第千九百九話 第二次リョハン防衛戦(三)
「な、なんですって……!?」
「神人を戦力に……? いったい、どういうことなんですか?」
ファリアたちが驚きのあまり取り乱すと、ユフィーリアが冷静に告げてkチア。
「どうもこうも、そのままの意味だ」
《神軍は、神の軍勢。そう申したであろう。神が、人間どもを神化させ、使役することになんの疑問がある。むしろ、そこに考えが至らないほうが愚かというべきだ》
《ラムレスのいうとおりだね。神が人間を支配する上で、もっとも効率的な方法が神化だ。つまり、神威という毒によって肉体を、精神を支配し、意のままに操るということ》
ラムレスに続く聲は、マリクのものだった。
もちろん、この場にはマリクの姿はない。マリクは、守護結界の中心に座していなければならないからだ。動けば、守護結界そのものの位置がずれることになる。守護結界は、麓特区を内包するため、以前よりも大きくなっており、そのためある程度ずれても問題のないような大きさになっていたが、以前はそうではなかった。以前の結界は、リョフ山とその周辺をわずかばかり収めるほどの広さだったのだ。それは、結界の維持にも多大な力を消耗するからであり、消耗を抑え、出来る限り長期間に渡って結界を維持するためのマリクの努力の結晶だったのだ。それを捻じ曲げさせたのは、ファリアのわがままであり、そのことを意識するたびに彼女の胸は痛んだ。かといって、難民を見放すこともできるわけもない。板挟みだ。
ニュウ=ディーを見ると、彼女が手に持っている小さな円盤が光を放っていた。光っているのは、暗い緑色の円盤の中心部であり、そこから立ち上る光の柱の中に小さな人形のような影が浮かんでいる。よく見れば、それは人形などではないことがわかる。守護神マリクの似姿だ。それもただの似姿ではない。現在のマリクの姿がそのまま投影されているというのだ。
守護神の座を動けないマリクは、円盤に神の力を加えることで、結界内のどこからでも交信することを可能にしたということだ。
つまりマリクは、先程の会議内容にも耳を傾けていたのだ。ファリアたちの考えに間違いがあれば正し、敵軍に新たな動きがあれば知らせてくれる予定だった。
《もっとも、神人化した人間は信仰心さえも失ってしまうから、信仰心を力の源泉とする神々にとってはあまり得策ではないし、積極的に使うような力でもないけれど……戦力としてならば、話は別》
《人間だけならば我らが負ける要素は皆無。だが、神人が投入されるとなれば――》
「ラムレスが負けることはありえないが、兄弟は、そうはいかない」
《うむ》
「ファリアたちもな」
ユフィーリアの心配も、もっともだった。
神軍に武装召喚師の姿はほとんどない。神軍の主体となっているのは、まず間違いなくヴァシュタリア軍だからだ。ヴァシュタリアは、武装召喚術に興味を持ち、リョハンを総本山とする《大陸召喚師協会》の存在を黙認したのも、武装召喚術を自分たちもまた手に入れたかったからだ。実際、《協会》所属の武装召喚師の何名かは、ヴァシュタリアと契約を結んでいるが、武装召喚術そのものがヴァシュタリアに流出することはなかった。リョハン出身の武装召喚師が、リョハンの怨敵といっても過言ではないヴァシュタリアに技術を流すわけもないのだ。その結果、ヴァシュタリア軍に所属する武装召喚師は数えるほどしかおらず、それらがたとえ投入されたとしても、物の数にも入らないだろう。
つまり、神軍が動員する兵力というのは、通常戦力のみであり、物量を除いてリョハンの敵にはなりえなかったのだ。
だが、神軍が神人を動員し、戦力として活用しているという話が事実であれば、状況は激変する。
神人は、ファリアたちのような歴戦の武装召喚師ならば一対一でも対等以上に戦えるが、並の武装召喚師の場合はそうはいかない。神人――つまり、白化症の末期症状に陥った人間は、通常の生物とはまったく異なる存在へと成り果てている。首を刎ねても、心臓を破壊しても、それで終わりにはならないのだ。“核”を壊さなければならない。“核”がある限り、神人は無制限に再生し、活動する。破壊と殺戮を撒き散らす。
ファリアたちでさえ、神人が多数投入されたのであれば、苦戦を強いられるのはまちがいなかった。
《本陣とは程遠い手薄な陣地にも配備されていたのだ。本陣には、多数の神人が配置されていると考えるべきだろう》
《激戦が予想されるね》
《激戦で済めばよいがな》
ラムレスとマリクの会話を聞きながら、ファリアは卓上の地図を見やった。
(神人……)
ラムレスのいうようにファリアたちがいち早く落とさんと息巻く敵主軍には、多数の神人が動員されていることは想像に難くない。
熾烈な戦いが巻き起こることは、だれの目にも明らかであり、この場にいるだれもが緊張した面持ちとなったのはいうまでもない。
リョハン軍が神軍撃退のための部隊配置を終えたのは、本日三月七日のことだ。
戦女神、七大天侍を除く全戦力をリョフ山北東方面に展開、いつでも出撃可能としていた。
ファリアたちも最後の作戦会議を終えると、ラムレスの背に乗り、リョフ山を降りた。その際、護山会議の議員たちやリョハン市民がファリアたちの無事と武運を祈るべく集まり、空中都は大騒ぎになったが、市民のだれひとりとしてファリアたちが敗れ去ることを危惧してはいなかった。情報統制は上手く機能している。それだけでファリアはほっとした。
神軍との絶望的なまでの兵力差も、神軍の戦力も、市民に知らせる必要はない。
リョハンは、陸の孤島だ。逃げ場がないのだ。余計な情報を与えても、市民を不安に駆り立て、リョハンを混乱させるだけだ。逃げ場がないということは、それだけ負の感情が膨れ上がりやすいということでもある。難民問題で市民の悪感情が膨張したのも、そのせいだろう。リョハンという狭い世界では、そうならざるをえないところがある。
だれが悪いわけではない。
ファリアたちは、市民や議員たちに見送られながら空中都を後にすると、護峰侍団が展開中のリョフ山北東部、沈黙の丘に降り立った。
夕焼けが西の空の彼方を紅く燃え上がらせ、大地も草木もなにもかもが真っ赤に染め上げられた頃合い、護峰侍団の二千人もまた、燃えるような紅蓮の色彩に包み込まれていた。
沈黙の丘は、リョフ山北東に広がる荒野を見渡すことのできる小高い丘であり、北東の敵本陣を攻撃するための陣地には打ってつけの場所だった。当然、丘は既に結界の外にあり、敵陣は、丘のすぐ近くにある。互いの攻撃が届く距離ではないものの、ともすれば方舟の砲撃が飛んでくる可能性もあり、そのため、部隊配置中の護峰侍団にはドラゴンたちが付き添ってくれていた。ラムレスの眷属たる飛竜たちが、魔法によって護ってくれていたのだ。
ファリアは、ラムレスのとてつもなく巨大な背中から丘の上に降ろされると、群青の鱗に覆われた竜王の偉大なる姿を仰ぎ見た。夕日を浴びて紅く燃える青の翼は、いつにも増して美しく、気高さを感じさせる。それは、ファリアの感情に左右されているからだろう。印象というのは、そういうものだ。見るもののそのときの感情によって、大きく移り変わる。
蒼衣の狂王と呼ばれるドラゴン属の王は、その名に相応しい威容を誇り、冷厳極まりない姿でもってファリアたちの前にいる。小高い丘にも匹敵するのではないか、というのは言い過ぎにしても、ラムレスの巨躯は、かつて龍府に現れた飛竜ことラグナのそれよりも何倍も大きく、迫力があった。
何度も何度も顔を合わせているというのに、彼の前に立つだけで震えが来るのは、なぜなのだろう。人間が皇魔に抱く嫌悪や敵意と同じようなものかもしれない。魂に刻まれた竜への畏怖。竜は、太古からこの世に存在していた。聖皇が神々を召喚する遥か以前よりこの天地を支配していたといっても過言ではないのだ。人間は、彼らドラゴンの機嫌を損ねることを恐れた。ドラゴンの怒りは災害となって吹き荒れ、大地は形を変え、多くの命が散るからだ。竜とは、天災そのものであり、なればこそ、ひとびとは竜を信仰し、神の如く崇め讃えたという。
そういった記憶が魂の奥底に流れ、血肉となってこの体を作り上げているのだとすれば、竜王を前にして震える心にも納得がいく。
ファリアは、震える胸に手を当てると、心を落ち着かせるようにして、ラムレスに頭を下げた。
「なにからなにまでありがとうございます、ラムレス様」
こうしてリョハン防衛戦の準備を進めることができたのは、なにもかもラムレスとユフィーリアのおかげだった。彼らの協力がなければ、リョハンは神軍の包囲網を知ることもできなかったのだ。そして、包囲網が半壊状態となり、勝ち目が見えてきたのもまた、ユフィーリアたちのおかげだ。ファリアたちは、なにもしていない。リョハンに在って、ただ準備を整えていただけだ。その間にラムレス、ユフィーリア率いるドラゴンたちが手を打ってくれていた。
これほど心打たれることがあるだろうか。
これほど、心揺さぶられることがあるだろうか。
ファリアは、状況が状況ならば涙を流して喜び、人目もはばからずユフィーリアを抱きしめ続けただろう。しかし、いまはそういう状況ではない。
《いや――》
「いや、気にするな、ファリア。友として当然のことだ」
ユフィーリアがラムレスの返事を妨げるようにしていってきたのには、ファリアも驚くしかなかった。
「ユフィ……」
「おまえはわたしを友といってくれただろう。ファリア。おまえはわたしにとって、初めての友だ」
ユフィーリアのその言葉は、かつてファリアが彼女から聞いた言葉でもあった。ユフィーリアにとって、ラムレスの眷属たるドラゴンたちは、友ではない。同胞であり、兄弟なのだ。友ができるとすれば、眷属以外のドラゴンか、ドラゴン以外の種族となる。となれば、人間をおいてほかにはないと考えるのは早計だろうが、ほかに友好を結べるような種族がいようはずもない。
ユフィーリアは、傭兵集団《白き盾》がヴァシュタリアに組み込まれ、神殿騎士団の一部となってからのクオン=カミヤと知り合い、そこで初めて人間の知人を持ったという。それまではドラゴンとともに生きていた彼女が人間社会に踏み込むきっかけとなったのがクオンであり、彼女はいまもクオンのことを大切に想っているというのだが、クオンは友人ではない、という。恩人なのだ、と。だから、ファリアが初めての友人であり、そのことがユフィーリアにとってはこの上なく大切なことらしい。
初めての友人の大切さは、ファリアにもわからないではない。
「友のためならば力を尽くす――それが竜の生き様だ」
「竜の……」
「わたしは、竜だ」
ユフィーリアは、胸を張って、どこか突き放すような言い方で、告げてきた。人間ファリア=アスラリアとは違う生き物だと主張しているようだった。
「竜として生き、竜として死ぬ。たとえこの身が人間そのものでもな」
「ええ。ユフィ。あなたはだれがなんといおうと、竜よ。だれよりも気高く、だれよりも美しい。わたしもそうありたいのだけれど……」
「なにをいう。ファリアは十分に美しいぞ」
「ユフィ……」
「皆がおまえを見る目は、そういっている」
「……そうかしら」
ドラゴンたるユフィーリアがファリアに世辞をいってくるわけなどはなく、その一言は彼女の本音そのものなのだろうが、ファリアにはその言葉をまっすぐに受け取るほどの自信はなかった。
戦女神としても、ひとりの人間としても半人前の自分をそのように評してくれるひとがどれほどいるものなのか。
丘の上に布陣した護峰侍団の団員たち、幹部たちのうち、半数以上は、反戦女神派だといわれている。難民問題がきっかけとなり、護峰侍団の頂点に君臨する団長ヴィステンダール=ハウクムルが率先して反対派に回ったことが、護峰侍団の団員たちに大きく影響したようだ。団員たちにとっても、必ずしも無関係な問題ではない。難民問題は、難民の暴動によって護峰侍団の団員に死傷者を出すほどになってしまっていた。
もちろん、ファリアだってわかっている。護峰侍団はリョハンにとってなくてはならないものだし、団員たちもまた、リョハンの民なのだ。彼らの命も大切なものであり、守らなければならない存在であることは百も承知だ。
だからといって、難民を見捨てることもまた、できない。
戦女神の理に反することだ。
戦女神ファリアを名乗るのであれば、それは譲れない。
戦女神は、リョハンの民だけでなく、困っているすべてのひと、すべてのものに分け隔てなく手を差し伸べるものなのだから。
《小さきひとの女神よ》
不意に頭上から降ってきた聲に、ファリアはびくりとした。頭の中に直接響く聲は、大気を震わせているわけではないのに強烈な力を持っている。
《神軍の本隊は、汝らに任せる。我らは露払いののち、包囲軍の各陣地への総攻撃を開始する。リョハンを守れるかどうかは、汝らにかかっている。が、そのために命を失ってはなんの意味もない。そのこと、ゆめゆめ忘れるな》
ファリアは、ラムレスからの思わぬ激励の言葉に返す言葉を失った。予想だにしなかったし、できるわけもなかった。ラムレスは、人間嫌いだという。ユフィーリアがさんざんいっていたのだから、それは間違いないのだろう。それなのに人間である彼女を育て上げたラムレスだからこそ、ユフィーリアは彼を心の底から信頼しているのだ。
「ラムレスもたまにはいいことをいう」
《たまには余計だ》
「ふふん」
ユフィーリアは、ラムレスの鋭い一言にも余裕の表情を崩さなかった。ユフィーリアとラムレスの会話を聞いていると、ラムレスが本当に狂王と呼ばれるほどに気性の激しいドラゴンなのかと疑いたくなるのだが、ラムレスが他の人間に向けるまなざしや言動を見る限りは、ユフィーリアだけが特別なのだということがよくわかる。ラムレスにとってユフィーリアは、目に入れても痛くないというほどの存在なのは、疑うまでもなかった。
ユフィーリアが笑いかけてきた。
「そういうことだ、ファリア。わたしたちは、おまえたちの勝利を祈っている。この戦いに打ち勝ち、リョハンを護ろう」
「ええ、ユフィ。いろいろ、ありがとう」
彼女に笑顔を返し、そして、ラムレスを仰ぐ。群青の巨竜の碧く美しい双眸が、こちらを見ていた。宝石のような目は、ラグナを思い出させる。
「ラムレス様の武運長久、祈っておりますわ」
《良い魂だ。征くぞ、ユフィーリア》
「はい、ラムレス。ではな」
「ユフィも、武運を」
「おまえこそ。死ぬなよ!」
ユフィーリアはそういうと、人間離れした跳躍力でラムレスの背に飛び乗った。
すると、ラムレスが天を仰ぎ、吼えた。
嵐が起きた。




