第千八百七十六話 海の神と(一)
どこまでも続く水平線に日が差して、揺らめく波が幾重にも光り輝く。
琥珀の海域を抜けて、どれほどの日数が経過したのか。
魔動船メリッサ・ノアの航海は、決して順調とはいえないものの、あれから大きな問題もなく続いていた。海に棲む皇魔に襲われることもなければ、マウアウ以外の神に遭遇するようなこともない。あれ以来、神軍の飛行船から攻撃を受けるようなこともなかった。
メリッサ・ノアは、神軍の飛行船からの砲撃を受け、動力機関に深刻な被害が出てしまっていた。幸い、メリッサ・ノアには魔動炉に精通した魔動技術者が乗り込んおり、材料も積んであったため、時間さえかければ完璧に近く修理することができるという話だったが、あのままでは、しばらくは海を漂うことになっていたのは間違いない。
それほどの砲撃でありながら、船が沈むほどの被害が出なかったのは、まさに不幸中の幸いというほかないだろう。
その上、海の女神マウアウが、風を頼りに進むしかなくなった船を陸地まで運んでくれることになったのは幸運以外のなにものでもなかった。セツナたちは、マウアウの申し出に心から感謝するとともに、マウアウと戦闘を続けなくてよかったと心底想ったものだ。もし、交渉に踏み切らず、戦闘を続けていれば、その最中に神軍の砲撃があっただろうし、セツナは魔動船に気を取られながらマウアウと戦うことになっただろう。魔動船が損傷したからといって、敵となったマウアウが手を止めてくれるわけもない。
そういう意味でも、セツナは自分の選択が間違いではなかったことにほっとしながら、マウアウが話のわかる、人間にとっての善神であることに幸運を感じた。マウアウがマユラやアシュトラのようなわからず屋であれば、こうはならなかっただろう。
と、船首の像に腰を下ろす女神の背中を見るたびに想うのだ。
マウアウは、上半身が人間、下半身が巨大な軟体生物という姿をした女神だ。上半身は、並ぶもののいないほどの美貌を誇り、一糸まとわぬ肢体はため息が漏れるほどの完璧さを持っているのだが、下半身は、嫌悪感を抱かない人間がいないと確信をもっていえるほどに不気味で奇っ怪な姿をしていた。巨大な烏賊と蛸が融合したようなそれは、全身ぬめぬめとした光沢を放ち、琥珀状の突起物を生やし、無数の触手には吸盤があった。その触手が目に届かない海中でメリッサ・ノアを包み込み、海の上を牽引してくれているらしい。
マウアウがセツナたちに気を使ってくれているらしいことは、その一事だけでもよくわかろうというものだ。
マウアウが船上に見せているのは、人間が魅了されるほどに美しい上半身だけであり、醜悪な下半身はできるかぎり人間の視界に入らないよう、配慮してくれていた。そういった気遣いにセツナが感謝を述べると、女神は、当然のようにいって、微笑んだ。
メリッサ・ノアの船首には、精悍な顔つきの女の像が備え付けられている。どうやら、アデルハインとともに帝国海軍史に残る偉業を成し遂げた女傑であるメリッサ・ノアそのひとを表したものであるらしい。その像の上が、マウアウのお気に入りのようだった。女神は、魔動船をこの先の陸地まで牽引すると決めると、すぐさまその巨大な下半身でもって魔動船を包み込み、動かし始めると、上半身は船首に乗せたのだ。
マウアウは、気さくな神様だった。
セツナたちが話しかけると、大抵、応えてくれた。
神軍とは一体なにもので、なにを目的としているのかという疑問にも、知っている範囲で教えてくれている。結局、神軍がどういった組織なのか不明なままだったし、その目的も明らかではないものの、どうやらこの世界に生きるひとびとにとって仇なす存在であることは確かなようだ。メリッサ・ノアを意味もなく砲撃してきたことからもそう考えていいだろう。
《意味がなかったのかは、わからぬがな》
マウアウは、飛行船の砲撃をそのようにいった。
神軍にとって目障りだったから砲撃したのかもしれないし、ただ目についたからという理由からかもしれない、と。
いずれにせよ、神軍の飛行船は、北へ向かっていたことがわかっており、このままセツナたちを乗せた船が北に向かうとなれば、どこかで遭遇することもあるかもしれない。神軍は、なにやら世界各地に軍勢を派遣し、戦いを起こしているという話なのだ。たとえ、この先で出会わずとも、いつかセツナの敵として立ちはだかる可能性は決して低くはない。
そんなことを考えながら、セツナは、長い船旅の終わりを待ち焦がれている。
船の修理は、順調に進んでいるとのことだが、まだしばらくはかかるという。つまり、マウアウが船を牽引してくれなければ、それまでの間、風を頼りに海を泳ぎ続けなければならなかったということであり、その分、陸地への到着が遠のいたことだろう。たとえ修理が完了しても、陸地に辿り着くまではマウアウに頼ったほうが楽でいいのではないか、と思わないではない。
海神マウアウが牽引してくれる限り、メリッサ・ノアが海の生物に襲われることもなければ、津波に巻き込まれたり、海流に飲まれるといったこともないのだ。マウアウは、海流さえも平然と操り、メリッサ・ノアの航海をつつがないものとしていた。
船旅は、順調なのだ。
そしてそんなある日の朝、朝食を終えたセツナが気晴らしのため甲板に出て船首に向かうと、潮風に揺れるマウアウの長く青い髪がきらきらと輝いていた。思わず見とれる。船首の像に腰を下ろし、遥か前方を見遣る女神のうなじがこの上なく綺麗で、色っぽかった。
(御主人様)
レムに睨みつけられて、ぎくりとする。なにも悪いことはしていないし、問題などあろうはずもないのにだ。
ちなみに、だが、マウアウのおかげか、船が揺れることはほとんどなかった。波を切って進んでいるというのではないのだ。海神の力がメリッサ・ノアを包み込み、安全極まりない航海を約束してくれている。それもあって、セツナとレムは船酔いとは無縁の日々を送ることができていた。それまでは船酔いとの格闘の日々だったのだ。まるで天国と地獄の差だ、とはレムの弁。
船首に歩み寄ると、マウアウがこちらを振り向いた。女神は相変わらず一糸纏っておらず、あられもない格好だが、セツナたちがそのようなことをいったところで彼女には理解できないことだった。女神は、女神。人間ではないのだ。人間のような羞恥心はなく、素肌を晒したところでなんの問題もないと想っているのだろう。それに彼女は普段は海中で生活している女神だ。衣服などという余計なものを着ている必要がない。海水を吸い、体に纏わりつくだけのものは、邪魔にしかならないだろう。
しかし、見目麗しい美女が、堂々と乳房を晒している姿を見ると、セツナたちの価値観のほうが間違いなのではないかと思わされるのだが、すぐにそれこそ勘違いであると想い直す。マウアウが全裸でもものともしないのは、彼女が女神だからにほかならない。
ドラゴンのラグナが衣服を着ることに中々慣れず、ようやく慣れたあとも裸でいることのほうが好ましく考えていたのと同じだ。価値観が違うのだ。人間ではなく、人間の道徳、価値観を叩き込まれていないのだから当然といえる。
《セツナよ、また来たのか》
などといいながらも、マウアウは微笑みかけてくれる。美しい笑顔は、朝日を浴びてなおさら輝かしいものに見える。ともすれば意識を持って行かれそうになるほどにだ。実際、彼女が船首に我が物顔で座り始めるようになってからというもの、メリッサ・ノア船員の中からマウアウに魅了されるものが続出した。男女関係ない。マウアウの美貌は、男女の垣根なく虜にし、信者にしてしまう力があるのだ。もっとも、マウアウに魅了されたからといって大きな問題は起きていない。マウアウがなにも命じないからだろうし、マウアウにとってそのような即席の信者など価値がないからかもしれない。
「暇……だからな」
《ふふ……我も暇だ。ならば、しばし話し相手をしてくれるといい》
そういわれて、セツナはマウアウの後ろに腰を下ろした。
マウアウがメリッサ・ノアを牽引してくれる運びになってからというもの、彼女と海の景色を眺めながら話し合うのがセツナとレムの日課になった。
別段、なにか深い話をするわけでもない。
マウアウが興味を持った事柄について、ああでもないこうでもないと議論を交わすのが常だった。そこにたまにリグフォードや海軍士官が加わったりして、マウアウの周囲は常にひとで賑わっていた。マウアウは美しく、その上、気さくだった。なにより人間に対して理解があり、穏やかなのだ。また、海の神であるということが、海軍士官にとっては大きい事柄かもしれない。
海で生きる彼らにとって、海神の加護、祝福ほど欲するものはあるまい。
実際、マウアウの加護がなければセツナたちの船旅は順風満帆とはいえないものだったのはいうまでもない。
マウアウがこうしてメリッサ・ノアを牽引してくれなければ、目的地と定めた陸地は遥か彼方のままだっただろう。
そう、セツナがレムとともにマウアウと話し込んでいる最中、水平線に変化が訪れたのだ。
陸地が見えてきた。