第千八百七十七話 海の神と(二)
《そなたらの目的地は、あれで良いのだな?》
マウアウが指し示したのは、水平線に浮かび上がった大地のことだ。春めく日差しを浴びて輝く海の彼方、確かに陸地が見え始めていた。数十日に及ぶ長い長い航海の末、やっとの思いで辿り着けそうで、セツナはなんとも感慨深くなった。
「ああ。そうであることを願うよ」
《リョハンだったか》
マウアウがセツナの目的地の名を知っているのは、女神がセツナの記憶を覗き見たからにほかならないし、この船旅の最中、何度か話したからでもある。記憶を覗き見たからといって、すべてを完璧に把握できたわけではないのだ。
《我も、あの大地にそなたの目的地があることを願おう》
「ありがとう、マウアウ。いや、マウアウ様」
セツナが改めて女神を尊ぶと、彼女は、なにがおかしいのか大いに笑った。
《様か。そなたには似合わぬものいいよな》
「そうかな?」
「そうでございます。御主人様ったら、マウアウ様に対してもいつもどおりなのですもの。わたくし、ひやひやの連続でしたのですよ」
「そうだったのか?」
「はい」
「うーむ……」
レムの間髪を入れぬ即答ぶりに、セツナは唸るほかない。レムは、セツナに対して容赦のないところがあった。
《そなたに悪気がなかったのはわかっている。それに我はそなたに崇め奉られるつもりもない》
「ん……?」
《そなたとこうして対等に話し合えたのは、良い経験だった。人間のこと、少しはわかった気がするのでな》
「マウアウ様……」
セツナは、女神の美貌を見つめながら、その透き通った笑顔に心奪われかけた。マウアウは、気さくなだけではなく、慈悲深い女神でもあった。また、人間に対して優しい神様でもあり、常に乗船者の体調や様子を気遣ってくれていた。神とはかくあるべきなのではないか、と思うのだが、彼女のような神のほうが稀だといわれても納得できてしまう。それほどまでにマウアウの女神としての有り様は、人間に対して優しすぎるものだ。
《我は、海の神。陸地に上がろうと思えば上がれぬこともないが、やはり海の中が一番落ち着く。それに人間たちに迷惑をかけたくもない。ついてはいけぬ。それが少し残念だ》
マウアウの予期せぬ言葉に、セツナは素直に驚いた。マウアウが陸上でも平気ならば、普通についてくるつもりでいたらしいということは、驚愕に値する。
《ふふ。そなたのこと、気に入ったのにな》
「俺を?」
《そうだ。そなたほど物分りのいい人間は、そうはいない》
「俺が物分りがいいって? 冗談」
《冗談ではない。我が方から手を出したにも関わらず、そなたは我との交渉に望んだ。我は、全力でそなたを滅ぼそうとしたのに、だ。我はそなたの心意気を知り、覚悟を知った。そなたのことをな。そなたともうしばらく戯れたかったのは、本心だよ》
マウアウの細くしなやかな指先がセツナの鼻筋を撫でた。マウアウという女神は、そうやってセツナの顔を触ることが多かった。最初こそレムが嫉妬を爆発させたものだが、いつごろからか諦めるようになっていた。女神になにをいったところで通じようがないからだ。女神には、人間の価値観がわからない。レムがなにを怒っているのか、まったく理解できない様子だったのだ。レムがどれだけセツナとの直接的な触れ合いを指摘したところで、それのなにが問題なのか、想像もできないという様子だった。いまも理解してはいまい。
レムとしては、相手が神様とはいえ、セツナが美女に翻弄されているのが気に食わないのだろうが。
《そなたとともにあれば、もう少し愉快な出来事に巡り会えたかもしれぬと想うと、無念でな》
「愉快……ねえ」
セツナは、マウアウの一言を反芻するようにつぶやいた。様々な出来事が脳裏をよぎる。いいことばかりではない。悪いこともある。けれども、それは平坦な人生ではないということの証明であり、つまりは女神のいうとおりだということだ。
「まあ確かに退屈はしないかもしれないな」
「そうでございますね。御主人様と一緒ならば、退屈とは無縁の人生を送れること請け合いでございます。わたくしが保証いたしますわ」
レムが満面の笑みで告げると、マウアウが少しばかり羨ましそうな表情をした。
《レムよ。我がそなたの代わりに――》
「駄目です」
《む……》
「いかに女神様といえど、下僕壱号の座は、譲れませぬ」
《なれば、我が下僕四号にでもなろうか》
「神様が俺の下僕になってどうするんですか」
《むう……妙案だと想うたのだが》
マウアウが残念そうに肩を落とすのを見て、セツナは、なんともいえない顔になった。なにが妙案なのだろうか。神様を下僕にする人間などそういるものでもないだろうし、そんな機会など今後あろうはずもないだろうが、だからといってそんな案を受け入れようとは思えなかった。なにより、マウアウの冗談なのは明白だ。女神は、面白おかしそうに笑っていた。
だから、というわけではないのだが、セツナは、マウアウに向かって宣言した。
「また、会いに来ますよ」
《ふむ……》
「状況が落ち着いて、時間ができたら、の話になりますけど……約束します」
《約束。約束か》
マウアウがこちらを見ながらなにやら眩しそうに目を細めた。金色に輝く瞳は、受光器としての目の役割を果たしてなどいないのだろう。神は、人間の常識を超越した存在なのだ。生物とは根本的に異なる作りをしているに違いない。
《そなたは、約束を護る人間よな? 》
「……そうありたいと想っています」
即座に肯定できるほどの自信は、ない。
これまで、いくつかの約束を破ってきたという事実がある。約束を果たせず、地獄に落ち延びたのがその最たるものだ。一度破った約束を修復して取り繕うことなどできるわけもない。約束を破ったという事実は残り続ける。その痛みと苦しみを抱えたまま、走り続けなければならないのだ。それも覚悟の上で地獄に堕ちた。そして強くなって舞い戻ってきたのは、もう二度と、そういった失敗を繰り返さないためだ。
もう二度と、交わした約束を破るようなことはしない、と。
女神が微笑む。美しい微笑。つい見惚れてしまう。レムがなにもしてこないのは、彼女もまた、女神に魅入られてしまったからだろう。マウアウの美貌は、男女関係なく魅了するのだ。
《よいよい。その心意気なればこそ、我もそなたを信じることにしたのだ。うむ……そなたとの再会を楽しみに待とう》
マウアウの満足げな言葉にセツナは安堵した。女神が心の底ではなにを考えているのかなど、彼にはわからない。わかるのは、表面的なことだけであり、ちょっとしたことで機嫌を損ね、敵対する可能性だってないではないのだ。言動に細心の注意を払わなければならない。上陸を目前に控え、船を沈没させられては目も当てられない。
マウアウがそのような暴力的な神ではないことはこれまでの言動からも明らかであり、セツナも女神のことを信頼しきってはいたが、それでも、なにがどうなるかわからないのだから。
穏やかな風がセツナの頬を撫で、マウアウの青く艶やかな髪を揺らした。
《だが、心せよ、セツナ》
マウアウが突如として表情を改めたのは、セツナに忠告するためだったようだ。
《そなたが歩もうとする道は、決して平坦なものではないぞ。険しく、困難を極めるものぞ。数多くの試練がそなたを待っておるやもしれぬ》
「ご忠告、痛み入ります。マウアウ様。でもそれは、あのときからわかっていたことですので」
セツナは、マウアウの目を見つめながら、いった。あのとき。そう、クオンに敗北し、アズマリアによって地獄に誘われたあのときから、わかっていたことだ。地獄での修練を終え、現世へと帰還することになったときから、覚悟していたことだ。どのような未来、どのような運命が待ち受けていようと、立ち止まりはしない、と。
ただ、突き進むのみなのだ。
《……そなたらの旅が無事に終わり、いずれ我との約束を果たすそのときを心待ちにしておるぞ》
「はい。マウアウ様も、お元気で」
《ふふ……我は滅びぬよ。そなたが我を滅ぼさぬ限りな》
冗談めかしく笑う女神の懐の深さ、器の大きさを感じながら、セツナは、マウアウとの邂逅に感謝する想いだった。
皇神と呼ばれた神々の中にも、マウアウのような性格の持ち主がいることがわかったのは、大きな収穫だった。
すべての神が敵ではない。
よくよく考えれば当たり前のことかもしれなかったが、その事実を確認できたことはセツナの旅路に大きな影響を与えるだろう。
黒き矛――魔王の杖の持ち主たるセツナの前には、必ずや神々が立ちはだかるだろうことは、地獄にて予見されたことだったのだ。
地に満ちた神々は、魔王の杖の存在を許さない。
そんな警告を受けながら、セツナは現世に舞い戻った。
目的を果たすためには、神々との死闘を乗り越えなければならないという覚悟があったのだが、マウアウとの遭遇からの出来事は、すべての神々と敵対する運命を覆し、分かり合える神もいるという事実を示すものだった。
故に彼はマウアウとの別れを惜しみつつも、目的の大地への上陸を心待ちにした。
水平の果てに見えた大地は、いまや視界の彼方、いや、地平の彼方まで続いている。ベノア島などと比べるべくもなく広大な大地が横たわっているのだ。
その先にリョハンがあることを願い、信じた。
リョハンには、ファリアたちがいる。
その事実がセツナの心を逸らせていた。