第千八百九十一話 闘神の宴(一)
闘神練武祭。
闘都アレウテラス最大最高のお祭りが行われるようになったのは、およそ二年前、極剛闘士団によるアレウテラス奪還がなってからのことだという。
アレウテラスを含むアルマドールの各都市は、最終戦争の初期においてヴァシュタリア軍の物量に押し潰され、ヴァシュタリア軍の支配下に入っている。その後、“大破壊”が起き、混乱が各地を襲った。大地の形が変わり、大陸がばらばらになった衝撃は、天変地異そのものとなって吹き荒れたのだ。アレウテラスもその衝撃をもろに受けていることは、アレウテラスの現状を見ても明らかだ。“大破壊”の爪痕は拭いきれない傷跡の如く残っている。
その“大破壊”による混乱を好機とみたウォーレン=ルーン率いる極剛闘士団は、アレウテラスを支配していたヴァシュタリア軍を攻撃、アレウテラスからの撃退に成功する。それにより、アレウテラスは極剛闘士団の統治下に入ることとなり、最終戦争以前ともことなる統治体制となったのだが、そのことは問題ではない。むしろ、なんの力もない統治機構よりも、闘都アレウテラスにおいてもっとも影響力を持つ闘士たちが統治運営するほうが、アレウテラスのひとびとが安心するのは道理だったのだろう。
最終戦争における大敗や“大破壊”による多大なる被害は、アレウテラスのひとびとの心に深い傷をつけ、拭いきれないものとして残り続けていた。“大破壊”の余波や影響は、ひとびとを不安に駆り立て、失意や絶望が終末思想を吹き荒れさせた。
そんな状況を打破するべく立ち上がったのが極剛闘士団であり、団長ウォーレン=ルーンは、“大破壊”によって傷ついたひとびとの心を勇気づけるとともに、失われたものたちの魂を鎮めるという意図を込めた闘技の大会、練武祭を催すこととした。
それが二年前の今日――三月七日のことだという。
「練武祭によってアレウテラスのひとびとが奮い立ったのは間違いないらしい。なんでも、それ以来、アレウテラスが活気づくようになったんだと」
「闘技で……でございますか?」
「見ただろ。この街の連中、とんでもない闘技好きなんだよ」
「確かにそのようにございますが……とても、信じられません」
「まあ、な」
セツナは、レムの意見に同意して、手にしていた新聞を卓の上に放り投げた。セツナがいま読んでいた新聞に、闘神練武祭の歴史の記事が載っていたのだ。それにより、当初、闘神練武祭とは呼ばれておらず、練武祭と呼ばれていたことがわかっている。そして、なぜ闘神練武祭と呼ばれるようになったのかも、そこに記されていた。
「つまり、それだけでもないってことだ」
「どういうことなのでございます?」
「カミサマが現れたのさ」
中央闘技場で行われていた第一回練武祭の最中、それは起きた。
闘神の降臨。
それは、みずからを闘神ラジャムと名乗り、鎮魂のための闘技を賞賛し、一方的にアレウテラスの守護することを宣言したというのだ。それがただの幻覚でも妄想でもないことは、そのとき闘技場にいただれもが目の当たりにし、神の姿を見、神の声を聞いたからだ。
闘神ラジャムは、それ以来、アレウテラスの守護神として祀られるようになり、練武祭も闘神練武祭と名を改めた。ただ祀られるようになっただけではない。闘神が守護神となってからというもの、アレウテラスは活気づき、ひとびとも希望を持って日々を過ごせるようになった、というのだ。
「神様……ウォーレン様が仰っていた?」
「おそらくは、そうだろうよ。闘神ラジャムっていうらしい」
「……なにかと神様と縁がございますね」
「いやな縁だな」
「マウアウ様は、良い神様でしたが」
「それは否定しねえけど」
セツナは長椅子の背もたれに体を預けながら、天井を仰いだ。石造りの部屋は、天井も石材を組み合わせたものとなっている。
「嫌な神様のほうが多い気がしてな」
そんなことはないのだろうが、そういう気がするのは、嫌なことのほうが印象深く記憶に残るからだろう。セツナが出会った神といえば、マユラ神、ミヴューラ神、アシュトラ神、マウアウ神と、半数が人間にとって善神と呼べる神なのだが、やはりマユラとアシュトラの印象のほうが強烈だ。マユラは邪神と呼ぶほどのことはしていないものの、無意味に多くの命を奪ったという事実がある。アシュトラはいわずもがなだ。
それに比べるとミヴューラの善性はなんなのか、と想うほどだが、慈悲深さはマウアウも変わらないかもしれない。マウアウは、セツナが黒き矛さえ手にしていなければ、攻撃さえもしてこなかっただろう。
そんなことを思い出しながら、天井に吊り下げられた魔晶灯の冷ややかな光を眺めている。レムが新聞を手に取るのを気配だけで感知し、扉が開くのを音で知る。おそらくは、ジェイド=メッサだろう。彼は、用を足しに部屋を離れていた。
セツナたちはいま、中央闘技場の控室にいる。
今日は大陸暦五百六年三月七日。
つまり、闘神練武祭の当日なのだ。
今朝、宿を出たときには、アレウテラスの街全体が闘神練武祭一色に染まっていた。極剛闘士団の紋章が描かれた真っ赤な旗が街中に掲げられ、様々な出し物が市内を彩り、闘神練武祭の盛り上がりを演出していたのを見てきている。待ちゆく市民が生み出す熱量は、アレウテラス全体を凄まじいまでのお祭り騒ぎで覆い尽くす勢いであり、アレウテラス市民にとってこの祭りがどれだけ重要なものか、セツナたちにも実感として理解出来た。
闘神練武祭は、最終戦争、“大破壊”で亡くなったひとびとの鎮魂のための祭事であるとともに、いまを生きるひとびとの心を奮い立たせる祭りでもある。闘技こそが根幹たるこの闘都に生まれたものたちの魂は、闘技によって慰められ、鎮められると考えられたのだろう。そして、家族や友といった大切なひとたちを失ったひとたちの心もまた、闘技によって勇気づけられ、奮い立たつのだ。
闘技がアレウテラスの中心である、とはデッシュの言葉だが、まさにその通りの出来事が起きていて、セツナたちは彼の言葉を思い出しては、納得したものだった。
そんな闘神練武祭において、最大の催し物とされるのが、アレウテラスの中心に位置する中央闘技場で開催される闘技会形式の儀式、奉魂の儀だ。闘士たちが己が誇りをかけてぶつかり合う闘技は、魂の激突であると定め、その激しい魂のぶつかり合いによって、最終戦争や“大破壊”で犠牲になったアレウテラスのひとびとの魂を慰め、鎮めるといった名目で執り行われてきたという。闘技こそがすべてたるアレウテラスらしい儀式といえば、そうかもしれない。死んでいったひとびとのほとんど全員が、アレウテラスに生まれ育ち、骨の髄まで闘技に慣れ親しみ、闘技こそ人生であると考えていたはずだ、という想定に基づく儀式なのだ。
実際のところ、アレウテラスの全住民がそこまで闘技に惚れ込んでいるのかはわからない。しかし、闘技を少しでも嫌う人間が住みにくい都市であることは確かであり、アレウテラスの空気感と合わないものは住み着こうとはしないだろうという感覚は多分にあった。おそらく、アレウテラスに長年住んでいたひとたちは、この闘神練武祭の熱狂的な盛り上がりを理解しうるひとたちだっただろうし、そういったひとたちの魂を慰めるには、やはり闘技しかないのかもしれない。
そして、奉魂の儀は、天に届き、神の降臨を招いた。
その事実は、アレウテラスをさらなる闘技への熱狂へと誘い、“大破壊”の影響も強く残る中、それでも立ち直りつつあるのは、闘技のおかげという以外にはないのだと闘士たちは口を揃えていう。おそらく、闘士以外の市民に聞いても同じ答えが返ってくるに違いない。闘技によって成り立つ闘士の都市。それが闘都アレウテラスなのだ。
その闘都における最大の祭事が、闘神練武祭にあり、その根幹を成すのが奉魂の儀にあることは触れた。
では、セツナがなぜ、奉魂の儀の行われる中央闘技場の闘士控室にいるのかというと、至極簡単な話だ。
奉魂の儀は、通常の闘技会と形式そのものは大きく変わらない。闘士たちが互いの知勇を決し、勝敗を競うものだ。ただ、闘士ならばだれでも出場できるというわけではなく、前回の闘神練武祭から今日に至るまで、数ヶ月毎に開催されてきた予選会を突破した闘士だけが出場権を得ることができるという話だ。
予選会を通過した十二名に前年の奉魂の儀における上位四名を加えた十六名が、出場権を持つという。
要するに、極剛闘士団に所属する闘士の中で上位十六名による勝ち抜き戦であり、優勝者にはその年一番の闘士の称号と名誉、賞金が与えられるとのことだった。
セツナは、その話を聞いて、闘士たちの己の誇りと魂を賭けた試合を多少は楽しみにしていたのだが、ウォーレン=ルーンより出場の打診があったのだ。
いや、打診、などというものではなかった。
要請であり、強制に近いものがあった。
聞き入れてくれなければリョハンの情報を渡さない、と暗にいっているようなものであったのだ。セツナは悩んだが、レムの応援もあり、出場要請を引き受けた。
十七人目の出場者としてセツナ=カミヤの名が発表されると、アレウテラス中が驚きと衝撃に沸き立ったという話だが、どこまで本当のことかはわからない。
『かつて小国家群だった国において、セツナ殿の名を知らぬものはいませんから』
ウォーレンは妙に嬉しそうにいってきたのだが、なにがそこまで嬉しいのかはセツナにはわからなかった。
ウォーレンがなにかを企んでいる気がしてならない。
ウォーレンの背後には、神がいる。
闘神ラジャム。
闘争を司り、勝利と鎮魂を謳う神がウォーレンに命じてセツナを引き止めさせたのだろうことは、疑うまでもない。
ラジャム神の真意はどこにあるのか。
アシュトラのように黒き矛の使い手たるセツナを滅ぼすためか。マウアウのように神域を侵したことへの苛烈な反応か。それとも、マユラのような戯れか。
いずれにせよ、警戒するに越したことはない。