第千八百七十五話 ファリア
「いかがでしたか、アレクセイ殿」
「わかりきっていることを聞くものではないな。筒抜けだっただろう」
アレクセイは苦い顔をしたのは、戦神の座を通りかかったときだった。戦宮の中心に位置する中庭には、七大天侍のうちの四名が集まっていたのだ。寒空の下、なにをしていたかというと、アレクセイが通りかかるのを待っていたに違いない。なぜならば、彼がシヴィル=ソードウィンによってファリアの元へ案内してもらったときには別室で話し合っていたからだ。アレクセイからファリアとの会話の内容を聞くべく、待ち受けていたのだ。
もっとも、アレクセイに内容を聞かずとも、ファリアが激怒したことは彼らにも伝わっているはずだ。戦宮は、隠し事をするには不向きな建物なのだ。小声ならばまだしも、あれだけの大声を発すれば、戦宮全体に響き渡ったに違いない。
ルウファが、アレクセイの心中を察したかのような表情で口を開く。
「随分、怒らせてしまいましたね。なにを仰ったんです?」
「なに、難民問題について、な」
「それは怒るでしょうな」
グロリア=オウレリアが納得顔でうなずいた。
「ファリア様がもっとも重要視している問題ですから」
「ファリア様だけではない。護山会議も、護峰侍団も、君らも、そうだろう」
「ですが、我々には発言権はないも同然」
「グロリア殿」
「失礼。しかし、事実でしょう。我々は戦女神の使徒に過ぎない」
シヴィルの注意に肩を竦めてみせたグロリアだったが、彼女の理知的で射抜くようなまなざしは変わらなかった。誰に対しても歯に衣着せぬ物言いが、グロリア=オウレリアのひととなりを示している。それでも彼女は立場をわきまえているため、主君たる戦女神に対しては無礼な物言いはしないといい、そのため立場を追われることはないというが、護山会議や護峰侍団に対しても嫌味や皮肉を平然と言い放つことから、嫌われがちなのもまた事実だ。戦女神の庇護下になければ、とっくに放逐されていてもおかしくはなかった。
「戦女神様の決定に従うのみ。それがなんであれ、です。例えば難民救済を命じられたならそれを疑うことなく遂行し、難民の排除を命じられれば、全力で事を進めましょう」
「師匠」
「ああ……喋りすぎたか」
「まあ、いい。君らが戦女神の使徒として、彼女を支えてくれていることには感謝しかないのだ。こればかりは、わたしではできないことだ」
「支える……などと。守護天使として、使徒として勤めを果たすことしかできないのが残念なところです」
そういって心苦しそうな表情をしたのは、シヴィル=ソードウィンだ。隣のカート=タリスマも深々と頷いてくれている。ファリアは、よい部下に恵まれたとアレクセイは思わざるをえない。皆、ファリアのことを想ってくれているのだ。大切に想い、故に彼女のことを支えてくれようとしている。それがアレクセイにとってどれほど心強く、嬉しいことなのか、血縁ですらない彼らにはわからないことだろう。
ファリアは、アレクセイにとってこの上なく大切な孫娘だ。本当ならば戦女神という重責を押し付けたりはしたくなかったし、伸び伸びと、あるがままに人生を歩ませてやりたかった。そのための人間宣言であったのだし、護山会議だったはずなのだが、それもこれも“大破壊”がすべてを返上してしまった。返上せざるを得なくなってしまった。
戦女神は、ファリアでなければならない――という考えが、リョハンに根付いている。それもそうだろう。最初の戦女神がファリアであり、その後継者として指名したのがファリアなのだ。先代戦女神に直接指名された彼女以外に後継者に相応しい人間などいるはずもなかった。
「いや、十分だ。十分だよ。ファリアが、あの子が君たちの前では素顔を見せているという話だけでも、十分過ぎる」
それはつまり、彼らの前では素の自分でいられるということなのだ。戦女神ではない、ファリア=アスラリアというひとりの人間として振る舞える時間があるというだけで、喜ぶべきことだった。四六時中、一切の休みなく戦女神であり続けなければならないとなれば、さすがのファリアも重責に押しつぶされてしまうだろう。そうならずに済んでいるのは、ファリアが彼ら七大天侍の前で本来の彼女に戻れる瞬間があり、息抜きができているからだ。
それが、アレクセイには、救いになる。
戦女神という、このリョハンにおいてもっとも重い役割を押し付けてしまったことはいまさらどうすることもできない。後悔しても遅すぎる。責任感の塊のような娘だ。一度引き受けた物事を途中で投げ出すようなことはすまい。潰れるまで、走り続けるだろう。そんな彼女の心が一瞬でも休まることができるだけでも、ほっとする。
「それは、わたしにはできないのだ。残念ながらな」
「そうですか? 先程の怒りっぷり、我々にも引き出せるものではありませんよ」
「うむ……?」
「それはつまるところ、ファリア様がアレクセイ殿に本音をぶつけられるということではありませんか?」
グロリアが予期せぬ事をいってきて、アレクセイは茫然とした。
「少なくとも、ほかのだれもいまのような怒りをぶつけられたことはないように記憶しています」
「まあ、そうですね。ファリア様、お優しいから」
「我々にも気を使われている」
ルウファやシヴィルのファリア評によって、彼女が普段どのように彼らと接しているのか、その一面がわかった。素の部分を見せながらも、気遣いを忘れないのがいかにもファリアらしい。
「ふむ……」
(だとすれば……いや……しかし……)
アレクセイは、七大天侍たちとの会話の中に光明を見出したような気がして、少しばかり高揚した。確かにファリアが戦女神となってからというもの、先程のように激怒したことは記憶になかった。護山会議の場においては、冷厳冷徹に振る舞い、表情を消している場合が多い。だれかを怒ることもなければ、詰るようなこともないのが常だ。それが逆に恐ろしいというのが議員たちの評価であり、ファリアが心の奥底でなにを考えているのかわからないことは、対立者への牽制ともなっていた。
しかしだからといって彼女が感情豊かではないかというと、そうではない。むしろ、感情表現の豊富なのがファリア=アスラリアという人間だったはずだ。そして、だからこそ会議の場、政治の場では仮面を纏ったような無表情になるのだ。
先程のアレクセイとの会話でも、そうだった。
それが一転して呼吸が荒くなるほどの怒りを買ったのは、もちろん、アレクセイの発言が彼女の目指す戦女神像を打ち砕くものだったからではあるのだろうが、それにしても度が過ぎていた。あれほどの怒りを見せるなど、並大抵のことではない。
相手がアレクセイだから、というグロリアの意見は、なるほど、と思えた。
祖父だから本心をぶつけることができたのではないか。
本音を。
心の叫びを。
わかっている。
わかっているのだ。
自分が追い詰められていることくらい、わかりすぎるくらいにわかっている。理解できないわけがない。
ここのところ、睡眠が浅くなっていた。
戦女神という役割を果たすためには、健康に気を遣い、体調も管理しなければならない。しっかりと睡眠を取り、食事をし、運動を行うこともまた、戦女神の職務を全うするために必要なことだ。それも理解しているし、その必要性も十全に把握している。それでも夜遅くまで仕事が長引くのは日常茶飯事だったし、翌日に仕事を繰り越したくないときも往々にしてあった。そうなると、夜更かしをせざるをえない。夜明けまでに仕事を終え、夜明けとともに目を覚ます。そんな日々を送れば、当然、健康に良くはなく、マリアがいた当時はよく注意されたものだ。
『戦女神様は、ご自身の健康管理を第一に考えなよ』
毎日のように小言を垂れてきては、耳元で囁くようにいう。
『でないと、せっかくの美人顔が台無しだ。セツナに合わせる顔がなくなるよ』
その一言を聞く度に奮起するのだが、すぐさま戦女神という重責が顔を覗かせる。そうなると、もう遅い。彼女は、戦女神の理想像を追求しなければならなくなる。
自分は、戦女神とは程遠い人間であることを認識している。
戦女神とは、偉大なる祖母ファリア=バルディッシュのような人間だけがなれるものであって、自分のようななにもかもが半端な人間には、到底なりきれないものだ。そんなことは、戦女神を引き受けたときからわかりきっていたし、だからこそ人一倍、いや、二倍も三倍も努力をしなければならないことも理解していた。そのために、戦女神の名に相応しい人間になるために、今日まで突き進んできたのだ。
だれにも文句はいわせない。だれにも、戦女神に相応しくないといわせないために、全力で駆け抜けてきた。
理想とする戦女神とはどのようなものなのか。
常にそれだけを考えてきた。余念など、あるはずもない。
それだけがいまのファリアのすべてで、そこに全力を尽くさなければ呼吸することもままならない。
戦女神ファリアの名は、立場は、それほどに重いものなのだ。
責任がある。
責務を果たさなければならない。
リョハンという山を支える柱でなければならない。
この天地を生きるひとびとに希望を与え、光明となって輝き続けなければならない。
自分にそんなことができるわけがない――などと考えている暇はない。一度引き受けた以上、その責任から逃れてはいけないのだ。果たさなければならない。休んでいる場合ではない。周りの人間は、安め、という。焦るな、と。だが、そういうわけにはいかないのだ。ファリアが理想とする戦女神を目指すためには、そんな時間があるはずもないのだ。
睡眠時間が削られていくのも、必然だった。それを改善する術もない。マリアがいれば、強引にでも眠らせようとしてくれたのかもしれないが、エミルにそこまで期待していいわけがない。エミルはエミルで多忙なのだ。
(だったらどうしろっていうのよ)
ファリアは、自分ひとりになった部屋で、胸に手を当てた。
難民問題は、どうすればよかったというのか。
護山会議のいうように見捨てればよかったというのか。リョハンのため、リョハンに生きる市民のためだけを考えれば、それが最善だったとでもいうのか。確かにそれは一理あるだろう。難民を受け入れるということは、それだけ資源を消費するということであり、守護神の負担が増えるということでもある。特に難民はリョハン人の忌み嫌うヴァシュタラ教徒だった。リョハン市民と衝突する可能性も少なくはない。難民の受け入れは様々な問題を孕んでいた。
だが、だからといって目の前の困っているひとを見捨てることは、戦女神として正しいことなのか。いや、それ以前に人間として、正しい行いといえるのか。三万人に及ぶ難民を見捨てたあと、自分は胸を張って立っていられるのか。戦女神という役割をし続けていられるのか。
いられるわけがない。
自信が揺らぎ、立っていることも覚束なくなるだろう。
ましてや、胸を張ってなどいられるわけもない。
だからこそ彼女は、問題を孕んでいるとわかっていても、難民に手を差し伸べるほかなかったのだし、いまさら切り捨てるなどという暴挙に出られるはずもなかった。それがたとえ、リョハンにとって最善の行いであるとしても、到底許せることではない。
とはいえ、そのために護峰侍団隊士に死傷者が出ているという事実もまた、看過できない。
故に彼女は、懊悩の中にいる。
自分が正しいことをしていると信じ込むには、様々なことが起こりすぎている。
(セツナ……)
つい、彼の名を呼んで、はっとする。
彼がいれば。
彼さえいれば、と。
だが、そんなことを願ったところでなんの意味もないことくらい、彼女もわかっている。
わかっているからこそ、願わざるをえないのだということも。
彼が側にいてくれれば、彼女はいくらでも飛べるのだ。