第千八百八十九話 包囲網(三)
大陸暦三月五日、空中都が慌ただしさを増した。
護山会議の動員令によって、護峰侍団と七大天侍によるリョハン防衛網の強化が行われるとともに山門街の住民が、山間市と空中都に分散するように退避させられた。山門街は、リョフ山の麓に抱かれるようにして存在する居住区だ。もし神軍がリョフ山に到達した場合、真っ先に戦場となるのが山門街であり、山門街の住民の安全を護るために別区画に退避させるというのは、独立戦争時もやっていたことだった。そうしなければ、山門街で度々繰り広げられた戦闘により、数多くの犠牲者が出ただろうことは、想像に難くない。
山門街は、リョハンの最終防衛線として機能し、ヴァシュタリア軍の侵攻を食い止める最後の砦の如く機能したことは、有名な話だ。
もっとも、今回は、そうなってはならない。
包囲網がリョフ山近郊に辿り着く前に敵主軍を討つのがファリアたちの立てた戦術であり、リョフ山に敵軍が到達するのは敗北条件といっても過言ではなかった。敵主軍を討つのだ。戦力の大半をリョフ山の外部に展開することにならざるをえない。敵主軍を討つためには、敵戦力を引きつける部隊も必要であり、敵主軍を撃滅しうる戦力も必要だ。包囲軍の接近を阻むため、各方面にも戦力を配置しなければならない。
リョフ山は手薄になる。
「やはり、戦力不足は否めないな」
グロリア=オウレリアが地図上に示された戦力配置を睨みながら、いった。
リョハンを中心とする周辺の地図の上に戦力を示す駒が置かれている。リョハンの駒は少なく、東西南北の各地に多くの駒が割かれているのだが、主力部隊の配置はまだ決め兼ねていた。敵主軍の所在地がわからなければ、どうしようもない。
「ここにラムレス率いるドラゴン属が加わるんですから、まあ、なんとかなると思いますよ」
「おまえは相変わらず楽観的だな」
「悲観的よりはましでしょ?」
「それもそうだが……」
「そうね。ルウファの楽観主義には心底助かっているわ」
「あ、それ、皮肉ですか」
「なんでそうなるのよ」
ファリアは肩を竦めた。
戦宮の一室に彼女たちは集まっている。戦女神ファリア=アスラリアと六名の七大天侍。七大天侍のひとりであり、ファリアがもっとも心を許すミリュウ=リヴァイアは、未だ消息不明のままだ。ルウファとシヴィルが周辺領域調査を打ち切り、帰還したのは、リョハンの緊急事態を知ったからだが、その調査中にミリュウの足取りさえ掴めなかったのは、ファリアにとって不安な出来事だった。しかし、いまはミリュウのことを心配している場合ではない。
目の前に差し迫った危機に意識を集中しなければ、ならない。
神軍によるリョハン包囲網。
第二次リョハン防衛戦、ということになるだろう。
「本当に感謝しているのよ。助かってる」
「そういっていただけると、なによりですがね」
ルウファは、なんともいえない顔で笑った。多少、疲労の隠せない顔なのは、調査から帰ってきて早々、ファリアに呼び出されたからだろう。それはシヴィルも同じだったが、彼は涼しい顔で戦力配置を見つめている。
戦力配置については、ファリアが独断で決めたわけではない。七大天侍に相談した上で決めたことであり、そこに不満を漏らすものはいなかった。不満があるとすれば、グロリアが嘆いたように戦力不足だが、それについてはルウファのいうようにラムレス率いるドラゴンがある程度は解消してくれるだろう。
ドラゴンは、武装召喚師など比べ物にならないほど強力な生物だ。彼らが味方してくれるだけで、リョハンが生き残る可能性はぐんと上がる。
「それならばいっそのこと、ラムレスたちに任せてしまえばいいのでは?」
「そんなこと、できると思う?」
ファリアは、グロリアの提案に苦笑するほかなかった。
彼女のいいたいこともわからないではない。
圧倒的な力を持つ蒼衣の狂王とその眷属ならば、神軍を蹴散らしながら、主軍を撃退することも不可能ではあるまい。実際、第一次リョハン防衛戦におけるラムレスたちの活躍は凄まじいものであり、彼らの助力があったからこそ、辛くも撃退に成功したといっても良かった。この度も、それに倣おうというのがグロリアの意見だが、もちろん、そんなことができるわけもないし、そんな考えが通るはずもない。
ラムレスは、極力、ファリアたちに協力したくはないという考えの持ち主だ。人間を毛嫌いしている彼にしてみれば、リョハンの存亡など知ったことではなく、神軍がリョハンを滅ぼそうと関係がないのだ。ラムレスの愛娘であるユフィーリアがファリアたちの身を案じてくれているからこそ、渋々協力的になってくれているに過ぎない。もしユフィーリアという存在がなければ、ラムレスはリョハンのことを気にかけてもくれなかっただろう。
そんなラムレスに甘えることなど、できるわけもない。戦闘をラムレスに一任すれば、それ見たことかとファリアたちを見限る可能性だって、皆無ではないのだ。いくらラムレスがユフィーリアに甘いとはいえ、限度というものがあるだろう。
できる限りのことは、ファリアたちでやるべきだ。
たとえラムレス率いるドラゴンに頼ることになったとしても、やれる限りのことはやるべきだった。でなければ、ラムレスどころか。ユフィーリアにさえ嫌われるかもしれない。そうなれば、リョハンの未来は閉ざされる。
そんな軍議の最中、空中都を包み込む大気が震撼したかと想うと、凄まじい咆哮がリョフ山に響き渡った。威圧するでもなく発せられた咆哮は、挨拶代わりの雄叫びであり、それを聞いた瞬間、ファリアは歓喜した。待ちに待った味方が着てくれたのだ。
「ラムレスの声ね!」
ファリアは、軍議の途中だったが、すぐさま戦宮を出ると、頭上を見上げた。
晴れ渡る青空の真っ只中に、群青の鱗に鎧われた巨竜があった。咆哮を聞いて町中に飛び出してきた空中都の住民たちは、何度となく目の当たりにしたその巨躯を仰ぎ、ファリア同様、感嘆の声を漏らしていた。
ラムレス=サイファ・ドラース。
蒼衣の狂王の名に相応しい威容は、かつてヴァシュタリア勢力圏内における恐怖の象徴だったものの、いまやリョハンの民にとってこれ以上なく頼もしい味方として広く認知されている。
それもそうだろう。
ラムレスは、“大破壊”直後にリョハンに降り立つと、ファリアたちを運び込んだのだ。それまでリョハンを攻囲していたラムレスの眷属たちは、その瞬間、まるで裏返るようにしてリョハンの味方となり、混乱真っ只中のヴァシュタリア軍を撃退している。その一事によって、ラムレスがリョハンの味方であると認識したものは少なくなく、戦女神を継承したファリアの説明がそれを後押しした。
それ以降も、ラムレスは度々リョハンを訪れており、そのことがリョハンの民にとってラムレスがリョハン第二の守護神のような印象を与えている。そういうことをファリアがユフィーリアにいうと、彼女はどことなく誇らしげに笑ったものだ。
「ファリア! 待たせたな!」
ユフィーリアの雄々しい声が響き渡ると、ラムレスの頭の上から飛び降りてくるものがあった。ラムレスは、空中都に降り立ってはいない。かなりの高度に滞空しているのだが、それでも構わず、彼女は飛び降りてきたのだ。常人ならば落下の衝撃に耐えきれず、死ぬしかない高さだ。だが、ユフィーリアにとってはなんの問題もなかった。
群青の甲冑を身に纏う竜の騎士は、ファリアの目の前に降り立つと、落下の衝撃を感じた様子さえなく、抱きついてきた。
「無事だったか!? なにもなかったか!?」
「え、ええ、無事よ、ユフィ」
ファリアは、ユフィーリアの遠慮のない抱擁に息苦しくなりながらも、そんな彼女の愛情表現が素直に嬉しかった。ユフィーリアは、ファリアにとってはミリュウに次ぐ妹のような感覚がある。
「あなたこそ、なにもなかった?」
「ああ! わたしはこのとおり元気いっぱいだ!」
ファリアを開放したユフィーリアは、そういって胸を張った。
両目がきらきらと輝いているように見えた。