第百九十話 敵を待つ間
「遅いわねー……」
ミリュウ=リバイエンは、うんざりとしたようにつぶやいた。相も変わらぬ青空と、なにひとつ変わらいようのない風景だけが、彼女の視界を埋め尽くしている。
ザルワーンの原野。目新しい物などなにひとつなく、面白みもない緑の平原が広がっているのだ。青空、太陽、なにもかもが美しく輝き、それだけで満足していたのは、もう遠い昔の記憶に過ぎない。慣れとは恐ろしいものだとは思う。十年ぶりに見た太陽は、脳髄を焼ききるかのようにあざやかで烈しかったのに、いまではありきたりな風景の一部と成り果てていた。無論、刺激が足りないのも事実だろう。このままでは安寧のうちに永眠してしまいそうな気配がして、彼女はあくびを漏らした。
十六日、バハンダール陥落の報せを受けたミリュウたちは、さっそく軍を纏めると、行動を開始した。ルベンを出て、バハンダールへと南下するのではなく、東へ進路を取った。バハンダールを落としたガンディア軍がそれだけで満足するとも思えない以上、彼らの進軍路に先回りして陣を張っておこうというのが、ミリュウたちがだした結論だった。
バハンダールの北へと伸びる街道は、湿原を越え、しばらく進むと二手に分かれている。ひとつは、ルベンへと至る街道であり、西へと伸び、さらに北へ至る。もう片方の東へ進む道は、龍府五方防護陣と呼ばれる砦のひとつヴリディア砦へと続いている。
ガンディア軍の狙いは、ルベンか、ヴリディアか。ルベンならば、ルベンの城壁の中で待ち構えているのが一番いいだろう。小さな都市とはいえ、四方を城壁に囲まれており、防壁としては十分に機能するはずだ。城壁を突破するのは簡単なことではない。敵が迫ってくれば、ミリュウたちは城壁の上から召喚武装を用いて攻撃するだけで多数の敵兵を殺すことができるだろう。が、敵軍がヴリディアに向かうとなると、話は別だ。ルベンは黙殺される格好になり、待っていても意味がなくなる。
ルベンで待ち、ヴリディアへ向かうガンディア軍の後背を突こうとするならば、常に敵軍の様子を窺い、また、いつでも出撃できるように準備していなければならず、現実的とはいえない。また、後方から急襲するにはかなりの速度で進軍する必要があり、こちらの接近を悟られ、待ち伏せされた場合、目も当てられない惨事が待っている。
そういうことをクルードと兵士たちが討論しているのを、ミリュウは素知らぬ顔で聞いていたものだ。彼女は軍議に顔を見せることはあっても、積極的には参加しなかった。どうやら、彼らとは頭の構造が違うらしいということが、この部隊が結成された当初に判明したのだ。頭が悪い、とまで自分を卑下するつもりもないが、軍議で飛び交う言葉のほとんどが耳をすり抜けていくのには参ったものだった。ついていけない以上、その場にいる必要はない。軍議の場から彼女の足が遠ざかるのも無理はなかったのだ。
結局、ミリュウたちはルベンを出ることに決め、街道が二叉に分かれるところを交戦地点と定めた。陣取ったのはそのさらに北であり、ルベンに近い場所だ。兵糧が足りなくなればいつでも取り寄せられるほどに近く、また、状況によってはルベンの第二龍鱗軍が出張ってきてくれるだろう。ルベンの翼将ビュウ=ゴレットは、どうやらミリュウのことをいたく気に入ってくれたらしく、いつでも頼ってきて欲しいといわれたほどだった。
若い男だったが、ミリュウの趣味ではなかった。愛想笑いさえしなかったが、彼にはそれがよかったらしく、ミリュウたちがルベンを出たあとも、こちらを気遣い、余分なまでの兵糧を送り届けてくれた。これで当面の兵糧の心配はなくなったな、というクルードのつぶやきが皮肉に聞こえたのは、気のせいだろう。
野営地には、二千人の兵士がいる。
そのすべてが、龍牙軍から駆り出されてきたものだ。龍牙軍は、龍府を守護する五方防護陣の各砦に提供された戦力であり、龍府が攻めこまれ場合、隣接する砦と共鳴し、迎撃するのが本来の役目だった。その役目を放棄し、どこの馬の骨ともわからない(わけではないのだが)ような連中の支配下に入れられた兵士たちの士気は、見るからに低い。
当然の帰結だろう。
彼女は、栄えある龍牙軍の兵士から、箔付けのために天将位を授けられたミリュウたちの配下になってしまった連中に、多少の同情を禁じ得なかった。かといって、彼らに優しくしようなどとは思わない。むしろ、不幸に堕ちてくれたほうが彼女としても嬉しいというのが本音だ。ミリュウは自分を善人だとは思ってもいない。善だの悪だの語っていられるような半生ではなかった。だからこそ、他人の幸福を妬み、不幸を願うのかもしれない。
いっそ、この国が不幸に堕ちればいい。
そう思わないでもない。
が、みずから率先して、この国を壊そうとはしなかった。いや、できないのだろう。彼女の魂は、ザルワーンに縛られている。
「バハンダールを落としたのが二日前。もう少し正確にいえば十五日の夕刻だそうだ。すぐに進軍を再開するとも思えないな」
クルード=ファブルネイアが、こちらに歩み寄ってきたと思ったら、そんなことをいってきた。ミリュウのつぶやきが風に乗って、少し離れていた彼の耳に届いたのかもしれない。
「だったら、ルベンで待っていればよかったじゃない」
「とはいえ、相手はガンディアだ。電撃的にナグラシアを落とし、バハンダールの制圧も早かった。油断はできない」
「……せっかく染めた髪が台無しにならないといいんだけど」
ミリュウが伸びをすると、クルードは目を細めた。彼は、彼女の髪の色が気に入らないのかもしれない。ミリュウは、ルベンについてから髪を染めたのだ。ちょうどいい染料が見つかったからであり、地上に出てからずっと染めたくて仕方がなかったのだ。
白金色の髪を、無理やり真っ赤に染めた。
血の色だと、ミリュウは想っている。悪夢の色だ。魔龍窟の、十年の長きに渡る悪しき夢の色。忘れたくても忘れられない色彩は、彼女が生き残るために殺してきたものたちの命の色でもある。本当は、別の色にしたかったはずだ。すべてを変えたかったはずなのだ。しかし、彼女が選んだのは、それだった。
血のような深紅。
きっと、逃れ得ぬ呪縛なのだろう。
奪ってきた数多の命が、自分の思考を縛り、意識を絡め取っている。だから、ザルワーンを裏切るという発想に至っても、行動に移せない。思考も、精神も縛られている。
そんなことを考えてしまうほどに、敵を待つのは退屈だった。
クルードはいい。部下となった兵士たちと激論を交わすだけの頭があり、考えがあるのだから。ザイン=ヴリディアも気楽なものだ。ルベンから連れてきた子犬と戯れ、走り回りながら鍛錬をしているようなものだ。それだけで時間が過ぎていく。彼女のように暇を持て余してはいない。
ミリュウには、なにもなかった。
日がな一日、野営地の兵士たちを眺めているのもつまらない。彼らは彼らで、戦闘訓練などで忙しそうにしている。陣形の打ち合わせや確認、武器や防具の手入れなども行っているようだ。彼らはいまの立場に不満はあるのだろうが、ミリュウたちに天将位を授けたのは国主であり、また彼らがミリュウの配下に組み込まれたのもミレルバスの意志によるものだということを心得ているのだろう。士気こそ低かったが、表情そのものが暗いわけではなかった。
ミリュウは、椅子から立ち上がると、クルードを振り返った。
「仕方がないわ。組手でもして暇を潰しましょ」
「望むところだ」
クルードも暇を持て余していたのかもしれなかった。