第千八百七十八話 上陸
セツナたちを乗せた魔動船メリッサ・ノア号が未知の大陸に接岸したのは、海の女神マウアウの手を離れ、しばらくしてからのことだった。魔動炉を含めた船体の修復こそ不完全だったものの、マウアウが岸辺まで牽引してくれたこともあり、特に問題もなく接岸することができている。
マウアウは、遠く離れた海上にその美貌を晒し、メリッサ・ノア号が接岸に成功するのを見守ってくれていた。接岸に成功し、一組、また一組と乗船員たちが上陸していくと、安心したように海中へと消えた。セツナは、黒き矛を召喚することでマウアウを見届け、心の中で感謝した。マウアウの助力がなければ、セツナたちはここまで順調にこの大陸にたどり着くことはできなかっただろう。
「セツナ殿、女神様の協力があればこそ、こうして無事にたどり着けましたが、あとは、この大陸にリョハンがあることを願うのみですな」
上陸後のリグフォードの言葉にセツナは深々とうなずいた。リョハンにたどり着かなければ、リグフォードら帝国との約束も果たせない。リグフォードの目的は、セツナが目的を果たした後、セツナを西帝国本土に連れ帰ることであり、セツナもそれに了承したからこそ、魔動船を利用させてもらうことができたのだ。それもセツナがリョハンにいるひとたちに逢いたいという一心からの願望であり、その願望を叶えてくれたニーナたち西ザイオン帝国には感謝しかない。それが帝国の要望に応じるための前提条件だったとはいえ、だ。
レム、リグフォードらとともに甲板から岸辺に差し渡された橋を渡り、上陸を果たすと、先に上陸していた船員たちによって野営地の建設が始まっていた。長い長い航海と上陸を繰り返してきた帝国海軍だけあって、さすがに手慣れた様子であり、セツナたちが手伝う必要もないという話だった。
メリッサ・ノアの乗船員が全員上陸すると、リグフォードらによってふたつの班に分けられた。ひとつは無論、この大陸の調査を行う探索班であり、それにはセツナとレムが参加することが決まっている。
もうひとつの班は、野営地に止まり、魔動船を現地の人間や皇魔、あるいは神人などの手から守る防衛班だ。これにはリグフォードが指揮官として加わることが決まった。
「いいんですか?」
「なんのことでしょう?」
「直接俺を監視していなくて。戻ってこないかもしれませんよ」
セツナが冗談をいうと、リグフォードは笑いもせず、目をまっすぐに見つめてきた。
「セツナ殿のこと。監視していようといまいと、あなたがその気になれば我々にはどうすることもできませんよ。陛下ですら、あなたに敵わなかった」
そういわれれば、そのとおりだ。どれだけの人員をセツナの監視に回そうと、リグフォード配下の武装召喚師ではセツナを抑えることさえできないだろう。帝国最盛期、二万人を誇った武装召喚師の全員を投入すれば話は別だろうが。
「あなたが我々との契約を一方的に打ち切ったところで、我々にはあなたを責めることはできても、それ以上のことはできません。我々は、あなたを信じるしかない。セツナ=カミヤ殿。我が主君ニーウェハイン皇帝陛下と同じ魂を持つあなたを」
「……信じてくださって結構ですよ。俺は、約束を破るような人間にはなりたくありませんから」
「ええ、信じておりますとも」
リグフォードは、にこやかに笑った。
「我々はここに残り、近隣の都市から情報を集めつつ、メリッサ・ノアの修復作業を続けます。セツナ殿、レム殿、どうかご無事で」
「リグフォード将軍、みなさんこそ、ご無事で」
「くれぐれも体調にお気をつけくださいまし」
セツナとレムを含めた大陸探索班は、野営地に残る防衛班と互いの健闘と無事を願い合うと、野営地を離れることとなった。
上陸翌日のことであり、周囲の情報収集さえまともに開始してもいなかったものの、セツナたちには確かな手応えがあった。
上陸早々、セツナはカオスブリンガーとメイルオブドーターを召喚し、野営地の遥か上空からこの大地を見渡している。それにより、この大地が限りなく広大であることがわかったのだ。“大破壊”の影響によるものであろう大地の亀裂や地中から隆起した白い塊、結晶化と呼ばれる現象に襲われている森などが散見され、野営地の北東に大きな都市があることがわかっている。セツナが集めた情報は、すぐさま帝国軍にも提供され、それを元に探索班、防衛班の動きが決まった。
探索班はいわずもがなだが、防衛班も野営地に籠もっているだけではない。近隣に都市があれば、そこを拠点に情報収集や物資の入手などに奔走しなければならない。長い船旅で、メリッサ・ノアの食料もかなり減っているとのことだった。このままでは、帝国本土までの航海もままならないのは明白だった。食料以外にも、つぎの航海のときにもしものことがあった場合、船を修復するための資材が必要だった。現在船に積み込んでいる修復用の資材は、この度の修復でほとんど使い切ってしまうからだ。神軍の船に撃たれる、などということが立て続けに起こるとは思い難いものの、別のなにかに襲われることはありえた。マウアウのように海に棲む神がいるかもしれないし、海に棲む大型皇魔や白化症を患った皇魔との戦闘で損傷するかもしれない。そういったとき、資材がなければどうしようもなくなる。
もっとも、船のことはリグフォードらに任せればよく、セツナたち探索班は、野営地を離れるとすぐさま北東の都市に向かうことになった。まずは、情報収集をしなければならない。この大陸のどこかに目標のリョハンが存在するかどうかを知ることができれば、それだけでセツナたちの目的の達成は近づくのだ。宛てもなく彷徨うなど愚の骨頂だろう。
探索班には、リグフォード直属の帝国海軍将校ではなく、帝国陸軍所属の三十名が参加している。セツナとしては、レムとふたりでも十分だと想ったし、そのほうが動きやすかったのだが、西ザイオン帝国との関係を考えれば、彼らと行動をともにするほかない。それに戦力としては役に立たずとも、情報収集や休憩地点の設営には、彼らの存在は大いに役立つことだろう。リグフォードも、戦闘はセツナとレムに任せ、自分たちにできることだけをするようにと彼らに厳命していた。
その結果だろう。探索班に参加した帝国陸軍の兵士たちは、リグフォードの命令に素直に聞き従い、戦闘に関してはセツナとレムを頼りにしています、などといい切り、朗らかに笑った。マウアウとの戦いを目の当たりにした兵士たちには、セツナを頼りがいのある武装召喚師として認識してくれているようだった。
探索班の班長は帝国陸軍の少尉で名をジェイド=メッサといった。しかし、探索班を実質的に掌握しているのはセツナであり、ジェイドはセツナの意に従うと、さながらセツナを主君のように敬って見せた。セツナがニーウェと似ていることが彼の言動に影響を与えているらしい。西帝国軍の将兵は、だれもがニーウェを皇帝として尊崇して止まないという話は、野営地や船旅の間、よく耳にしていた。
“大破壊”による混乱を収めるべく率先して立ち上がり、だれよりも早く秩序の再構築を実現してみせたニーウェには、皇帝の器があり、シウェルハインが皇位継承者に名指ししただけのことはあるとだれもが賞賛したというのだ。
そんな探索班が野営地北西の都市に辿り着いたのは、翌日の昼間のことだった。セツナが超上空から見渡した際には野営地のほど近くにあるように見えたのだが、それは思い違いだったようだ。徒歩で一日半もかかるとは想像すらしておらず、セツナたち探索班は、軽く最初の躓きを経験した。もっとも、その程度のことで不満をもらすようなものはひとりもいなかったが。
セツナとレムは当然のことだが、帝国陸軍の兵士たちは、長い長い船旅を経験しているのだ。一日半程度の行程など、たいした問題ではあるまい。ただ、長い間船に揺られ続けたせいか、地上にありながらも地面が揺れているような錯覚に苛まれるものが少なくなく、セツナもレムも、その揺れるような感覚にしばらくの間苦しめられなければならなかった。
船は、波に揺れるものだ。
魔動船という超技術で作られた船もそれは同じであり、セツナは、自分たち以上の長旅で船の揺れに慣れたであろう帝国兵たちもまた同じ後遺症に苛まれていることを知り、どうしようもないことなのだろうか、と思わずにはいられなかった。思い返すと、リグフォードら海軍将校、海軍士官はなんともなさそうな様子を見せていたことから、やはり、普段から船に乗っている人間と、船とは無縁の人間の違いなのだろうと思い至る。
都市までの道中、特に問題となるようなことといえば、それくらいのものだった。皇魔に遭遇することもなければ、白化症を患った動物に襲われることもない。“大破壊”のせいで荒れ果て、変わり果てた大地をただ歩いていくのはなんとも辛気臭く、暗い雰囲気になりがちではあったものの、特別、なにか変わったことはなかった。
都市は、大陸小国家群各地で見られたように外周を厚い城壁が囲っているのだが、やはり“大破壊”の影響を諸に受けていることが遠目からもわかった。
都市を囲う城壁の一部が半壊したまま、放置されているのだ。ただ放置しているのではない。ほかの破損部分の修復を優先した結果、そこだけがまだ修復し終えていないという様子だった。“大破壊”から二年以上を経過してもなお修復しきれていないのは、様々な問題があるからだろう。
その城壁の隙間から都市内の様子を伺うに、都市内も似たような有様であるらしかった。“大破壊”によって倒壊した建物群と、倒壊を免れた建物群があり、無数の天幕が住宅代わりに立っているのだ。ベノアやサンストレアでも見た光景だった。
“大破壊”の爪痕は、未だこの世界を生きるひとびとを苦しめている。
「ここはどこらへんなのでございましょうね?」
「さあな。俺には見覚えはないし……」
「我々も存じ上げません。まあ、それもそのはずですね。ここがヴァシュタリア領内、あるいは近郊だとすれば、帝国人である我々が知る由もない」
と、いってきたのは、ジェイド=メッサだ。短く刈り上げた黒髪と碧眼の若い男だが、年齢的にはセツナよりもずっと上で、三十歳手前だという話だった。陸軍に所属しているだけあり、鍛え上げられた肉体はセツナの比ではない。セツナも体を苛め抜いているものの、彼の場合は、筋肉を増量させるだけではなく、不要な筋肉を削ぎ落とすことも念頭にいれてのことだった。ただ爆発的な筋肉を手に入れるよりも、黒き矛を使いこなせる程度の筋肉量を維持することのほうが大事なのだ。
「ま、中に入って、ひとに聞くのが一番だろうさ」
「ですね」
それから大回りで正門前へ向かうと、重武装の兵隊が待ち構えていた。
レムが“死神”を用いて事前に察知した通りだ。おそらく、接岸したメリッサ・ノアの存在を知ったこの都市の人間が、防衛のために戦力を集めた結果だろう。ただの兵隊、軍組織ではなさそうなのは、だれもかれも異なる形状の武器防具を身に纏っていたからだ。兵隊ならば、統一された武器防具を身につけるものだ。ただ、それら門前の戦士たちからは並々ならぬ殺気と闘志を感じ取れることから、この都市を護ることに命をかけているという想いは伝わってくる。だれも真剣なまなざしでセツナたちを睨んでいた。セツナたちは、いつ敵対存在と遭遇してもいいように武装していたのだ。一目見た瞬間、怪しい連中であると警戒されても不思議ではない。
セツナたちがそれを承知で門に近づくと、門前を固める戦士の中でもっとも大仰な甲冑を身に着けた男が、口を開いた。
「止まれ。それ以上近づくのであれば、問答無用に攻撃する」
「おいおい、街に近づいちゃあいけないってのか?」
「こんな時代だ。寄る辺を求めて我らが都を訪れるものもいるだろう。だが、ここより南にひとの住む場所などはないのだ。そして貴様らが、件の船から上陸した連中だということは確認済みだ」
大仰な甲冑の男に告げられて、セツナはレムとジェイドの顔を見た。セツナたちが上陸したのは昨日のことであり、この都市の警戒網に引っかかっているのは想定済みのことだった。ここは、内陸地だったはずの土地であり、海を渡る手段など持ち合わせているはずもない。そんな場所に突如として巨大な船がやってきたかと思うと、上陸し、少人数ながらも人員を差し向けてきたとあれば、警戒を強めるのも無理のない話だ。
無論、セツナたちは、戦士たちの意志に逆らうつもりはなく、その場で足を止めた。セツナたちの目的は、情報収集であって、騒動を起こすことにはない。
「わかったよ。あんたらに従う。で、なにをどうすれば、俺達があんたらに危害を加える気がないと信じてくれる?」
「帝国軍旗を掲げる貴様らが、どういった目的で海を渡ってきたのか、話してもらおう。まずは、それからだ」
鬼を模した異形の兜の下、戦士の眼差しは鋭さを増す一方だった。




