第千九百十一話 第二次リョハン防衛戦(五)
ラムレス=サイファ・ドラースの巨躯は、夜の闇がいまにも訪れんとする夕焼けの空を猛然と駆け抜けていく。嵐を起こすほどの勢いと速度は、彼がいかにも急いでいることの証明であり、彼の背に乗るユフィーリア=サーラインは、ラムレスの心遣いに感謝していた。
ラムレスは、ドラゴンだ。それもただのドラゴンではない。竜の中の竜とも呼ばれる転生竜の一体であり、蒼衣の狂王と呼ばれる竜の王だ。数多の眷属を率いる、竜属の頂点に立つ存在なのだ。万物の霊長たるドラゴンの中でも最高位といってもいいだろう。それほどの立場にある彼が人間のためにわざわざ力を貸すなど、本来あり得べきことではない。
ドラゴンは、人間を見下している。
人間だけではない。
ドラゴン以外のあらゆる生物を下に見ている。それは決して悪いことではない。なぜならば、ドラゴンたちが見下し、黙殺しているからこそ、人間を含むあらゆる生物は、ドラゴンによって蹂躙されることも、滅ぼされることもないからだ。
竜は、小さくか弱いものたちを相手になどしないからだ。弱者をいたぶるなど竜の誇りが許さない。ただし、その弱者が竜を敵とみなし、攻撃してくるのであれば話は別だ。そのことが人間と竜の軋轢を生むこととなり、また、人間による竜への信仰にも繋がっているらしい。
ラムレスがリョハンに力を貸すのは、ひとえにユフィーリアのわがままによるところが大きい。ユフィーリアが友人ファリアの力になりたいという願いを聞き入れてくれたのだ。ラムレスが聞き入れれば、ラムレスが号令すれば、眷属たち、つまりユフィーリアの兄弟や家族たちも応じずにはいられない。眷属の長たるラムレスの命令に背くことなどなにものにもできないのだ。たとえどのような理由があろうとも、竜王の勅命を無視することは許されない。
そんな偉大なる父の背にあって、ユフィーリアは、その大空のように広く深い愛情を感じずにはいられなかった。
ラムレスは、人間を嫌悪しているといっても過言ではない。他の動植物とは異なり、人間は極めて利己的で、際限のない欲を持つ生き物だからだと彼はいった。かつて人間に関わったがために大きな事件が起きたこともあったらしく、それ以外、彼が積極的に人間に関与することはなかった。彼が昨今、人間に関わりを持つようになったのは、ユフィーリアの存在があるからだろう。
ユフィーリアは、己をドラゴンと想い、生きてきた。物心ついたときにはラムレスの鱗に抱かれていたのだから、そうもなろう。目に映るすべてが竜社会のそれであり、自分が彼らと異なる姿であることを理解するのに時間を要したし、人間であるなどとは思いもしなかった。自分が本当は人間という生き物で、ラムレスたちドラゴンとはまったく異なる種であることを理解したいまでも、ドラゴンで在り続けたいと考えていたし、彼女の魂に宿るのはドラゴンとしての誇り高い熱だ。
人間とドラゴンは、根本から価値観の異なる生き物だ。ユフィーリアも人間の価値観を持たない。ドラゴンとして人間を矮小な存在と見下し、価値を見出だせなかった。それが最近になって人間と触れ合うようになって、少しずつ変化が生まれてきていた。クオンとの出会い、クオンの仲間たちとの触れ合い、そして、ファリアとの邂逅。
ファリアは、良い人間だった。
少なくとも、彼女がこれまで知り合ってきた人間の中でも特に魂の美しい人物であるといえた。自分のためではなく、常に自分ではないだれかのために燃え続ける魂ほど美しいものはない。
ラムレスがそうであるように、ユフィーリアもそうありたいと想っていたし、だからこそ、そのような魂の持ち主に出逢うと、たとえ相手が人間であっても共鳴するのだ。クオンもそうだった。クオンの仲間たちの多くも、自分ではなく、他人のために生きていた。
利己的ではなく、利他的なのだ。
人間らしくはない。
が、そのただの人間とは異なる価値観の持ち主たちだったからこそ、ラムレスはクオンの声に耳を傾け、彼ととともに翔ぶことを決めた。そして、その決断が間違いではなかったことは、世界の現状を見れば明らかだろう。
クオンたちが命を投げ打ってこの世界を護ったのだ。
クオンたちがいなければ、世界はいまごろ滅び去っていたかもしれない。それもまた、事実なのだ。
そんなクオンと同質の魂を持つファリアにユフィーリアが惹かれないはずはなく、故に彼女はファリアのために力になりたいと常日頃から考えていたのだ。ラムレスとしては、あまり面白くないことかもしれないが、それでもユフィーリアのわがままにつきあってくれているのだから、持つべきものは偉大な父親なのだと彼女は想う。
そして、彼女の中に生じていた疑問を解消するべく、ユフィーリアは口を開いた。
「ラムレス。ひとつ疑問があるのだが」
「なんだ?」
「ファリアに伝えなくて本当に良かったのか?」
「なんの話だ」
ラムレスの声は、ひどく優しい。ほかの人間たちがいる前とは明らかに違う声音、声質。そもそも、ラムレスが人間たちに肉声を用いないことからも、扱いの差がわかろうというものだ。そこに愛情を感じないユフィーリアではない。だが、それと同時に疑問も沸く。
脳裏につい先日の戦闘の光景が浮かんだ。ラムレスと眷属らによる神軍陣地への強襲。そして、神人による迎撃。予期せぬ激戦となったのはいうまでもない。何体もの同胞が撃ち落とされ、命を散らせた。神人は、人間ではない。神の影響を多大に受けた元人間であり、別種の存在へと成り果てたものだ。強度の度合いによっては、ドラゴンにも対抗しうる力を発揮する。そして、神軍陣地には、大幅に強化された個体が多数待ち受けていた。おそらく、ほかの陣地にも同程度の強度を持つ神人が配置されているだろう。
神軍は、本気でリョハンを落とすつもりなのだ。
だからこそ、ユフィーリアは、ラムレスとともにファリアの力になってよかったのだと確信したが、そのために同胞を失ったことには多少、痛みを覚えていた。ラムレスは、そういうユフィーリアの考えを感傷と切り捨てる。弱き竜の末路など、気にする必要はない、と。しかし、ユフィーリアには、そうは想えないのだ。
弱いから、そうなったわけではあるまい。
「鋼の兄弟が神化したことだ」
神化とは、神威に毒されたものの成れの果てのことだ。神の気に毒されるのは、なにも人間だけではない。虫、獣、鳥、皇魔、植物、鉱物に至るまで、神の気という猛烈な毒に侵され、変容する可能性がある。まずそれは、人間のいう白化症という形で表面化する。白化症が進行し、全身がくまなく侵されると、完全な変容が起こる。それが神化だ。言葉通り神と化すというわけではないが、そのような言葉で表される現象が起きるのだ。植物、鉱物は結晶化し、死ぬだけだが、それ以外の生物は、違う。
神人のように神の下僕と成り果てるのだ。
異形の、強大な力を持った怪物へと。
彼女が疑問を抱いたのは、鋼の兄弟と呼ぶ三体の飛竜が、神軍陣地を攻撃中、白化症を患い、急激に進行させた結果、神化し、ユフィーリアたちの敵に回ったという事実について、だ。彼女はファリアたちに報告するべき情報だと考えたのだが、ラムレスに口止めされたため、いわなかった。ユフィーリアはわがままをいうが、だからといって、父の言いつけを守らないわけではない。むしろ、ラムレスの命令にこそ忠実なのが彼女なのだ。でなければ、ラムレスの眷属と仲良くなどやっていけるわけもない。
「……必要はないといったはずだ」
「それはわかっている。だからいわなかった。ラムレスの考えに間違いはないからな」
「ならば、我の考えに従えばよい」
「……わかった」
ユフィーリアは、ラムレスの厳かな言葉にうなずくと、それ以上なにもいおうとは思わなかった。
鋼の兄弟が神化し、敵に回ったときのラムレスの悲痛な叫びは、いまも耳に残っている。鋼の兄弟は、ラムレスの眷属の中でも長生きしていたほうだったのだ。かつて、ユフィーリアが生まれるよりずっと以前、ラムレスは、なんらかの理由で眷属を皆殺しにしている。そこからいまのように多くの眷属と行動をともにするようになるまで、どれだけの年月を要したのか、ユフィーリアには想像にあまりある。その中でも早くに誕生したであろう鋼の兄弟と殺し合わなければならなくなったことほど、ラムレスにとって痛恨の出来事はあるまい。
鋼の兄弟は、神化しながらも、ラムレスに殺されることを望んだ。ラムレスの力によって滅ぼされることで純化し、世界に還ることを懇願したのだ。ラムレスは、その望みに応えた。無慈悲なまでの暴威によって、彼らを滅ぼし、世界に還した。
「あれらが神化したのは、我らの問題だ。人間どもにいったところで、詮無きこと。むざむざ、彼らの士気を下げる必要もあるまい」
「なるほど。ファリアたちのことを考えての判断だったんだな、さすがはラムレスだ」
「なぜそうなる」
「だって、そうだろう?」
ユフィーリアは、なんだか嬉しくなって、ラムレスの背中の突起を撫でた。ラムレスの表情は、ここからではまったく見えないが、見えずとも、感情はわかる。優しく、気高い声に変わりはない。
「人間のことなんてどうでもいいのなら、士気の低下も気にする必要もない。士気が下がることを恐れていわなかったっていうことは、そういうことだ」
「……まったく、我が娘はなにごとも都合よく捉えすぎだな。それ故、人間などに絆される」
「む……」
ユフィーリアが黙り込んだのは、図星だったからだ。自分でも、そういう部分があることを認めている。
「だが、ファリアなる娘の魂が美しいのは、我も認めよう。故に力をくれてやるのだ。我の、我らの」
「……父上」
「ユフィーリアよ。そなたも竜属の一翼なれば、心せよ」
ラムレスの声が、心に響く。
「我ら竜は、世界の、イルス・ヴァレの一部なり。偉大なる力の化身に過ぎぬ。本来なればいずれかに力を貸すなどありえぬこと。それは、この世の法理を捻じ曲げる行為にほかならぬ。その結果、この世に厄災をもたらすやもしれぬ。そのこと、ゆめ、忘れるな」
「ああ、わかっている」
「ならば、良い。そなたは我が娘。我とともに天征く一翼。なればいま、我らが天をも侵さんとする者共らを蹴散らすのもまた、一興」
ラムレスの力強い言葉が夕闇迫る空に響き渡る頃、遥か前方に閃光が瞬くのが見えた。
各方面の神軍陣地では、既に戦いが始まっているのだ。