第百八十八話 ケルル=クローバー
レオンガンドは、ふと、遠方から近づいてくる騎馬に気づいた。
「あれは……」
敵軍左翼の方面からの来訪者に、レオンガンドの周囲がざわつく。アルガザードの腹心に率いられた第五軍団の兵士たちが一斉に動き、陣形を組む。《獅子の牙》も同じだ。透かさずレオンガンドの盾となるべく動き、彼の周囲に布陣する。
騎馬は、敵対意思を示しておらず、むしろ投降するかのような素振りを見せていた。武器も防具も身に付けていないのが遠目にもよくわかった。ある程度近づいてくると両手を挙げて、無抵抗であることを明示してきた。
レオンガンドは、いぶかしむ兵士たちに陣を解くように命じると、騎馬兵が馬から降りるのを待った。どうやら兵士ではないらしい。というのは、相手の服装が、ザルワーン一般兵のそれとは違うからだ。軍服が単色なのが一般兵で、部隊長は二色、翼将などの軍団長は三色だという話を、レオンガンドは聞いたことがあった。馬から降り、近づいてきたのは三色の軍服を着込んだ男だ。恐らく翼将だろう。
「第七龍鱗軍翼将ケルル=クローバー。敗軍の将としての責をまっとうしに参った」
「敗軍の将の責……か。それはなんだ? 兵を纏め、撤退することではないか? あるいは、兵を纏め、敵に降るか」
レオンガンドは、男の目を見ていた。気の弱そうな顔つきとは裏腹に、目は死んでいない。敗軍の将などと思ってもいないようなまなざしだ。
撤退か、投降か。
レオンガンドが突きつけたのは、それらが部下の命を救う行為だからだ。将はただひとりで将なのではない。部下あればこその将であり、将ひとり生き延びたところでなんの意味もない。無論、有能な将の場合はその限りではないし、一人前の将を育てるのは簡単なことではない。ときには、千人の兵の命よりもひとりの将の命のほうが重いと判断することもあるのだろうが。
レオンガンドがいったのは、彼がたったひとりで、敗軍の将の責をまっとうするなどといってきたからにほかならない。部下ともども投降してくるというのなら理解もしよう。が、彼はひとりだ。どう責任を取るのか。
「わたしの部下は多くが死に、生き残ったものは既に投降するか逃亡しましたのでね……わたしには彼らにしてやれることがない」
「そうか。で、どうするのだ? ガンディアに降るか?」
「……先程から、あなたはなにものなのですかな? わたしは将軍殿と話をしにきたというのに」
ケルルが不快感を示したことにこそ、レオンガンドは驚きを禁じ得なかった。嘆息する。ザルワーンという大国で安寧を享受していたものには、彼がなにものなのかもわからないらしい。一目でわかるように銀獅子の甲冑を纏っているというのに、だ。銀獅子といえばガンディアであり、ガンディアといえば銀獅子なのだ。そんなことも知らない軍人がいてもいいのだろうか。しかもザルワーンといえば長年南進を掲げており、ログナーのつぎはガンディアこそが敵だったはずなのだ。
レオンガンドはふつふつと沸き上がってくる感情を抑えるようにして、告げた。
「大将軍、説明してやれ」
「は」
レオンガンドのおうような態度にアルガザードが畏まったのを見て、ケルルは面食らったようだった。
「レオンガンド陛下の面前である」
アルガザードは、端的に、事実だけを告げた。アルガザードの考えることだ。一々説明するのも面倒だったに違いない。レオンガンドは、アルガザードのそういうところは嫌いではなかった。昔から変わっていない。
「はい?」
「わたしがレオンガンド・レイ=ガンディアだ。大将軍よりも偉いのだぞ?」
「ま、まさか、こんな戦場のど真ん中に陛下がいらっしゃられるとは思いもよらず、とんだご無礼を!」
別段胸を張るでもなく告げると、ケルルは哀れなほどに恐縮して見せてきた。それこそ、全身が縮んだのではないかと思うほどだ。
しかし、レオンガンドは、彼の蒼白になった表情の中で、目だけが異様に光ったのを見逃さなかった。
「構わん。それよりもだ。貴様は投降するつもりなのか? ガンディアは出自を問わん。貴様が有能であれば、すぐにでも役職につくこともできよう」
レオンガンドがいったのは、本心ではない。が、彼が心に決めたなにかを取り下げ、ガンディアに降るというのなら、それもよいと想っただけのことだった。無駄に命を散らせる必要はない。
死は、戦場にのみあればいい。
「はい……」
ケルルは、平伏したきり、顔を上げなかった。よく見ると、体が小刻みに震えている。逡巡しているのかもしれない。彼がここにくるまで考えていたことと、いま思い浮かんだこととの間で、迷っているのかもしれない。なにが正しく、なにが間違っているのか、彼の中で判断がつかないのかもしれない。レオンガンドは大いに迷い、考えよ、と思った。時間がないわけではない。
彼は翼将を任命されるほどの人物だ。使い道はいくらでもあるだろう。ガンディアに降るというのなら、それなりの地位は保証してもいい。さきのゴードンにしろ、元の地位と遜色のない役職を与えられるかはわからないが、将官を一兵士の身分に落とすようなことはない。ログナー軍をガンディア軍に組み込む際にしてもそうだった。その際の人事は、ログナー軍に精通するアスタル=ラナディースに一任したことで上手くいった。各軍団長の選定では、エイン=ラジャールやドルカ=フォームに関しては紛糾し、アスタルの贔屓だのなんだのと非難の声もあったようだが、実際に任命して以降、彼らの軍団長としての評価はすこぶるよかった。アスタルに見る目があったということであり、彼女に一任したレオンガンドの判断も間違っていなかったということだろう。
レオンガンドは、人を見る目には自負がある。それだけしか取り柄がないといえばそれまでだが。だからこそ、人材選びには慎重になったし、だれでもいいというわけでもなかった。実力至上主義、というわけでもないのだ。もちろん、能力があることに越したことはないのだが、才能と実力だけですべてが上手くいくというわけでもない。
ナーレスのように、だ。
彼は実力も才能も併せ持っていたが、五年に渡る潜伏の末、露見し、拘束された。現在、生死不明。殺されたと見るのが普通だ。ザルワーンに潜入し、長年、敵対行動を取っていたのだ。ガンディアの情報を引き出すために生かしている可能性もあるにはあるのだが。
ケルル=クローバーの震えが収まった。彼は、ゆっくりと顔を上げると、レオンガンドと見据えてきた。目が、鈍く輝いている。強い意志を感じる。なにひとつ揺らいでなどいないようだ。つまり、先ほどの震えは、逡巡などではないのだ。
では、なにか。
レオンガンドには、想像もつかない。
「不躾ながら、陛下にひとつお尋ねしたいことがあります」
「なんだ? 答えられる範囲なら答えよう」
レオンガンドは、鷹揚にいった。王者としての風格があるのかどうかはわからないが、そのように振る舞おうとしている。意識的に、だ。そういうものは無意識に身につくものなのかもしれないのだが、だとすれば遥か将来のことに違いなく、いまのうちに身につけておいて損はないだろう。もっとも、ガンディア一国の王には不要な代物に違いなく、そのころならば世間の嘲笑を買ったに違いない。
だが、ザルワーンを落とせば、だれも笑わなくなる。
「有難き幸せ。では、ひとつ。陛下は、この国を、ザルワーンをどうするおつもりですか?」
「……なんだ、そんなことか」
レオンガンドは落胆を隠せなかった。失望ともいえる。彼の鈍く輝く目からは、もっと聡明な質問が飛んでくるものと期待したのだが、どうやら見当違いであったらしい。
「決まっている。滅ぼすのだ」
「なんと……」
「これは義戦だ。我が国を長年に渡って呪い続けてきた国を滅ぼすのは、当然のことだ。だが、安心したまえ。民に罪はない。罪深きは国の運営に携わったものたちだ。特に国主。ミレルバス=ライバーンの死によって、すべては水に流されよう」
レオンガンドの返答に、彼は押し黙った。わかっていた答えだったはずだ。ガンディアは、なにもいわず、ナグラシアに攻め込み、制圧した。それだけに留まらず、大軍を擁して攻め入ってきたのだ。侵略戦争なのは明白であり、民に手を出さないだけ良心的とさえいえる。
レオンガンドは軍に略奪行為の一切を禁じているが、これは、制圧した都市、街、土地は、その瞬間からガンディアの領土であるという考えが根幹にある。同国内で略奪行為に興じるものは山賊野盗であり、手討ちにしても構わない下劣な輩だ。そんなものをガンディア軍人とは、レオンガンドは認めなかった。
「義戦……義……大義……正義……そのようなもの、立場によって変わりましょう」
「わかりきったことをいう。ガンディアの義は、ザルワーンの悪。ザルワーンの義もまた、ガンディアの悪だ」
レオンガンドは、ケルルがなにをしたいのか、もはやどうでもよくなっていた。早くこの煩わしい会話を終わらせ、アルガザードたちと会議を開きたい。戦功についても話し合わなければならない。この戦いの第一の功はだれであろう。ジナーヴィを殺したルクス=ヴェインか、それとも、戦端を開き、戦局を中央軍の勝利に傾かせたミオンの騎兵隊か。そういう議論は、案外楽しいものだ。指揮官を集めて、いますぐにでも開催したいところなのだが。
「義、ゆえに、わたしは……!」
ケルルが、跳ね起きたと思ったら、レオンガンドに向かって飛びかかってきた。気弱な表情は一変して鬼のような形相になり、懐に忍ばせた手が空中に翻ると、刃物がきらめいた。距離は、必ずしも近くはない。一足飛びでは届かなかった。
レオンガンドは、動かなかった。身じろぎひとつせず、ケルルの首が胴体から離れる様を見届けた。頭と胴体が離れたのは、彼の足が地についた瞬間のことだ。剣を抜き放ちざまに彼を斬ったのは、ラクサス・ザナフ=バルガザール。ケルルの様子から、いつでも動けるように準備していたのだろう。獅子の盾たる《獅子の牙》隊長だけのことはある。
レオンガンドは、足下に崩れ落ちたケルルの胴体を見下ろしながら、静かに立ち上がった。背後に一瞬気配を感じたが、アーリアが出番を奪われて拗ねただけだろう。らしくないが、ナージュに感化されたと思えば、納得の出来る話ではある。
「彼は、ザルワーンに殉じたのだろうな。誇りかなにかはしらないが、安易な降伏を許せなかったのだろう。撤退もままならなかった。だから、一矢報いようとしたのだ」
「当初の狙いはわたしだったのでしょう。ところが、偶然、陛下が居られた」
「偶然というほどのものでもないが、まあ、そういうことだろうな」
レオンガンドはアルガザードの考えを肯定しながら、ケルルが体を震わせたのはそこにあったのかもしれないと思った。レオンガンドを殺すことができれば、たとえその直後殺される運命にあったとしても、ザルワーンの窮地を救った英雄になれるかもしれない。死後、その功績は讃えられるだろう。そういうことを考えていたのだろうか。
いや、そうではあるまい。
それほど愚かな男には思えなかった。
もっとも、レオンガンドの殺害など、愚行以外のなにものでもないのだが。
「ラクサスの手際は見事だった。さすがは大将軍の息子だな」
「いえ。まだまだです。着地してからではあまりに遅すぎる」
アルガザードは目を細めていったが、その表情にいつもの厳しさがない。その事実に気づけたのは、レオンガンドくらいのものかもしれない。それは、単純にほかのものからは、彼の表情がよく見えなかったからというのもあるが、レオンガンドが彼のことをずっと見てきたからというのもある。幼い頃から、この老将軍のことを見てきた。彼が手本であり、彼が基本だった。父の背は、さらにその先にあったのだ。シウスクラウドのようになるには、まず、アルガザードの背を越えなければならない。父が何度も言い聞かせてきたものだ。だから、アルガザードは、レオンガンドにとって昔からの目標であり、いまでも超えるべき壁として聳えていた。
「手厳しいこというわりには、顔がほころんでいるぞ」
「陛下もいうようになられましたな」
アルガザードが今度こそ相好を崩した。途端、好々爺の顔になる。ラクサスを見ると、彼は父の態度に気恥ずかしそうにしていた。このことをだしに、部下やミシェルにからかわれたくない、ということもあるのかもしれないが、もう遅いだろう。アルガザードが親馬鹿なのはいまに始まったことではないし、親馬鹿になるだけの子供たちなのだ。
ラクサスもルウファも、ガンディアのためによくやってくれている。アルガザードもだ。いずれ、三男のロナンもそこに加わることだろう。学校での成績は優秀だと聞いている。アルガザードからだ。
「わたしだって、いつまでも子供ではないさ」
レオンガンドは、そう告げると、兵士たちに命じた。
「手厚く葬ってやれ」
ケルル=クローバーの死は、決して不要な犠牲ではなかったはずだ。
彼のような死が、戦いの終わりを告げるのだ。