第百八十九話 北進軍状況
マルウェールを目指し、十五日明朝ナグラシアを出立した北進軍は、ようやくスルークを通過したところだった。
ナグラシアからマルウェールへ向かう進軍経路は、三通りある。ひとつは街道を北上し、スルークを攻略、それからマルウェールに進む経路。しかし、スルーク攻略には時間がかかるだろうという判断から、これは却下された。
残るふたつは、スルークをどの方角に回避するかという違いでしかない。西に迂回するか、東に迂回するか。西に迂回する経路だと五方防護陣ファブルネイアの目と鼻の先を通過することになり、東側に進路を取ると、ガロン砦の警戒網に触れる可能性があった。ガロン砦といえば、旧メリスオール領であり、グレイ=バルゼルグが麾下三千人とともに立て籠もっていることで知られている。目の前を横切り、下手に刺激しないほうがいいに決まっていた。
ファブルネイアを含む五方防護陣がどの程度機能しているのかは不明ではあったが、ガロン砦の三千人を相手にするよりは遥かにましだろうという判断から、左眼将軍デイオン=ホークロウは西側に進軍経路を設定した。ファブルネイアのみならず、真横を通過することになるスルークからも攻撃の可能性は大いにあったが、立ち止まって考えている間に中央軍や西進軍が最初の目的を終え、龍府に向かって動き出してしまうことを彼は恐れた。
龍府への攻撃は足並みを揃えて行うということであり、北進軍が多少遅れても問題はないにせよ、デイオン自身の誇りが許さない。なんとしてもマルウェールに辿りつき、そうそうに陥落させなければ、左眼将軍に任命されたことへの示しがつかない。
北進軍の経路選択は正しかったようであり、スルークからもファブルネイアからも攻撃してくることはなかった。まさに無人の野を行くように、スルークの西側を通り抜けることができ、スルークとマルウェールのちょうど中間辺りで十七日の朝を迎えることができたのだ。
強行軍で進めば、十八日にはマルウェールに辿り着くこともできるだろう。
デイオンはそう考えていたが、かといって強行するつもりはなかった。まず、部下たちに反対されるだろう。彼は指揮官であり、左眼将軍という立場だ。絶対的な権限を持ってはいたが、彼自身の置かれた境遇への認識が、それをさせなかった。
デイオンは、自分が左眼将軍に任命されたのは、釣り合いをとるためだと思っていた。軍の平衡を保つための人事だと、認識していた。
軍の再編に際して、大将軍にアルガザード=バルガザールが選ばれた事にはだれも文句はなかっただろう。古くからガンディア軍を支え続けてきた大樹は、いまやガンディア軍の根本となって聳え立ち、古参兵から新兵に至るまで、彼を慕い、彼を敬っている。人望があるのだ。全軍を取り仕切るには、適任だろう。
つぎに右眼将軍と左眼将軍なるものが作られた。ログナー方面軍の統括者と、ガンディア方面軍の統括者であり、大将軍に次ぐ地位だとされた。右眼将軍にアスタル=ラナディースが抜擢されたのは、ログナー方面軍の人員のほとんどがログナー人であるからだろう。制圧し、併呑したばかりの国のひとびとを支配するには、慎重さと大胆さが必要だ。アスタルの右眼将軍就任は慎重かつ大胆な人選ともいえる。彼女のログナーにおける人望は、ガンディアにおけるアルガザードか、それ以上だといわれていた。反対意見(彼女が敗軍の将だからというくだらないものだが)もあったものの、彼女以上の適役が見つからないこともあり、アスタルが右眼将軍となった。
そして、左眼将軍にデイオンが選ばれた。
選出された当初、彼は悪い冗談だと思った。
デイオンは、ガンディア軍の将軍として長らくやってきてはいた。実績もないではない。しかし、軍を再編するきっかけとなったログナー攻略戦において、彼は本隊を率いていたものの、活躍する見せ場もないままに戦争は終結した。いや、彼はむしろ失態を晒したのだ。デイオン率いる本隊は、敵武装召喚師の襲撃によって半壊に近い被害を受けてしまった。もし、セツナ=カミヤによって敵武装召喚師が撃退されなければ、発見され次第抹殺されていたに違いない。敵は、ただひたすらに死を振りまいていた。
そんなこともあって、彼は戸惑ったのだ。
かといって、彼以上に左眼将軍が務まるような人物がいないのも事実だった。それは、彼の自身の能力への自負であり、誇りだろう。彼に並び立つものは、部下にはひとりとしていなかった。部下以外でも、そう多くはない。レオンガンド王の四友。彼らに将器はない。なるほど、彼らは王の腹心として、側近としては相応しく、才能も実力も十分にあるだろう。しかし、兵を率い、戦場を駆けるようなものたちではない。騎士たちもそうだ。ラクサスを始めとするガンディアの騎士は、やはり戦場を駆け巡る戦士であり、あるいは王都を守護する盾なのだ。将軍にはなれない。
であればこそ、彼が選出され、打診を受けたのだろうが。
それでも、彼は、平衡のために選ばれたのだという感覚が抜けなかった。
だからこそ発言は慎重になり、思考もいつもより長くなった。ちょっとした失態が、彼の立場を危ぶむかもしれない。彼は、レオンガンドがどういう人物なのか、あまり理解できていないのだ。うつけではない。それは間違いないだろう。愚者ではなく、むしろ利口であり、常に冷静に判断を下している。彼が感情的になったところを、デイオンは見たことがなかった。
マイラムでの演説。
あれは、どうだろう。
レオンガンドの本心なのか、熱演なのか。
なんにせよ、デイオンは此度のマルウェール攻略はなんとしてでも成功させなければならない。被害は少なければ少ないほどいい。龍府への攻撃時、どれだけ戦力が残っているかでこちらの勝利が決まるのだ。
十七日の明朝、彼はそんなことを考えながら、ゆっくりと動き出した野営地を見て回っていた。
朝焼けが、東の空を白く燃え上がらせている。空は晴れていて、雲はまばらに流れている。微風が頬を撫でるのがこそばゆい。穏やかな朝だ。作戦行動中とは思えないのだが、朝とはこのようなものだろう。
ガンディア方面軍第二・第三軍団各千人と、ログナー方面軍第二軍団による混合軍。通称、北進軍と銘打たれたこの軍勢の総指揮を、デイオンに任されている。ガンディア方面軍の各軍団長とは当然面識もあり、よく知っているので、意思疎通に問題はなかった。第二軍団長シギル=クロッターと第三軍団長ロック=フォックスである。
問題は、ログナー方面軍第二軍団の扱いである。新たにガンディア軍に編入されてきた彼らは、ガンディアに破れ、その上で支配されたという意識がある。ガンディアに対する反発も強く、それでも従っているのは、そうするよりほかに生きる道はないからだ。軍人なのだ。軍人以外に生きていく道を見つけるのは、そう簡単なことではない。
彼らが皆、心に折り合いをつけて生きていられるわけもない。ガンディア人だって同じだ。ログナー人など、自分たちに負けた敗戦国の人間であり、好きに支配してやればいいと考えているものだって当然存在する。レオンガンドのように、制圧し支配した以上はガンディアそのものである、と思える人間がどれほどいるのか。もっとも、軍規に背いたものに下される処罰の重さが、ガンディア軍人の言動を制御してくれてはいたし、時が流れれば、ガンディア人のログナー人への思い込みも解消されていくのだろうが。
それには長い時間が必要なのだ。
いまは、そのときではない。
もっと短絡的に、彼らとの距離を埋める方法が必要だ。無論、デイオンが命じれば、彼らは否応なく従い、戦場に赴くだろう。しかし、それでは駄目だ。それだけでは彼らはまともに戦えないだろう。戦わされているのではなく、戦っている、という状況を作らなくてはならない。
そのために骨を折るのが指揮官の仕事なのだが、今回ばかりは、ほかの手に頼らざるを得ないのも事実だ。
その手段とは、現在、デイオンの隣を歩く人物のことだ。彼は、朝早くに目覚めたらしく、デイオンの見回りになにもいわずついてきていた。彼もまた、自分の立場をよく理解している。
「強行すれば、夜中にはマルウェールが見えるということですが」
「いまは、兵たちを無駄に疲弊させるのは得策ではありません。マルウェール攻略に差し障りがあっても困りますのでね」
「そうですよね」
デイオンが丁重に説明すると、彼は軽く微笑んだ。エリウス=ログナーである。彼とは、デイオンが王都ガンディオンを出立したときから一緒に行動しており、道中、なんどとなく言葉を交わしてはいた。
ログナー家の跡取りであり、二月ほど前、アスタルの反乱によって王位につき、ガンディアの侵攻によって王位を失った青年である。
ログナー王家は、ガンディアに破れ王権を失ったことで一般市民になったわけではない。レオンガンドの計らいにより、ガンディアの王都で暮らす貴族の一員となっているのだ。彼の父母は王都にて悠々自適の生活をしているようだが、彼自身は貴族の身分には留まってはいられないようだった。
彼は、ガンディアにおけるログナー人の地位や立場の向上のためにも、戦わなければならなかった。ログナーの家を継ぐものとして、最後の王として、立派でなければならないのだ。無論、王都で両親ともども風雅の中に暮らすという選択肢もあった。レオンガンドもそれを勧めたようだが、彼は丁重に断り、こちらの道を選んだようだ。
おかげで、デイオンはログナー方面軍との意思疎通に困らなくなった。
彼は未だにログナー人の間では、最後の王として敬われ、慕われているのだ。ログナー方面軍第二軍団の軍団長レノ=ギルバースも、彼の部下たちも、エリウスを前にすると途端に態度を改めたものだ。彼らはやはりログナー人であり、ガンディア人になりきれてはいないのだ。それはある意味では当たり前のことだ。ガンディアがログナーを制圧して二月あまり。人の心が変わるにはあまりに短すぎる。
デイオンのどのような提案も、エリウスが承認すれば、ログナー軍人から文句や不平が出ることはなかった。最後の王である彼の威厳はまったく損なわれておらず、影響力も強すぎるほどにあった。レオンガンドが彼に特別な地位を与えなかったのは、そういう影響力の強さを憂慮してのことかもしれない。
例えば彼が将軍ならば、一言号令するだけで大規模な反乱が起きかねなかった。しかし、現在のログナーの軍勢は分割され、アスタルの元に支配されている。彼女は、ログナーを人質に取られている以上、反乱を起こすようなことはしないだろう。彼女がキリルに対して反乱を起こした状況とは、大きく違うのだ。
エリウスがこの北進軍に同行しているのは、その影響力によるところが大きい。彼の影響力を利用することで、ガンディア人とログナー人の共同作戦が円滑に運ぶようにという配慮である。
戦力的に考えれば、北進軍をガンディア方面軍だけで構成することも可能だった。しかし、制圧したばかりのナグラシアの防衛をログナー方面軍に任せるのは、些か不安がある。彼らがなにをとち狂い、ザルワーンに内通するという可能性も、まったくないとは言い切れないのだ。
西進軍には指揮官として右眼将軍アスタル=ラナディースが同行しており、彼女が裏切ることはまずありえないと考えている。彼女はログナーの民の平穏こそ案じており、ザルワーンに寝返るなど、かつての属国時代への逆戻りにしかならないのだ。ログナーの王権を取り戻そうにも、エリウスが側にいない以上、空転するだけだろう。そして、黒き矛が付いている。彼ひとりで、西進軍への牽制と成り得るのだ。
いや、アスタルへの牽制か。アスタルがログナー軍の敗北を認めたのは、セツナ=カミヤによる殺戮を目の当たりにしたからだという噂がある。それが事実かどうかはともかくとして、右眼将軍が黒き矛に対してなんらかの感情を抱いているのは確かなようだ。
それに、ログナー軍人にとっても、黒き矛は恐るべき存在だろう。味方であるとこれほどまでに頼もしい存在はいないのだ。敵に回った時の恐ろしさは、デイオンには想像もできない。
「マルウェールを落とせば、数日は休めましょう。全軍の足並みを揃えなければなりません。が、だからといって無理は禁物です。兵を無駄に消耗するわけには行きませんからな」
「ええ。それもわかっているつもりです」
エリウスは、常に微笑の絶やさない、涼やかな青年だった。デイオンとしても、彼とは話しやすく、好感が持てた。彼が側に居てくれるのなら、ログナーの軍人とも上手くやれるだろう。
「しかし、マルウェールはどう攻略するつもりなのですか?」
「それについては頭を悩ませてはいたのですが」
デイオンが彼に対して恐縮してしまうのは、エリウスが生まれながらの王族であることに起因しているのかもしれない。もちろん、いまも貴人であることに変わりはない。現在、北進軍においてはデイオンのほうが立場は上ではあるのだが、配慮することに問題はあるまい。彼との関係が良好であればあるほど、ログナー軍人との壁もなくなる気がした。
「カイン=ヴィーヴルに任せることに決めました」
デイオンが告げると、エリウスは納得したようにうなずいた。
軍属の武装召喚師こと仮面の男カイン=ヴィーヴルは、北進軍に同行している。武装召喚師をばらけさせるのは、当然の判断だろう。バハンダールに当たる西進軍には最強の矛を、中央を突破する中央軍には無敵の盾を、そして北進軍にはカイン=ヴィーヴルである。デイオンは彼の実力を書面でしか知らないのだが、有能な武装召喚師であることには違いないらしい。もっとも、無能な人間が武装召喚師になれるはずもないのだが。
彼は、昨夜の軍議において、マルウェールを比較的楽に落とす術があるといっていた。
それに賭けて見るのも悪くはない。失敗したなら、全軍を上げて戦えばいい。ほかに方法がないのだ。
マルウェールは大都市の例に漏れず、堅牢な城壁に囲まれた都市だ。城壁や城門を突破するのは、簡単なことではなかった。