第千八百八十七話 包囲網(一)
「それは……真なのですか?」
ファリアは、愕然たる想いで彼の目を見た。金色に輝く神の目は、いつにも増して透明感を帯びていた。
「ぼくがあなたがたに嘘をついてなんになるというんだか。ぼくが嘘をいうのは、彼女をからかうときくらいのものだよ」
そういって守護神が一瞥したのは、ファリアの後ろに控えたニュウ=ディーだった。ニュウは突然のことで驚いたのか、間の抜けた表情をした。ニュウは七大天侍の一翼を担う一方、守護神マリクの世話係としての役割を持っていた。それはだれが命じたわけではなく、暗黙の了解的に決まったものなのだが、マリクもニュウも満更ではないということがふたりの間に漂う空気感から伝わってくることが多い。
誰に対しても歯に衣着せぬ物言いをして敵も多いマリクも、ニュウに対しては甘えた口調をすることがある。そういう場面に出くわすたび、ファリアは少しばかり痛みを覚えるのだ。マリクが人間のままでいられたのなら、きっと彼はニュウと触れ合い、様々な想いを分かち合えたはずだ。神としてのマリクは、人間であったころと異なる姿であり、存在だった。触れることもままならない精神体としてそこにあり、このリョハンの守護の要として存在している。
その守護神の鎮座する場所にファリアが呼び出されたのは、三月四日、午後のことだ。定例会議や書類仕事などといった日常業務を済ませ、昼食の後、鍛錬に励んでいるときだった。いつにも増して厳しい鍛錬は、手伝ってくれていたアスラとカートが驚嘆の声を上げるほどのものだったが、ファリアにしてみればそれでも足りなかった。もっと、もっと、自身を鍛え抜かなければならない。いじめ抜かなければ、やりきれない。
そんな風に考えながら、修行場で体を温めている最中、ニュウが守護神の使いとして訪れたのだ。ファリアはすぐさま戦宮に戻り、服を着替え、守護神の召喚に応じた。七大天侍のうち、調査に出ていないカート、アスラ、グロリアの三名を伴い、ニュウに案内される形で、だ。
ちなみに、周辺調査にはシヴィルとルウファがそれぞれの部隊を率いて出ている。リョハンの周辺環境の調査が主な任務だが、彼らにはもうひとつ重要な使命があった。
それは、現在消息不明のミリュウ=リヴァイア率いる調査部隊の捜索任務だ。
ミリュウが配下の調査部隊とともに消息を絶ったのは、十日ほど前のことだ。アスラ隊と同時期に周辺調査に乗り出したミリュウ隊だったが、予定の日数を超過しても帰ってこなかったのだ。ファリアはミリュウのことということもあって特に心配はしていなかったものの、一日、また一日と帰ってこない日数が増えると、そうもいっていられなくなった。かといって、七大天侍の捜索のために護峰侍団を動かすなどということができるわけもないため、周辺調査にかこつけてミリュウたちの足取りを追わせているのだ。
ミリュウのことだ。命に別状はないと想っているのだが、なにかに巻き込まれているのであれば、一刻も早く救援し、救出しなければならない。ミリュウ隊には、彼女の弟子であるエリナ=カローヌも参加していたし、彼女が先の調査で発見した黒い戦士も同行している。全身を召喚武装の鎧に覆われた黒い戦士は、その存在そのものが謎に包まれているが、オリアス=リヴァイアの関係者であることはわかっているし、実力も折り紙付きだ。ミリュウのいうことだけは聞くため、処遇を彼女に一任することとなり、そのままミリュウ隊に配属されている。よって、ミリュウ隊は、七大天侍の調査隊の中でももっとも戦闘能力のある部隊だといえるだろう。ファリアがミリュウたちの心配をしないで済むのは、そういう事実があるからだ。
そしてだからこそ、なんの連絡もよこさず、消息を絶ったままなのが気にかかった。
突如消息を絶ち、いなくなったマリアのように、そのままリョハンに戻ってこなくなるのではないか。そんな不安がファリアの中で日に日に大きくなっていっていた。
しかし、ファリアはいま、そういった不安を吹き飛ばすような恐るべき情報を叩きつけられ、震える想いで守護神と対峙していた。
空中都監視塔展望室――通称・守護神の座。ニュウ=ディーの指示によって神殿のように改装に改装を重ねた結果、以前の名残りはほとんどなくなってしまっている。いまや神殿といっても間違いのないくらい尊厳な雰囲気があり、守護神マリクが鎮座するに相応しい場所となっていた。そのことをマリクが喜んだかどうかは知らないが、マリクが不満をもらしたという話を聞かない以上、気に入ってはいるのかもしれない。その場合、神として崇め称えられることが嬉しいのではなく、ニュウの気遣いが嬉しいのだろうが。
不意に守護神マリクが、その淡く発光する腕を肩の高さに掲げた。人差し指を伸ばし、ファリアを指し示したかと思うと、そうではなかった。指先に光が灯ると、その輝きが次第に大きくなっていく。指先の光は、頭ほどの大きさの球体になると、その膨張を止めた。神の力だ。なにが起きても不思議ではないが、いつ見ても呆気に取られる。彼が口を開く。
「本当のことなんだよ。リョハンは現在、大規模な包囲網の中にいるというのはね。だから、あなたたちを呼んだ。また、覚悟してもらわなければならない」
「覚悟……」
「今度は、前回のようにはいかないかもしれない」
マリクの言葉に合わせて、彼が指先に作り上げた光球に変化が現れる。球体の表面の輝きが抑えられ、内側が見えるようになったのだ。そして、その球体の内側になにか模様のようなものが浮かんでいて、それがリョハンを中心とする周辺の地形であることが判明するまで時間はかからなかった。マリクが説明のために地図を魔法で再現したのだろう。
「これが、敵のおおよその戦力配置」
というと、マリクが虚空に投影した地図に赤い光点が無数に描き出された。赤い光点の集合体が、小さく描かれたリョフ山を遠巻きに取り囲んでいることがわかる。それが敵戦力だと、彼はいう。わかりやすくするために多少の誇張が入っているとはいえ、リョフ山と比べても大きなものだった。つまり、それだけの数が動員されているということになる。
「見ての通り、リョハンを大きく包囲するように多数の大部隊を配置している。その数は十万を軽く越えるようだ」
「十万……ですか」
「なるほど。それはおそろしい」
「先の戦いとは比べ物になりませんね」
グロリア、アスラがそれぞれに感想を述べる。ふたりとも、先の戦いでは七大天侍として不足のない活躍を見せているが、それでも、さすがに十万もの大群に包囲されるとなると話は違うだろう。先の戦いは、敵軍が一定方向から攻め込んできたため、対処も容易だった。こちらの戦力もその一方向に集中させればそれでよかった。だが、包囲となれば、そうはいかない。
戦力を分散させなければならなくなる。
「敵は、もちろん、前回と同じ神軍だ。神軍が、このリョハンを今度こそ制圧するべく、本格的な手を打ってきた、と見るべきなんだろうね」
神軍。
方舟によって運ばれてきた神の軍勢。それがまたしても、攻め込んでくるというのか。なんのために。なにが目的なのか。ファリアにはまるで想像もつかない。ラムレスによれば、世界各地で戦いを起こしているという話なのだから、理由などなく、侵略行為そのものが目的なのかもしれない。そしてたまたま、つぎの侵略先にリョハンが選ばれただけという話かもしれなかった。
だからといって、はいそうですかと受け入れられる話ではないし、認められるわけもない。
「だから、方舟を用いながら直接攻め込んでは来なかったんだ。前回と同じ轍を踏まないように、用意周到に準備を整えていたんだろうね。そのことにぼくが気づかなかったのは、仕方のないことだ。守護結界内、あるいは守護結界近辺の情報ならば把握できても、結界より遥か彼方に展開されれば感知しようがないんだ。済まないけれど」
「マリク様が謝られることではありませんよ」
「うん。でも、まあ、敵が感知範囲内に入ってから気づくだなんていう最悪の状況にならなかっただけ、ましだろうね。まったく、ラムレスには感謝のしようもない」
「ラムレス様……ですか?」
「そう。ラムレスから警告があったんだよ。だから、感知範囲外の状況を知ることができた」
マリクは、あっさりと情報源を明らかにすると、ファリアたち
「今回ばかりは、ラムレスが最初から協力してくれるといってくれている。眷属とともにね」
「本当ですか!?」
「それは心強い話です」
「本当だよ。そうでもしなければ神軍に対抗できないだろう、というのがラムレスの見立てでね、ユフィーリアがラムレスに助力を進言してくれた。ユフィーリアには感謝しておくことだ。彼女がいなければ、ラムレスがぼくに警告してくれることもなかっただろうからね」
「はい!」
ファリアは強くうなずくと、ユフィーリアの厚情に心の中で感謝した。ユフィーリアは、元々、ファリアの知人でもなんでもない。クオン率いる《白き盾》の団員として、団長命令によってファリアたちを助けてくれたことが、彼女と本格的に知り合うきっかけとなったのだ。リョハンに辿り着いてからしばらく、ユフィーリアはリョハンに滞在し、その間、ファリアは彼女と親交を温めた。以来、ユフィーリアは度々リョハンを訪れ、ファリアと親しくしてくれている。
その彼女の進言があればこそ、ラムレスが以前も今回も協力してくれていることに疑いはなかった。ラムレスは人間嫌いのドラゴンだが、彼が娘として溺愛しているらしいユフィーリアにだけは、甘かった。
「とはいえ、ラムレスがそう判断したということは、こちらも相応の覚悟が必要だということだ。それは、あなたにもわかるだろう。戦女神」
「はい」
「ぼくは、戦力にはなりえない。こうして、リョハンを護るのが精一杯だ。神々の毒気から。神の力そのものから」
「いいえ、マリク様。それで十分です」
ファリアは、マリクの目を見つめながら、頭を振った。
マリクの守護があればこそ、リョハンは“大破壊”の影響を最小限に抑えることができ、こうして日々を謳歌することができているのだ。それがどれほど素晴らしいことなのか、ユフィーリアから世界各地の現状を聞いて知っているファリアが理解できないはずもなかった。
“大破壊”は、その名の通り、世界をばらばらにしてしまったのだ。
そんな世界にあって、リョハンがひとつに纏まっていられるのは、第一に守護神マリクのおかげ以外のなにものでもなかった。