第千九百話 闘神の宴(十一)
「はははっ!」
興奮状態に陥ったダレル=ソーラは、もはやセツナのことなど眼中にないとでもいいたげだった。全身、隙を晒し、興奮と感動を伝えるように大声を発している。審判員のみならず、観客の耳にも届いているかもしれないが、その場合、彼の言動がどのように捉えられるのか、セツナは多少気になったりした。
「これが闘神ラジャムの加護! 神に選ばれしものの力か!」
ダレルが地を蹴って、飛ぶ。
常人とは比べ物にならない跳躍力、速度で試合会場を縦横無尽に飛び回る彼の姿は、闘技場にいる人間のほとんどが認識できてはいまい。捉えることができたのは、試合会場にいるセツナと、特別観覧席にいるレム、そしてウォーレン=ルーン辺りだろう。
闘士団の武装召喚師が召喚武装を身に着けていれば、認識できたかもしれないが、その可能性は低い。闘神練武祭はアレウテラスを上げたお祭りだ。アレウテラスの各地で同時多発的に闘技会が開催されており、闘士団に所属するほとんどの闘士たちがそれぞれの闘技場の闘技会に出場し、武を競い合っているのだ。武装召喚師も例外ではない。奉魂の儀に参加している武装召喚師は、セツナひとりなのだ。つまり、ダレルの人間離れした動きを理解できるものは、ほとんどいないということだ。
「素晴らしい!」
ひとり興奮の絶頂の中にいるらしいダレルを目で追いながら、呆然とする審判員や観客の様子を把握する。
(勝つ必要は……ないよなあ)
一刻も早く奉魂の儀を終わらせるため、さっさと勝つつもりだった。これまでの試合と同じようにだ。しかし、それができなかったため、セツナも少しばかり熱くなってしまった。ダレルに予期せぬ一撃を貰ってしまったというのもあるだろう。冷静さを欠いてしまった。その結果、戦いが長引いている。無駄なことだ。無意味なことだ。目的のためならば、さっさと負けて、儀式を終わらせればいい。
なにも、ウォーレンやラジャム神の思惑に従う必要などないのだ。ここでラジャムの横槍に憤り、本気を出す理由など、どこにもない。
ウォーレンは、奉魂の儀への参加を望んだ。奉魂の儀の闘技会に出場して、優勝しなければならない、などという条件ではなかったのだ。だったら、勝ちにこだわる必要はない。すべてが終わったあとで違う条件を提示されたとしても、そんなものに従う道理はない。
だれよりも強くなることと、どんな戦いにも負けないことは、必ずしも一致しない。
意味のない戦いでまで勝ちに拘ることにどんな意味があるのか。
(でも、なんか……)
セツナは、周囲を飛び回る闘士を見るのも止めて、憮然とした。
(むかつくなあ)
ダレル=ソーラが調子に乗るのは、致し方のないことだ。神の加護には、召喚武装の副作用以上の影響があったとしてもおかしくはなく、常人がそのようなものを得れば、世界が変わったような感覚を抱くだろう。見えるものすべてが新鮮な驚きに満ちているに違いない。そして、満ち溢れる力は、万能感を与え、気を大きくもするだろう。勝利を確信しているに違いない。
ようやく、ダレルが飛び回るのを止め、セツナの前方に着地した。それなりの時間、試合会場を飛び回っていたというのに体力を一切消耗してもいないように見えた。呼吸も乱れていない。
「ふふ……はははっ、素晴らしい。なんて爽快な気分なんだ! これが力か! これが、これこそが最強の闘士たる俺の力なのか……!」
「……なにいってんだか」
「なんだ、セツナ=カミヤ。嫉妬か? まあ、そうだろうな。アレウテラスの闘神ラジャムは、この奉魂の儀を通じて、おまえではなく俺を選んだのだからな。残念だったな、セツナ=カミヤ。おまえの英雄譚は、ここで終わりだ」
などと慢心に満ちた宣言を聞きながら、セツナは、胸の内のざわめきを抑えるのに必死にならなければならなかった。安い挑発だ。乗る必要はない。あっさりと負け、戦いを終わらせればいい。そうすれば、一秒でも早くこの儀式を終了させるという当初の目的が叶うのだ。だが、セツナの中でその意識に逆らおうとするものがあった。鎧が震えている。身につけているセツナにだけわかる微振動。メイルオブドーターが怒っている。その怒りの波動がまるで自分自身の感情の如く心の中で蠢き、のたうち回るのだ。そこで浮かぶのはひとつの疑問だ。
メイルオブドーターは、一体、なにに対して、怒っているのか。
「だが、喜ぶべきだな」
力に飲まれ、己を見失ったダレル=ソーラか。
それとも、ダレルに力を与えている闘神ラジャムか。
両者かもしれない。
メイルオブドーターは、セツナのことを気に入ってくれていた。ただ神の加護を得ただけでセツナを見下し、馬鹿にするものに対して怒りを露わにしたとしても不思議ではない。
召喚武装は意思を持つ。
いや、それだけではない。もっと大きな秘密がある。そのことを知っているのは、武装召喚術の始祖たるアズマリアと、彼女から直接真実を聞いたセツナだけだ。
「ダレル=ソーラという新たな英雄の踏み台となれるのだから」
「英雄……って」
(自分で名乗るもんじゃあねえだろ)
セツナは、圧倒的な力の奔流に自分を見失った男の哀れな姿に同情を禁じ得なかった。それも仕方のないことだ。彼はこれまでただの人間だったのだ。先年の奉魂の儀で優勝を勝ち取るほどの優れた闘士だという事実に間違いはないだろうが、それでも常人は常人なのだ。神の加護によって得られた力を制御する方法も知らず、漲る力に酔いしれているのだ。酩酊状態といっても過言ではない。圧倒的な、それこそ常軌を逸した力の濁流の中で、己を見失ってさえいる。
そういう感覚は、セツナにも理解できないものではなかった。セツナもかつて、黒き矛の圧倒的な力を手にし、全能感に支配されそうになったことがあった。そのまま力に飲まれることを認め、委ねていれば、きっと我を忘れ、自分を失っていたのだろう。それこそ、逆流現象に飲まれたミリュウのように、だ。
ダレルはおそらく、逆流現象に近い状態にあるのだ。
望みもせず神の加護を得た彼は、その圧倒的な力を制御する術も持たず、翻弄されている。神の加護によって偉大な力を発揮しながらも完全に制御しきっていた十三騎士たちとは、比較にもならない有様だ。
もっとも、彼に与えられた力は現状のセツナと拮抗しうる程度のものであり、真躯などとは比べようもないほどに儚い力に過ぎない。それでも召喚武装さえ手にしたことのない人間ならば、その膨大さに酔い、我を見失ったとしてもなんら不思議ではなかった。
「なにか、間違っていることをいったか?」
ダレルが地を蹴った。低い軌道を描く跳躍からの横殴りの斬撃。セツナは瞬時に前方高くに飛び上がって回避し、空中で反転、攻撃対象を見失って着地したダレルの後頭部目掛けて木槍を投げつけた。超高速で飛翔した木槍は、しかし、凄まじいまでの超反応を見せたダレルが大斧の一撃で叩き落としたため、有効打どころか掠りさえしなかった。ダレルが再び、踏み込みの構えを見せるも、こちらの状況を見た瞬間、わずかに怯んだ。
「ああ、いったな。英雄なんてものは、なろうと想ってなるもんでも、名乗るもんでもねえよ」
セツナは、中空に浮かんだまま、ダレルを見下ろしていた。
「召喚武装を用いていたのか。卑怯ものめ」
ダレルが糾弾してくるのと会場がざわめきだすのは、ほとんど同じくらいだった。だれもが、空中に浮かぶセツナの姿を見て、ようやくセツナが召喚武装を身に纏っていることに気づき、騒ぎ出したのだ。もっとも、セツナがメイルオブドーターの飛行能力を解禁しなければ、ダレルは元より観客に気づかれることもなかっただろうが。
「卑怯? あんたのそれはどうなんだ」
「はっ、これは俺が選ばれしものである証だ。おまえの卑怯な手の内とは違う」
「変わらないさ」
セツナは、涼しい顔で言い放つと、メイルオブドーターの飛行能力を完全開放した。軽鎧の背面から黒い翅が展開する。蝶の翅のような闇色の翅は、メイルオブドーターの飛行能力を最大限に引き出すために必要なものだ。そして、その蝶の羽は、使い方次第で武器にも防具にもなる。ダレルが警戒を強めるが、セツナはまったく気にも止めなかった。
確かに闘神の加護によって強化されたダレルは、強い。召喚武装によって引き上げられたセツナの身体能力を上回っているというだけでも尋常ではない。
ただしそれは、セツナが召喚武装の能力を禁じているからこそのものであり、能力を解禁した以上、どうとでもなる水準のものに過ぎなかった。
翅を閃かせる。
「俺も、ある意味選ばれしものだからな」
自虐とも自嘲ともつかない言葉を吐いたつぎの瞬間、セツナは、ダレルの背後にいた。
「え……?」
ダレルが疑問符を上げたのは、自分がなぜ空中高く吹き飛ばされているのか、まったく理解できなかったからだ。
セツナは、彼が空高く舞い上がり、そのまま落下するのを途中まで見届けた後、落下死を防ぐために翅を広げ、受け止めて見せた。闇色の翅は、地面に激突寸前のダレルを抱きとめ、そのまま包み込んで彼を昏倒させた。