第千九百二十三話 第二次リョハン防衛戦(十七)
ラムレス=サイファ・ドラースとともにリョハン東部の神軍陣地を強襲したユフィーリアが、数え切れないほどの敵兵を打ちのめしながら異変を感じ取ったのは、太陽が西の彼方に沈み、夜の闇が頭上を覆いはじめた頃合いだった。
蒼き狂王に率いられた竜属の軍勢は、神軍陣地の三万に比べるとあまりにも少ない。この度の戦いに参集した竜の総数は五百あまりであり、ラムレスはそのうち五十を率いているに過ぎなかった。だが、万物の霊長たる竜属にしてみれば、たかだか三万程度の人間の軍勢など、五十であっても恐るるに足らず、ラムレスとともに飛ぶいずれもが勝利の確信を抱いていた。
これまでがそうだった。
ドラゴンが人間に屈することなど、大陸史が始まってからというものほとんどなかった。ドラゴンは常に人間の上位にあり、畏怖されこそすれ、見下されることなどありはしないのだ。ドラゴンが人間に破れることがあったとしても、ドラゴン一体に対し、人間側は数百倍の人数を要したものだ。近年、武装召喚術の登場によって、人間と竜の力の均衡が崩れかけてはいるものの、依然、竜の偉大さを軽んじるものはいない。武装召喚師といえども、竜と対等に戦うのは簡単なことではないのだ。ましてや、竜殺しと謳われるほどのものなどそう生まれるものでもない。
竜と人間の関係は相変わらず上位者と下位者のそれであり、竜が人間に力を貸すことなど、本来ならば万一にもありえないことだった。
そういった当然の道理を乗り越え、ラムレスたちがリョハンの人間たちに与し、神軍と戦うのは、ひとえにユフィーリアのわがままのためであり、彼女の願いを聞き入れてくれる寛容にして慈悲深く、偉大なるラムレスの深慮あってこそだ。
そして、その深慮が見渡した景色こそ、リョハン側の勝利であり、神軍の哀れなまでの敗走なのだ。
事実、ここに至るまで竜属は数多の勝利を貪り、敗北を食い散らしてきている。リョハンを包囲するべく構築された数多の陣地のいくつかは、竜たちの苛烈な攻撃の前に反撃も空しく壊滅した。中には神人を投入することでドラゴンと拮抗しようとした陣地もあったが、ドラゴンの圧倒的な暴威の前には意味はなかった。
低強度の神人では、ドラゴンを足止めすることも敵わない。たとえ高強度の神人がでてきたとしても、ラムレスならば一蹴しうる程度に過ぎない。どれだけ強力であっても、神人は神人に過ぎない。万物の霊長たる竜に勝るわけがないのだ。
つまり、ラムレスとその眷属がリョハンについた時点で勝敗は決まったようなものだったということだ。
もっとも、勝敗を決めるのは、リョハンの人間の手でなければならない。それが、ラムレスがユフィーリアのわがままを聞き入れる条件だった。
『力は貸そう。だが、ただ我らの力のみに頼るようなものどもには、我が力の一片たりともくれてやるつもりはない。我が力はそれほど安くはないのだからな』
それに、と、ラムレスは続けたものだ。
『みずからの手で勝利を掴まんとするものだけが、この地獄を生き抜く権利を得られる以上、我が力に頼るだけのものには滅びの未来こそがふさわしかろう』
ユフィーリアは、それでもいい、と、ラムレスにリョハンへの助力を嘆願した。リョハンの人間にしてみれば、ドラゴンに全部任せてしまいたいという気持ちもあるだろうが、そんなことは知ったことではない。ユフィーリアが肩入れしているのはリョハンではないのだ。リョハンを拠り所とする友人のために、彼女は父や兄弟、同胞の反感を買うようなことまでいっている。
彼女のためだけといっていい。
ただ、彼女さえ無事ならばそれでいい、とはならない。なぜならば、それでは彼女が不幸に堕ちるからだ。ユフィーリアは、ファリアが現状、幸福そうにしているとは想ってはいないものの、リョハンを失えば、さらなる不幸に陥るであろうことは理解している。故にリョハンの防衛に力を貸してやりたかったし、なんとしても守り抜いてやりたかった。
そして、戦況を見る限り、このまま推移すれば、リョハン側の勝利は疑いようがないといったところまできていた。リョハンの八方に築かれた神軍陣地のうち、過半数が既に壊滅状態となっている。再起不能といっても過言ではないほどの大打撃を受けているのだ。当然、それらはラムレスの眷属たちによる猛攻の結果であり、このまま攻撃を続ければ、今夜中にも全陣地を壊滅させることは必ずしも難しいことではない。
無論、本陣を担うのはリョハン軍だが、敵戦力を見たところ、必ずしも勝てない相手ではなかった。ファリアたちならば、必ずや成し遂げるに違いない。
そう想っていた矢先だった。
「なんだ?」
ユフィーリアは、長大な神人の腕を切り落とし、その懐へと飛び込む最中、突如として意識を貫くような感覚に襲われた。その瞬間、隙が生まれた。神人の左腕が鞭のようにしなりながら彼女の首を刎ねようと迫ってきたのだ。避けきれない速度。だが、彼女はなにも感じなかった。神人の腕は、ユフィーリアに触れる寸前、炎に包まれ、弾け飛んだからだ。ラムレスの魔法攻撃。
《感じたか、ユフィーリア》
「ああ。いまのは?」
ユフィーリアは、頭の中に直接響くラムレスの声に反応しながら、両腕を即座に再生させる神人へと殺到、手にした槍を振り回してその肉体をばらばらに切り裂いた。そして、白化した肉体に紛れる“核”を発見した瞬間、槍を旋回させて切断する。その瞬間、神人の肉体は細胞の結合が解かれ、砂のようにばらばらになって、崩れ去った。
ユフィーリアが手にした槍は竜の骨と牙でできている。それだけで並の武器とは比べ物にならない威力を持っているが、さらに竜魔法による強化が施されているいま、召喚武装とも遜色ない力を発揮し得た。
《リョハンで異変が起きたようだ》
「リョハンで?」
ユフィーリアは頭上を仰いだ。天を衝くほどのラムレスの巨躯には、陣地内の敵兵の攻撃が集中している。無数の鉄の矢が夜の闇に溶けるような群青の鱗に激突しては跳ね返され、空を舞った。並の攻撃では、ラムレスを傷つけることさえ難しい。ましてや通常兵器など、竜に効果があるはずもないのだ。
ただ、さすがに神人の攻撃となると、無視することもできないのだろう。ラムレスは、殺到する神人の集団に大魔法を叩き込んでは撃退していた。竜の魔法は、その咆哮によって発揮される。竜の呼吸と竜の言語。どちらもユフィーリアは体得しているが、魔法は習得できなかった。人間と竜の体質の違いの問題だという。
《……なるほど。神軍め……残酷なことを考える》
「なんのことだ?」
《先の戦いの結果、覚えていよう》
「先の戦い……? ああ、リョハンと神軍の最初の戦いのことか。覚えているぞ」
敵陣に切り込みながら、ラムレスとの会話を続ける。神軍の兵士の大半は、ただの人間だ。魔法による強化さえ受けていない常人など、何百人襲いかかってこようと、相手にならない。ただでさえ、ユフィーリアの身体機能は、竜の呼吸で強化されているのだ。そこにラムレスの魔法が幾重にもかけられ、ユフィーリアは無敵の超人と化している。飛来する矢の尽くを叩き落とし、あるいは素手で掴んで投げ返す。怒涛の如く敵陣に殺到し、雑兵を蹴散らし、神人を撃滅する。
もちろん、戦っているのは、ユフィーリアだけではない。ラムレスとその眷属の五十体が、数万の兵を擁する神軍陣地を蹂躙しているのだ。ドラゴンの一体一体が凄まじい攻撃力を誇っている。それが五十体と、最強のドラゴンたるラムレスが降臨したのだ。数万の常人と数百の神人では相手にならないのは当然のことだ。
とはいえ、神人はラムレスさえ警戒したように、ドラゴンも苦戦を強いられる場合があった。高強度の個体となると、
《その際、リョハンは神軍の兵士どもを捕虜とし、後に難民として保護した。くだらぬことにな》
「ああ」
《神軍は、リョハンがそうすることを見越していたのであろう。彼奴ら、リョハンに保護されたものたちを皆、神人としたようだ》
「え……?」
ユフィーリアは、敵兵の攻撃を捌きながら、ラムレスの言葉が信じられなかった。
《元より、神化の種となる神威を埋め込んでいたのだろう。それを発芽させただけのことだが……しかし》
「待て、全員なのか? 三万はいたはずだぞ、リョハンの難民……!」
《そうだ。全員が全員、神人と化した。彼奴ら、リョハンを落とすのに必死のようだな》
「三万の神人……だと」
《さすがに多いな》
「だったら、こんなところで戦ってる場合じゃあないだろ」
《うむ》
ラムレスが、一息に敵兵の集団を吹き飛ばしながら、うなずいてくる。
《後方は任せろといった以上、責任を果たさねばな》
「ラムレス!」
ユフィーリアは、ラムレスの予期せぬ返答に目を輝かせた。まさか、ラムレスがそこまでいってくれるとは思いもしなかったのだ。