第千八百八十六話 揺れる運命
三月になった。
大陸暦五百六年三月四日。
ワーグラーン大陸が失われて二年以上が経過してもなお、大陸暦という暦が使われているのには、大きな理由があるわけではない。かといって、別の暦を用いる理由もないため、だれもそのことを議題に取り上げることもなかった。新たな暦を考えるよりも重要な案件が山ほどあり、そちらに頭脳や労力を割くほうが余程大事だということをだれもが知っている。よって、大陸暦はしばらくそのまま使われることになるだろう。
“大破壊”の影響が消え去り、世界が落ち着きを取り戻してからようやく、新たな暦に関する議論がわき始めるに違いない。
そんな日が来るかどうかはまだだれもわからないが、信じる以外の道はなかった。いつか、“大破壊”の爪痕が消えてなくなり、漠然とした不安も拭い去れる日がくると想うほかない。でなければ、やりきれないのだ。
世界は、呪われている。
この世に満ちた神威は、毒となって世界を蝕んでいる。大地を蝕み、森を蝕み、この世界に息づく生命を蝕んでいる。結晶化。白化。いずれも同じことだ。神の毒気に蝕まれたものの成れの果て。やがて生物としての本来の有り様を失い、ただ壊死していくか、変容していくかの違いにすぎない。そのどちらもがこの世を蝕む毒であり、この世界が緩慢たる死の道を歩んでいることの証左なのだと、神はいった。
救いはないのか、という質問に対し、そんなものがあれば実践して見せたといい切った彼の言葉は、戦女神たる彼女の心にいまも鋭利な刃として存在している。
「春……か」
ファリアは、まだまだ寒気がするほどの朝の冷気の中を歩きながら、ひとりつぶやいた。黎明。まだ太陽が東の地平から昇り始めたところであり、瑠璃色の空があまりにも美しく、透き通って見えていた。
リョハンの空中都は、ヴァシュタリアで一二を争う峻険であるリョフ山の山頂付近に築かれた都市だ。空にもっとも近い都市であり、まるで空中に在るかのようなところから、空中都市と呼ばれるようになったのだ。つまり、空中都市リョハンという呼称は、空中都だけを示すものであり、山間市や山門街は除外されているということになる。もっとも、だからといってリョハンの本質が変わることはない。リョハンとは、空中都、山間市、山門街をひとつの共同体とした名称であり、存在なのだ。空中都市が空中都だけを名指しするものだとして、なにがかわるはずもないということだ。
そんなリョハンの代名詞たる空中都は、年中、気温が一定以上あがらない場所だった。冬は無論のこと、春であろうと夏であろうと、真夏の烈日の下であろうと、汗だくになって干からびるほどの熱気に包まれることがない。夏でも過ごしやすい気候が続くのがこの空中都の特筆するべき点であり、やや気温の低くなりがちな山間市、夏になれば正常に気温の上がる山門街から多くの住人が、涼を取るために訪れることがあった。
そのため、冬と春の境ともいうべき三月初頭は、まだまだ冬の名残りが強くあり、朝も夜も冷え込んでいる事が多かった。春になったからといって防寒着を手放せるわけもない。だれもが寒さを凌ぐべく、厚着をして、防寒着も常備していた。
ファリアもそうだ。春の訪れを実感することもままならない早朝の寒さの中をただひとり、歩いている。
二月下旬、護山会議の定例会議の場において、麓特区における難民問題が議題として取り沙汰された。あれから半月ほどが経過したものの、状況というものは然程変わっていない。以前、議長モルドア=フェイブリルを始めとする議員たち反戦女神派は、難民の排除を暗に訴えてきているし、護峰侍団長ヴィステンダール=ハウクムルも、このままでは麓特区の警備に当たる護峰侍団の団員から負傷者が続出する可能性もあると難色を示していた。
それに対し、七大天侍が麓特区の警備に当たると言い出すと、七大天侍の役割は戦女神とともにリョハンの守護に当たることであり、警備のために人員を割くことではないと言い放つのが、ヴィステンダールという男だ。護峰侍団と七大天侍の仲というのは、決していいものではない。
理由のひとつには、七大天侍の周辺領域調査部隊に護峰侍団の団員たちが引き抜かれているということがある。そして、七大天侍に抜擢された護峰侍団の団員たちが七大天侍の部下になれたことを光栄に想い、喜んでいるというのも関係しているのかもしれない。もちろん、ヴィステンダールが護峰侍団と七大天侍の立場の違いが理解していないわけではない。ただ、組織の長として、感情的に許せないところがあるのだろう。
もうひとつの理由として、七大天侍が四大天侍を元にしながらも大半がリョハンの人間ではない部外者によって構成されているというのも、大きく影響している。シヴィル=ソードウィン、ニュウ=ディー、カート=タリスマの三名は、リョハンに生まれ育ち、リョハンのため、戦女神のために勤めを果たしてきている。故にヴィステンダールも彼らには敬意を払い、下風に立っている。しかし、“大破壊”後、四大天侍が七大天侍として再編された際に加入した四名は、リョハンとは無縁の人間だった。グロリアはリョハン出身ではあったが、彼女のリョハンへの忠誠心の少なさは半生を振り返れば明らかだ。ミリュウたちともども即座に信用することはできないと断ずるのも無理のない話だった。
そんな七大天侍を重用するファリアに対し、ヴィステンダールや反戦女神派の議員たちが懐疑的になるのもわからないことではなかったし、致し方のないことだとも彼女は考えていた。たとえば彼女の立場が彼らと同じならば、彼らと同じように考えたかもしれないし、行動を起こしたかもしれない。だから、ファリアは彼らのことを責めようとは思わないし、好きにさせるしかないとも考えている。
ファリア自身、戦女神として力不足であることは否めない。
故に難民問題は、未だ解決の糸口を見出せていないのだ。
先ごろ、麓特区を大混乱に陥れた暴動の首謀者は護峰侍団の活躍によって捕縛され、息のかかったものたちもつぎつぎと捕らえられた。しかし、それで難民による暴動や反政府的な行動がなくなったかといえば、そうではない。むしろ、激化したといってもよかった。おそらく、首謀者だった元巡礼教師を拘束していることが、元ヴァシュタラ信徒たちの感情を刺激することとなったのだろう――というのが、リョハン側の見方だった。
事態を重く見た護峰侍団は、麓特区に主戦力の投入を決定。難民居住区は、護峰侍団による徹底的な管理下に置かれることとなり、難民たちはますますリョハン政府への不満を溜めていくこととなった。だが、その護峰侍団の決定に対し、ファリアが口を挟むことはできなかった。
ファリアが、麓特区の存続および難民保護の継続を決定したのだ。その結果、難民問題の悪化や暴動の続発による被害拡大の可能性については、モルドアら反ファリア派議員やヴィステンダール、さらには祖父アレクセイにまで指摘されており、対応策は麓特区の警備を担当する護峰侍団に一任することになっていた。つまり、護峰侍団の強行なやり方も認めなければならない、ということだ。
それが、彼らがファリアの推進する難民政策を支持する条件だった。でなければ、いかに戦女神の決定であろうとも従えない、というのが護峰侍団の決定であり、議長モルドアの意見だった。ファリアは、戦女神の強権を発動することなく、折れた。ファリアとて、護峰侍団に犠牲者が出ることを望んでいるわけではない。ただ、モルドアたちの意見を聞き入れた挙句、何万人もの難民を見捨てることなでおできないだけなのだ。
それをすれば、自分は戦女神として胸を張って立っていられなくなる。
いや、人間ファリア・ベルファリア=アスラリアとしての自尊心もなにもかも失ってしまうのではないか。
だからといって、そのためにリョハン市民や護峰侍団、七大天侍の皆に迷惑をかけるのも間違っているということも、わかりきっている。
リョハンのためを想うのであれば、難民など受け入れる必要はない。それもまた、道理だ。リョハンの民のことだけを護るのであれば、リョハンという都市国家の存続だけを願うのであれば、維持に専念すればいいだけのことだ。三万人に及ぶ難民を受け入れた挙句、混乱をもたらすなど、リョハンに百害あって一利もないのだ。
アレクセイのいったように、難民のことを彼らに一任し、目を閉じ、耳を塞げば、それでリョハンは正常化するのだろう。
が。
(そんなこと、できるわけがないじゃない)
黎明の静寂に包まれた空中都の町中を散歩しながら、ファリアは、ゆっくりと息を吐いた。
問題は、なにひとつ解決していない。
解決策などあろうはずもないのだから、仕方のないことではある。
現在のリョハンがこの難民問題を解決するのは至難の技であることは、ファリアにもわかっている。わかった上で受け入れ、向き合ってきたのだ。
そうしなければ、自分が自分でいられなくなる。
自分でいられない人間に魅力などあるだろうか。
最愛のあのひとに合わせる顔などあるだろうか。
あろうはずもない。
(結局……自分のためじゃない)
ファリアは、空中都の広々とした町並みを覆う朝靄の中、いつものように辿り着いた結論に吐き気がする想いだった。
三月四日。
運命の日は、刻一刻と近づいてきている。
そのことを彼女はまだ、知らない。