーンを憂慮していた。ミレルバスの後継者は現れ得ないだろう。ならば、自分自身の手で、納得のいく後継者を作り上げればいい。それが、この五人の若者だった。彼らは、自分たちが将来のザルワーンを担うなどとは思ってもいないのだろう。しかし、ミレルバスが死ねば、理解するはずだ。自分たちがなんのためにミレルバスに重用され、すべてを叩きこまれたのか。そして、この国の将来をより良い方向に導いてくれるだろう。
自分が死んでも、代わりになってくれるものがいる。
それは、彼にとって大きな支えだった。