第千九百二十一話 第二次リョハン防衛戦(十五)
「あんれ……」
スコール=バルディッシュは、戦宮の最奥、女神の間に辿り着くなり、間の抜けた声を発した。
戦宮は、戦女神の住居であり、リョハンにおける聖域といっても過言ではない建物だ。そのため、普段から護峰侍団によって警備されているものの、今日はいつになく厳重に警備されていたこともあり、戦宮に入る前から違和感を抱いてはいた。しかし、ファリアのことを想うと、深く考えている場合ではなく、彼はそそくさと戦宮の奥までやってきたのだ。そして、戦宮最奥、女神の間と呼ばれる一室に足を踏み入れた瞬間、視界に飛び込んできた光景に彼は心底落胆した。
正面の奥に清廉な装束を身に纏ったファリアが立っていて、それだけは良かったのだが、それ以外が良くなかった。
「遅いぞ、スコール=バルディッシュ」
「いやあ、面目ない。少々、修行に明け暮れておりまして」
適当に嘯きながら、女神の間に勢揃いした顔ぶれに辟易しているのを隠さなかった。
「それにしても……ファリアちゃんに呼ばれたの、俺だけじゃなかったんすね」
ファリア・ベルファリア=アスラリア以外の顔ぶれというのは、スコールもよく知る人物ばかりだった。つまり、護峰侍団の団長以下一番隊から十番隊までの隊長格が勢揃いしていたのだ。隊長のひとりがスコールの到着を叱責してきたのも、なにか隊長格を勢揃いにする必要があったからのようだが、それがなんであるか、スコールには想像もつかない。
ただ、団長こと侍大将ヴィステンダール=ハウクムルと、九名の隊長格の畏まった様子からどうにもあまりよろしくないことのようではあった。
「ファリア様だ、たわけ」
そういって冷ややかな視線を投げてきたのは、最初に叱責を飛ばしてきた隊長だ。垂らした前髪で右目を隠すような髪型をした女で、視線の鋭さはほかの隊長格と比べ物にならない。名をアルセリア=ファナンラングという。ちなみに隠した右目にはさらに眼帯をしているのだが、それは幼少期の武装召喚術の暴走事故で右目を失ったからだ。護峰侍団四番隊長を務めている。
ほかに一番隊長アルヴァ=レロンがいつもの卑屈そうな表情をこちらに向けていたし、二番隊長ミルカ=ハイエンドの冷ややかなまなざしはスコールの到着の遅れを叱責するかのようだった。五番隊長ヒュー=ロングローの巨躯は相変わらずなにを考えているのかわからないし、シグ=ランダバル六番隊長の畏まった様子には吹き出しそうになる。隊長格最高齢のサラス=ナタールの落ち着きに満ちた態度と比較すると、八番隊長リドニー=フォークンの冷静さを偽る立ち姿は滑稽ですらあった。九番隊長オルファ=ザンディーの柔和な表情には癒され、イルドルク=ウェザンの憮然とした態度には反発を抱く。ファリアの前でなにを憮然とすることがあるのか。
そう、考えていた。
「ファリア様は、本日ただいまの時刻を以て、戦女神の座に着かれた。これよりは、軽率な発言は慎み給え」
とは、侍大将ことヴィステンダール=ハウクムルだ。いつになく威厳に満ちた態度は、戦女神の御前だからというのものあったのだろう。ヴィステンダールは、普段から高圧的な人物ではない。むしろ、話のわかる、団長に相応しい人格の持ち主だ。そんな彼がスコールに対しても冷厳に振る舞うのは、公の場くらいのものだった。つまり、いまこの場がそういう状況にあるということだ。
「戦女神? ファリアちゃんが?」
「ファリア様だといっただろう、たわけ」
またしてもアルセリアに叱責されるが、ランスロットには、彼女の言葉は響かなかった。それよりも考えるべきことがあったからだ。ファリアが戦女神になったという。戦女神だ。リョハンの象徴であり、この狭い天地のすべて。リョハンという世界を支える柱にして、光。
だがそれは、初代戦女神ファリア=バルディッシュの人間宣言によって否定されたはずであり、だからこそスコールは、ファリアのリョハンへの帰還を心から喜び、彼女が健やかに、そして安らかにリョハンで生活していくだろうと想っていたのだ。彼女には自分の人生を歩んで欲しいと考えていたのだから、それでよかったのだ。
だというのに、戦女神になった、という。
もちろん、彼は、護山会議がファリアに戦女神への就任を望んでいるということは知っていたし、リョハンの現状を収めるにはそれ以外に効果的な一手はないことも理解していた。しかし、ファリアがそれを受諾するとは想っても見なかったのだ。ファリアならば、敬愛する祖母の決断を覆すようなことはするまいと想っていた。
だが、違った。
ファリアは戦女神となった。
「二代目戦女神ファリア=アスラリアです。護峰侍団三番隊長スコール=バルディッシュ殿」
ファリアは、決然とした表情でこちらを見ていた。その瞳の奥に輝く透徹した覚悟を認識したとき、彼は、言葉を失った。
それから、ファリアによる所信表明演説があったが、彼は心ここにあらずといった精神状態であり、彼女の決意や覚悟を心に留め置くことができなかった。大事な話だが、それよりももっと大切なことがある。
ファリアが戦女神となったのだ。
それは、彼にとって天地がひっくり返るくらいの衝撃的な出来事だった。これまで信じてきたものに裏切られたような感覚がある。だからといってファリアを恨むようなことはないし、彼女を応援し、助力しようという気分はある。恨むとすれば、このような状況下で戦女神という大任を彼女に押し付ける以外の道を模索しようともしない護山会議であり、護山会議の結論を後押ししたであろう四大天侍と護峰侍団だ。
スコールには一切の相談がなかったところを見ると、彼に話せば猛反対しただろうとだれしもが想っていたからのようだ。そしてその想像に間違いがなかった。賛成する道理がない。
確かに“大破壊”によって訪れた終末という混迷を乗り切るには、戦女神という偉大な柱を再びこのリョハンに招来する以上の手はないだろう。それ自体は否定するつもりはない。これ以上に効果的な方法はない。リョハンは、独立して以来、戦女神なしでは生きていけないような都市になってしまった。スコール自身、戦女神の不在は心細く想っていたし、先行きに不安を抱いたものだ。
だからといって、最愛の従妹の人生を縛るような結果は、彼は望んでなどいなかった。
かつて彼女が戦女神となり、その四大天侍となることを夢見た彼は、もはやそこにはいない。
彼はただ、彼女の幸福な人生を望んだ。
そのためならば、いかな助力を惜しまないと心に決めていた。
それが頼りない従兄にできる数少ない愛情表現なのだと、彼は想っていた。
「……これより、リョハンは新体制に移行する。すべては戦女神ファリア様の名の下に」
『戦女神ファリア様の名の下に!』
ヴィステンダールの言葉を唱和しながら、彼は、一抹の寂しさを抱いていた。
ファリアは、遠い存在になった。
もはや、従兄だからと軽々しく話しかけることもままならなくなったのだ。これを寂しく感じないわけがなかった。心のどこかに穴が空いた。そんな感覚。
無論、ファリアの力にならないわけにはいかない。彼女が戦女神になるという道をみずから選んだのであれば、文句はない。本当はもっと別の道を歩んでほしかったが、選んでしまった以上、戦女神となってしまった以上、そこに異論を挟む余地はない。異論を唱えたところで、彼女が結論を変えるわけがない。彼女は、護山会議も想像できないほどの頑固者なのだ。
「スコール=バルディッシュ殿」
団長以下、隊長各全員が女神の間を出て行く中、彼は不意に呼び止められた。ファリアにだ。どきりとした。到着が遅れたことを叱責されるのではないか――ありえないことだが、そんなことを考えてしまった。
「なんでしょう、戦女神様」
「……お従兄様、怒ってます?」
予期せぬ発言に、スコールは息を止めた。まさか、戦女神がそのようにいってくれるとは想っても見なかったのだ。
「わたしが戦女神になったこと」
振り返った先にあったのは、あどけない従妹の顔であり、その可憐さは筆舌に尽くしがたいものだった。スコールは、すぐにでも抱きしめたい衝動に駆られながら、それを抑えるのに必死にならなければならなかった。女神の間には、ファリアと彼だけしかいない。だが、だからといって、戦女神たる彼女を抱きしめるなど大問題も大問題だ。そんなことが露見すれば、彼の立場が危うくなる。
「そんなこと、あるわけないじゃないか……!」
そういったとき、自分の声がかすれていたことに気づき、彼は内心愕然としたものだ。
怒るなど、以ての外だ。
叫びたかった。
ファリアがどのような結論を出そうと、それを全力で応援するのが自分という人間なのだ、と。声を大にしていいたかった。
けれど、いえなかった。
いえば、嘘になる。
本当の気持ちがどこにあるのか、気づいていたからだ。




