第千九百八話 第二次リョハン防衛戦(二)
「どこにいっていたの? ここのところ、姿が見えなかったけれど」
ファリアが駆け寄ると、ユフィーリアは、満面の笑みで迎え入れてくれるとともに全身で抱擁してくれた。ファリアも彼女を抱きしめると、その龍鱗の甲冑に覆われた肉体が極寒の大地で鍛え抜かれたものであるということを思い出して、ため息をつきたくなった。竜属に育て上げられたユフィーリアは、生粋の竜といっても差し支えのない肉体を誇っている。とても人間では敵いそうもない鋼の肉体と精神、そしてそれらに裏打ちされた技量が彼女をこの上なく頼もしい存在として認知させるのだ。ただ、頼もしいだけではない。ファリアにとって、ユフィーリアは心の支えであると同時に、ミリュウ同様、血の繋がらない妹のような存在でもあったのだ。
彼女と本格的に交流を深めるようになったのは、約二年前、つまり“大破壊”以降のことであり、それまでは知人ですらなかった相手だ。いまではファリアにとってもリョハンにとってもなくてはならない存在となり、古くからの付き合いのような感覚を抱いてもいるのだが、その絆を培ってきたのはこの二年余りのことであり、それだけ親交を深めることになるとは、知り合った当初は想像もつかなかったことだ。
彼女のことだけではない。
ラムレス=サイファ・ドラース率いる竜属と交流を結んだこともまた、想像の範囲外の出来事だ。なにもかも、ファリアが考えていた未来とは異なる方向に進んでいる。それもこれも、望まれぬ世界大戦の果てに起こされた“大破壊”が原因ではあるのだが。
ファリアがユフィーリアの抱擁をたっぷりに感じていると、ユフィーリア自身の手で少々強引に引き剥がされた。呆然と、彼女の顔を見る。竜の頭部を模した兜の下、ユフィーリアの凛とした顔が少しばかり照れくさそうにしていた。
ユフィーリアが羞恥心を覚えるようになったのは、ここ最近のことだ。以前は、違う。人間ではなく、ドラゴンに育てられた彼女は、人間とかけ離れた倫理観や道徳観に基づいた言動を行っていた。感情表現が素直で、触れ合うことにも積極的だった。相手に親愛を示す時、場を弁え、状況によってその方法を千差万別に変えるのが人間だが、彼女は違った。ドラゴン属がそうするように鼻先を突き合わせ、頬ずりをするのだ。それがドラゴン族にとっては当たり前の仕草なのだが、どうやら人間社会ではあまり常識的な仕草ではないことを知ったユフィーリアは、ここのところ、人前ではドラゴンらしい仕草を見せてくれなくなっていた。それはそれで寂しいものがあるが、彼女に羞恥心が芽生えてきたことは、ある意味では喜ぶべきことなのかもしれない。
ユフィーリアが人間社会に順応してきた証なのだから。
ユフィーリアは、ドラゴンだ。ドラゴンに育て上げられた人間である彼女は、自分がドラゴンであることに誇りさえ持っている。人間の姿をしたドラゴンに過ぎない、とさえいっている。だが、彼女はどうあがいても人間なのだ。ドラゴンに鍛え上げられ、超人といってもいい肉体を持つ彼女だが、やはり人間であることを否定することはできない。竜の呼吸を真似することはできても、竜そのものになれるわけではない。翼は生えないし、牙も爪も生えないのだ。
だからといって、彼女は人間社会にこそ溶け込むべきだ、などということをファリアは想っているわけではない。むしろ、ユフィーリアにはユフィーリアらしく生きて欲しいし、人間社会への順応も、そのための一歩にすぎないと想っている。彼女は彼女であり、ドラゴンとして気高く生き抜いてるからこそ、美しいのだ。
「ラムレスと一緒に包囲の様子を見てきたんだ」
ユフィーリアの予期せぬ一言に、ファリアはきょとんとした。想像だにしない反応だったからだ。ユフィーリアがなんの相談もなくリョハンから消えることそのものは、別段珍しいことではなかった。訪れた日のうちにいなくなることもしばしばあったからだ。しかし、このような状況下でなにもいわず姿を消すということは、なんらかの理由があってのこととしか考えられず、心配はしたものの、不安はなかった。
それが、まさか敵情視察とは想いも寄らないことだ。
ユフィーリアは、これまでもラムレスともどもリョハンに力を貸してくれている。情報や戦力の提供などがそうだし、今回の神軍による包囲網に関しては、彼女たちの協力がなければリョハンは後手に回らざるを得なかっただろう。素早く対応できたのは、ユフィーリアが手を差し伸べてくれたおかげだ。そんな彼女の厚情には感謝しかないのだが、一方で、彼女がリョハンのために労力を割く理由などひとつたりともないという事実に目を向けずにはいられない。
彼女には、リョハンに与することになんの見返りも利益もないのだ。それなのに、ファリアがお願いすることもなく、リョハンにとって益のある行動を取ってくれるなど、考えられないことだ。無論、ファリアはユフィーリアの純真無垢といってもいい心根を知っているから、彼女がファリアたちのためを想って行動してくれていることは理解しているし、いわれれば、納得もするのだが。
ユフィーリアならば、ラムレスをそういって動かすだろう。
「包囲の様子?」
「真ですか?」
「ああ。それだけじゃない」
「先手を打って、攻撃しておいたぞ」
「ユフィ! 本当なの!?」
「ああ、わたしがファリアに嘘をつくわけがないだろ?」
「ええ、そうね、そうよね……!」
ファリアは、ユフィーリアが胸を張る様が愛おしくてたまらなかった。どこか、子供が背伸びをしているような印象が拭いきれない。人間としてのユフィーリアは、まだまだ子供っぽいところがあるのだ。
「それで、その攻撃の結果はいかに?」
「地図はあるか?」
「はーい、こっちにありますよー」
ルウファが手を挙げ、会議用の卓を示した。卓上にはリョハン周辺を記した地図が広げられている。もともと、ヴァシュタリア共同体の領土地図だったのだが、それに調査部隊が得た情報とマリクが入手した情報、ラムレスたちがもたらしてきた様々な情報を書き込んであった。そこに記された膨大な情報量の上に神軍を示す駒が配置されているのだ。
神軍総勢二十万の軍勢は、リョフ山を覆う七霊守護結界を四方八方から包囲している。全部で八つの軍隊に分かれており、敵主軍は、北東方面から接近中の部隊であることはラムレスにより確認済みだ。リョハン側の勝機は、そこにしかない。敵主軍を討つことで全軍の戦意を喪失させ、引き上げさせる以外にはないのだ。戦力差は絶望的だ。戦闘が長引けばそれだけリョハン側が不利になる。籠城などできるわけもない。守護結界内に籠もったところで、人間ばかりで構成された軍勢には効果がないのだ。
結界を解除すれば、マリクとその七柱の眷属を戦闘に回すことができる。しかし、そんなことをすれば、神軍の攻撃がリョフ山を直撃するかもしれないのだ。
神軍が移動と搬送に用いている飛行船――通称・方舟は、ただ空を飛ぶだけではないのだ。超長距離の砲撃が可能であることがラムレスらによって確認されており、リョハンが結界を解けば、たちまち爆撃に曝され、壊滅的被害を免れることはできないだろう、とのことだった。
つまり、マリクには、なんとしてでも守護結界の維持に努めてもらうよりほかはなく、ファリアたちが敵主軍を打ち払い、神軍を撤退させる以外に道はないのだ。
「神軍が現在、結界の手前に陣地を築き、攻勢の準備を整えていることは、知っているな?」
「ええ。マリク様にも視えているもの」
守護神マリクは、結界内に関しては完璧に近い監視能力を持つが、別に結界外のことがまったくわからないというわけではない。結界の極至近距離のことならば、ある程度把握することができるのだ。それにより、神軍が陣地の構築を始めたことが今朝ファリアの耳に届けられた。
つまり、リョフ山の極至近距離に神軍の二十万が布陣を完了させたということだ。
二十万もの大軍勢の総攻撃によってこの山を飲み込むつもりなのは、だれの目にも明らかだ。そして、それほどの大戦力を有しながら一斉攻撃に出るのは、そうすることでリョハン側の戦力を分散させること以外にも、戦力が多すぎて細かな作戦指示が出しにくいということもあるのかもしれない。
世界大戦がそうだった。
三大勢力各二百万超の大軍勢が小国家群を侵攻していったが、それぞれ、戦術らしい戦術も用いることなく、ただ物量で踏み潰すだけの戦いばかりを繰り返したという。二百万もの軍勢を器用に動かすなど、並大抵の軍師、戦術家には不可能だろうし、彼我の戦力さを考えれば、それ以上に有効な手段などなかったのもまた明白だが。
「神軍は、結界近辺に陣地を築くことで、間断なく攻撃を続け、そのまま押し切ろうというのでしょう」
「そうだろうな。いくらリョハンが武装召喚術の総本山とはいえ、いずれ疲弊し、戦線の維持も難しくなる。となれば、リョハンを攻め滅ぼすのも難しくはなくなる――と、神軍は見たわけだ」
ユフィーリアの淡々とした語り口調は、聞いているだけでファリアの心が落ち着くようだった。ユフィーリアは、他人の感情に対して、鈍感だ。それが悪意であれ、好意であれ、人間社会とは無縁の人生を長く歩んできた彼女には、人間の生の感情を向けられても、どうも思わないのだ。最近になってファリアや皆の好意を実感できるようになったようだが、以前は、それはもうつんけんしたものだった。そんな彼女の発する声音は、凛として弾むようであり、涼やかだ。聞いていて心地がいい。
「だから。わたしはラムレスと敵陣を見て回ることにしたんだ。この如何ともしがたい戦力差を埋める方法を考えるためにもな」
《彼我の戦力差は圧倒的。だが、我らがいる。我らがうぬらに力を貸す以上、敗北は許されぬ。我らに敗北の二字は似合わぬ故な》
「ラムレスの考えはともかくだ」
ユフィーリアが腕組みをしたのは、ラムレスが話に入ってきたことが気に入らなかったからかもしれない。そんなユフィーリアの態度がラムレスには解せなかったということが、彼の反応から窺い知れる。
《ともかくとはなんだ》
「このまま包囲攻撃を受けるのは、いくら我々がいるからといってもよくないことだ。我が兄弟、同胞が防壁を築こうとも、小さき人間たちが擦り抜け、リョハンに到達する恐れがある。ドラゴンを布陣するにしても、それぞれが受け持つ範囲が狭ければ狭いほど、いい」
《ユフィーリア》
ユフィーリアは、ラムレスの聲を無視するように話を続けた。
「つい今朝頃、敵陣のうち、もっとも手薄な南の陣地から南西、西の陣地への攻撃を開始した。わたしはラムレスとともに南の陣地を半壊状態に陥れることに成功したぞ。これで、南側に戦力を割く必要がなくなったのだ」
「本当なの!?」
「す、凄い……」
「さすがは蒼衣の狂王率いる竜属ですね……」
ファリアを含め、会議に参加していた全員がユフィーリアとラムレス、そしてドラゴンたちの成果に驚くほかなかった。ファリアたちは、ラムレスらがただ協力してくれるだけで感謝していたし、それ以上のことを望んでもいなかった。数多のドラゴンがともに戦ってくれるのだ。それだけで十二分に心強く、頼もしい。それ以上のことは望むべくもなかった。
それなのに、ユフィーリアたちは、ファリアたちが望む以上のことを頼んでもいないのに成し遂げてくれた。
誇らしげなユフィーリアの表情が、この上なく輝いてみえた。彼女たちの助力に感激しているいま、そう見えてもなんら不思議ではない。
「それだけじゃない。我が兄弟による攻撃はなおも継続中だ。南西、西の敵陣地も直に落ちる。それら攻略が完了すれば、他の陣地への攻撃も随時開始することにしているが……」
「ユフィ!」
ファリアは思わずユフィーリアを抱きしめた。そのまま彼女の髪を撫でたくなったが、兜のせいでそれはできなかった。ユフィーリアが少しばかり狼狽える。
「な、なんだ、ファリア」
「凄いわ!」
「ふ、ふふん、と、当然のことだ。わたしは竜だからな」
多少気恥ずかしそうにしながらも、ユフィーリアは胸を張って、背筋を伸ばしてみせた。そんな彼女を頼もしく想うとともに、彼女の気遣いに心の底から感謝した。ユフィーリアだ。神軍陣地の偵察と襲撃は、ユフィーリアがラムレスに提案したのだ。ラムレスは、人間嫌いだという。リョハンに住む人間のために力を貸すことすら無駄と想っているであろうドラゴンの王が、リョハンのため、率先して敵陣を攻撃してくれるわけもない。ユフィーリアがファリアたちの負担を減らすため、ラムレスに提案し、ラムレスがこれを受け入れたという以外には考えられなかった。
《ユフィーリア》
「な、なんだ、ラムレス」
《忘れていることがあるだろう》
「……あ、ああ、そうだったな」
ユフィーリアが、ラムレスの言葉に気を取り直したように真面目な顔になった。さっきまでとはまるで様子の違う表情にファリアもまた、真剣に話を聞く態勢になる。
「敵陣を襲撃したことで、ひとつ、重大な事実が明らかになった。だからわたしとラムレスがリョハンに戻ってきたんだが……」
そして、ユフィーリアの口からは、信じられない言葉が飛び出した。
「神軍は、神人を戦力として組み込んでいるようだ」




