第千八百九十話 包囲網(四)
ラムレス=サイファ・ドラースとユフィーリア・ディーヴァ=サーラインの合流は、包囲網に不安を抱くリョハンを大いに沸き立たせた。
蒼衣の狂王ラムレス=サイファ・ドラースは、とてつもなく巨大なドラゴンだ。それこそ、空中都に降り立つのが困難なほどの巨体は、山頂の一角を覆い尽くすといっても過言ではなく、その威容を目の当たりにしたものはドラゴンへの限りない畏怖を抱かざるをえない。そして、その畏怖こそ、ラムレスへの信頼の証となりうるのだ。強大な力を持つ竜の王たるラムレスと、その数多の眷属が力を貸してくれるとなれば、神軍の包囲網に対抗しうると考え、沸き立つのも必然だった。
しかし、ファリアたちは、ユフィーリアから聞いた新たな報せにより、さらなる危機感を持たなければならなかった。
神軍による包囲網は、さらに強化され、十万どころではなくなったというのだ。
「およそ三十万……か」
ファリアは、ユフィーリアからその報せを聞いたとき、絶句するほかなかった。総勢十万の軍勢ですら、大軍だった。リョハンの全戦力でどうにかできるかもわからない兵力差といってよく、ラムレス率いるドラゴンたちの加勢を当てにしなければならない状況だったのだ。それが、三倍以上に膨れ上がったというのだから、ファリアが言葉を失うのも無理はなかっただろう。
それら総勢三十万を越える神軍は、リョハンの守護結界を包囲するように配置されており、徐々にその距離を詰めつつあるといい、決戦の日は近いということもわかっている。
「とんでもない数だが、あの戦いよりはましだな」
「そりゃあまあ、そうですけど……あんまり変わらない気が」
「総勢六百万超と約三十万が大差ないとか、おまえの頭はどうなっている」
「いや、あの、そういう意味ではなくてですね」
「……まあ、いいたいことはわかるがな」
グロリアは、弟子の頭に手を置いた後、ファリアのいる方に視線を向けてきた。ファリアではなく、ファリアのすぐ隣に立つ人物を見たのだろう。
「しかし、今回こちらには心強い味方がついている。なにを心配することがある」
「それもそうなんですけど」
「そうだぞ。なにも心配することはない。わたしたちが味方についている」
ルウファを一瞥して、胸を張ったのはもちろんユフィーリアだ。竜の鱗や骨を鍛えた甲冑に身を包む彼女は、まさに竜の騎士と呼ぶに相応しい姿をしていた。すらりとした長身に竜そのもののような甲冑が映えている。兜から溢れる髪は白金色で、ミリュウの髪色を思い出させた。そのミリュウは未だ消息不明だが、彼女のことに構っている場合ではない。
まずは、目の前の危機に対応しなければ、リョハンを失うことになる。
ファリアは、卓上の地図に視線を注ぎながら、口を開いた。
「ラムレス様とユフィのおかげで、神軍の本陣も判明しているわ。わたしたちは、敵本陣を早急に落とすことで、この包囲網を打破します」
ラムレスが確認したところでは、敵本陣は、リョハンの北東に位置するマリシュの丘に展開されているとのことであり、各地に兵を運搬した方舟も、丘の上に着地しているとのことだった。本陣の位置が判明しているのであれば、作戦も立てやすい。もっとも、本陣の護りが分厚いのも明らかになっており、本陣は、ほかとは比べ物にならないほど戦力が充実しているとのことだった。敵本陣を制圧し、主軍を撃退するには、こちらも戦力を集中しなければならない。
「そうなると、各方面の護りが手薄になりますが」
「南側はわたしたちに任せてくれ。ラムレスと我が兄弟たちが必ずやリョハンへの侵攻を食い止めてくれる」
ユフィーリアの力強いにもほどのある言葉を聞きながら、ファリアはいくつかの大きな駒をリョハンの南側に配置した。そのさらに南に敵勢力を示す赤い駒が無数に配置されている。大きな青い駒は、ドラゴンだ。ラムレスとその眷属である二千の飛竜たち。それらが南側一面の神軍に対応してくれるというのだ。これほど頼もしく、心強いことはない。
「つまり、リョハンの戦力は北側に当てるだけでいい、ということですね」
「そうなるわ」
「その中でも、北東方向に戦力を割くとなると、北西から北にかけて手薄になりますね」
「ええ……でも、こればかりは仕方がないわ」
ファリアは、地図上の戦力配置を見つめながら、告げた。主力を北東の敵本陣制圧に当てるのであれば、それ以外の方面の戦力が少なくなるのは、致し方のないことだ。敵戦力に比べると、リョハンの戦力が不足しているのはどうあがいても覆せない。
神軍は、おそらくヴァシュタリア軍を元にした軍勢だろう。ヴァシュタリア軍は、およそ二百万を越える兵数を誇った大勢力だ。そのうちのどれだけが神軍に帰属したかはわからないが、数十万以上の兵力を展開しうることは、リョハン包囲網を見てもわかる。それに比べ、リョハンの動員兵力は二千ほどなのだ。どうしたところで並び立つこともできない。
それらわずかな戦力が持ち堪えている間に本陣、主軍を叩く以外にリョハン側の勝機はなく、そのためにも主力を集中させる以外の戦術は考えられなかった。
そしてそれができるのは、ラムレス率いるドラゴンたちが助力してくれているからであり、ユフィーリアがファリアのために駆けつけてくれたからにほかならない。
ラムレスは、やはり、リョハンへの協力に対し否定的だったということがユフィーリアの発言から判明している。人間嫌いのラムレスには、リョハンの民を護ることになんの価値も見出だせないのだ。
『わたしも、リョハンの民についてはよくわからないがな』
と、ユフィーリアがいったことには驚いたが。
『わたしは、ファリアや皆を失いたくないのだ』
彼女は、そういって、照れくさそうに笑った。
ユフィーリアがなぜそこまでファリアたちのことを想ってくれているのかについては、実のところ、よくわからない。ファリアは、リョハン到着後、ユフィーリアを命の恩人として遇し、彼女の望むまま、友人として接してきただけのことだ。特別なことはなにもしていない。混乱真っ只中のリョハンにおいて、ファリアが彼女のためにしてやれることなどなにもなかったのだから、当然だ。ユフィーリアがそういったファリアとの触れ合いになにかを感じてくれたのかもしれないし、そうではないのかもしれない。彼女の真意はわからないものの、ファリアは、彼女に感謝しかなかった。彼女がいなければ、リョハンは神軍によって蹂躙されていただろう。
「わたしたち本隊が敵主軍、本陣を制圧するまで、他方面の部隊には持ち堪えてもらう以外にはないのよ」
「それならば、一刻も早く敵本陣を落とすに限るわね」
「そうだな。わたしも一緒にいくぞ、ファリア」
「ユフィ……」
「ラムレスのことなら心配はいらんぞ。ラムレスは竜の王だ。一度結んだ約束を破るような、そんな小さな存在じゃない」
「ええ……心配してはいないわ。ただ、ありがとう」
「え、あ、いや、その……感謝されるほどのことじゃないぞ」
兜の奥で頬を赤らめ、しどろもどろになったのは、どういうことなのか。
ファリアは、少しばかりきょとんとしながら、ユフィーリアの反応を見ていた。ファリアだけではない。その場にいる七大天侍のだれもが、彼女の反応を不思議がっている。
ユフィーリアは、ゆっくりと息を吐いて自分を落ち着かせると、改めてファリアを見つめてきた。
「……わたしはわたしにできることしかしていないんだからな」
それが、この上なく嬉しいことなのだ、とファリアはいおうとしたが、やめた。
戦いの後、たっぷりと礼をいおう。そのほうが彼女には喜ばれるかもしれない。なんとなくそんな気がして、ファリアはただ、微笑んだ。
ユフィーリアはやはりなぜか顔を赤らめながら、目を逸らした。
「結局、力を貸してくれるんだ?」
マリクは、守護神の座にあって、監視塔より遠く離れた場所にいる相手に聞こえるようにいった。声にしてみれば小さなものだが、音ではなく、想いは確実に届いている。念話とは違うが、似たようなものだ。やがて、彼以外だれもいない空間に、声だけが返ってくる、
《ユフィーリアがうるさいからだ》
呆れ果てたような声には、ある種の諦観が込められていた。
蒼衣の狂王ラムレス=サイファ・ドラースの声。音声ではなく、頭の中に響くそれは、まさしく念話といっていい。神や竜といった超常の存在が有する力。当然だが、マリクも同様のことができる。ただ、マリクは肉声のほうが好きなだけだ。おそらく、肉体を持った人間として存在した時間が、マリクにとってこの上なく重要なものだったからだろう。
「彼女がうるさかろうと、あなたには関係のないことだろう?」
《関係がない……?》
「あなたは、竜王だ。このイルス・ヴァレにおける至高の存在だ。人間の意見など、無視できるはずだ」
《だからなんだというのか》
ラムレスが苦笑したようだった。
《三界の竜王などと呼ばれようと、我が子に振り回されるのが親というものだ》
「狂王と呼ばれるあなたらしくはないが……」
《それもまた、狂気といえば、狂気であろう》
「なるほど……」
マリクは、ラムレスの返答に納得する気分だった。人間など取るに足らないものと考える竜の王が、人間を我が子として育て上げるなど、正気の沙汰ではない。そう考えれば、確かに狂気かもしれない。狂王の名に相応しい所業といえるだろう。もっとも、ラムレスのそれは、狂気というよりは正気の愛としか思えないのが、困りものだ。
「しかしまあ、感謝するよ、ラムレス=サイファ・ドラース。あなたとあなたの眷属のおかげで、リョハンはなんとか護れそうだ」
《うぬが戦えば、それでどうにでもなるものを》
「……そのために多くの犠牲者が出る可能性を考えれば、迂闊には動けないよ」
《そのためにリョハンが滅ぶことになっても、か?》
「……まさか」
《やはり、うぬは神よな》
ラムレスが、静かに告げてくる。
《どこぞの異界より流れ着いた漂着神。いまはうぬとともに戦おう。だが、うぬがその野心をこの世界に向けたならば、我は世界の意思としてうぬと相対しよう》
「ありえないことをいうものじゃあないよ。ぼくは、ファリアと約束したんだ。リョハンを護る、と。それ以外のために力を使うことなんて、ありえないさ」
《約束か。いまは、それを信じよう》
「ありがとう。古き神よ」
マリクが感謝を述べると、反応はなかった。
もう話すことはないというラムレスの意思が感じられて、マリクも口を閉ざした。
遥か原初よりイルス・ヴァレに存在し、幾度となく転生してきた竜王たち。
その一柱たるラムレスが力を貸してくれるというのだ。そのことに茶々入れして、機嫌を損なうのは愚かなことだ。
いまは、彼と彼の娘に感謝するだけでいいだろう。
決戦のときは近い。
ラムレスたちが協力してくれなければ、結果的に彼が出陣しなければならなくなったかもしれないのだ。
そうなれば、どうなったか。
想像するだに恐ろしい未来が待っていただろう。
神が動くとは、そういうことだ。