第千八百七十四話 戦女神
ファリア=バルディッシュが戦女神と呼ばれるようになったのは、いうまでもなくヴァシュタリアからの脱却をはかった独立戦争での輝かしい活躍によるものだ。
まさに闘争を司る女神の如き戦いぶりは、ともにリョハンの自由を勝ち取るために戦った多くのものたちを奮起させ、最後まで戦い抜く勇気と力を与えた。その気高く美しい姿は、同僚たちの目にさえ光り輝いて見えたといい、戦後、彼女が戦女神と呼ばれ始めたことに異論を唱えるものはいなかった。
また、なにもリョハンの人間だけが彼女をして戦女神と呼んだわけではない。敵対し、度重なる侵攻の果てにリョハンの攻略を諦めたヴァシュタリア軍の兵卒や将校の間ですら、先陣を切り、だれよりも多くの敵を倒す彼女を戦場に舞う死の女神と畏れるようになっていたという。リョハン内で戦女神の呼び名が使われ始めると、ヴァシュタリアの公文書でも戦女神の呼称が使用されるようになったほどだ。
そして、戦女神はただ敵を倒すだけがその評価に繋がったわけではないということも、知っておかなければならない。
アズマリア=アルテマックスの高弟たちに与えられた大召喚師という称号に恥じぬ実力に加え、数多くの弟子を抱え、優秀な武装召喚師として送り出してきた積み上げてきたという実績、またリョハンのため、人々のためにと尽力してきた歴史があるのだ。
その上、戦女神は戦場においては修羅さながらに敵を薙ぎ倒し、悉く打ち払ってきたが、ひとたび戦いを終えれば、慈愛に満ちた女神へと様変わりした。そのヴァシュタリアの大地の如く広い慈悲は、味方のみならず、敵にも注がれた。
つまり、戦いに敗れ、リョハン軍にとらわれの身となったヴァシュタリア軍将兵に対しても、分け隔てのない慈愛でもって接し、敵である彼らを痛めつけるようなことは決して許さなかった。どれだけリョハンの人々の感情が、怒りや憎しみとなって吹き荒れたとしても、だ。
無論、彼女がリョハンのひとびとの感情を理解していなかったわけではない。むしろ、彼女はヴァシュタリアを徹底的に嫌っていた。それでもなお、戦いを終えれば矛を収め、冷静に話し合うべきであり、傷ついたものには慈愛の手を差し伸べるべきだという考えの持ち主だった。
つまるところ、彼女は理想主義者であり、夢想論者だったのだ。
彼女の慈愛の手は、多くの場合、ヴァシュタリア軍将兵に受け入れられはしなかった。ヴァシュタラの信徒たちにしてみれば、ヴァシュタラの教えに背く異端者であるリョハンの人間の手を取るなど、死よりも恥ずべき行いだという認識があったからだろう。
それでも彼女は根気よく話し合い続けたが、結局、戦争が終わるまでに分かり合えたといえるヴァシュタラ信徒は数えるほどしかいなかったのが現実だ。ヴァシュタラの教えこそが最上のものであると信じて疑わないものたちが異端者の声に耳を傾けるわけもなかったのだ。だからといって彼女はそれですべてを諦めたわけではなかったし、独立戦争によるヴァシュタリアとの協定締結が契機になると信じて疑わなかった。もっとも、その彼女の穢れなき純粋な願いが叶うことはなく、リョハンとヴァシュタリアの溝が埋まることはなかったが。
そんなことを思い出すのは、目の前にいる孫娘がいままさに戦女神ファリア=バルディッシュの理想を追求し、体現しようとしているのではないかという考えが過ぎっているからだろう。
アレクセイは、若き日の妻とよく似た孫娘の目を見つめ返しながら、口を開く。
「おまえが先代戦女神を理想とし、目指そうとしているのはわかる。彼女だけが、このリョハンの長い歴史上、ただひとり戦女神と呼ばれたのだからな。彼女以外のだれも、戦女神の目標にはなりえない」
歴史上、リョハンにも偉人と呼ばれるものたちがいる。中には、ヴァシュタラ教において聖人として列せられていたほどの人物もいたし、ファリア=バルディッシュとともにアズマリア=アルテマックスより直接武装召喚術を学んだ高弟たちは、大召喚師としてファリア=バルディッシュとともに偉大な足跡をリョハンに残している。それら偉人は例外なく素晴らしい人物であり、リョハンの歴史においても重要な役割を担っているのだが、戦女神と比べるとどうしようもなく見劣りしてしまいがちだ。
戦女神は、数十年の長きに渡ってリョハンの中心にあり、支柱としてこの山を支えてきたのだ。まさにリョハンという天地を支える大いなる柱であり、女神と呼ぶに相応しい存在だった。
故に、“大破壊”に伴う混乱を収め、人心を宥めるべく、人間宣言を撤回し、次代の戦女神としてファリア=アスラリアの降臨が待ち望まれた。事実、ファリアが戦女神となったことでリョハンの混乱はたちまち収束し、人心は落ち着きを取り戻している。やはり、戦女神の出現と長い歴史は、リョハンという山の根幹そのものを大きく変えてしまったのだ。
その変化を歪なものであると断じ、元に戻すべく人間宣言を行ったのが先代戦女神ファリア=バルディッシュだったが、彼女もこの有事には致し方がないと諦めてくれるだろう。もし、彼女が“大破壊”後も存命であれば、率先してみずから戦女神を名乗り、混乱の収束に尽力したのは疑いようもなかった。
「だが、おまえは、ファリア=バルディッシュではない。先代戦女神ではないのだ」
「だから、わたしには戦女神にはなれない、と、そうおっしゃりたいのですか? お祖父様」
「違う。そうではない。おまえは、立派に戦女神をやっている。リョハンに生きるだれもがおまえを現代の戦女神と認め、敬っているのだ。わたしも、祖父として誇らしく想っている」
アレクセイが本心を伝えると、ファリアもさすがに驚いたような顔をした。彼女としては、自分が否定されるものだと覚悟していたに違いない。アレクセイは、ファリアに苦手意識を持たれていることを知っている。子供の頃からよく叱ったものだからだ。ただそれもファリアに非が有ってことであり、非がなければ怒るわけもない。そして、戦女神として尽力する彼女を否定することなど、ありえない。
「それはおまえが戦女神として日々努力をし、ひとびとのために役立とうと、支えになろうと力を尽くしているからだ。皆、見ている。七大天侍も、護山会議も、護峰侍団も、市民たちですら、おまえが寝る間も惜しんでリョハンのために働いていることは知っているのだ」
「……それしか、ないもの」
「なに……?」
「知っているのよ、お祖父様」
ファリアは、思い詰めたような顔をしていた。その瞳の奥に揺れる感情がなにを意味するのか、アレクセイには掴みきれない。アレクセイは、自分がいかに孫娘のことを理解していないのか、愕然とする想いだった。
「わたしには戦女神の器なんてないことくらい、理解しているわ。この二年あまりで身に沁みてわかったのよ。わたしは、戦女神になんてなれない。なれっこないのよ。お祖母様のようには」
ファリアの思いの丈がアレクセイの耳に刺さり、心を抉る。
「でも、それでも、リョハンを纏めるためにはわたしが戦女神をやるしかない。それがわかっているから、わたしは戦女神になった。二代目戦女神として、その名に恥じない振る舞いをしてきたつもりだし、足りないものを補うために力を尽くしてきたつもりよ。そうしなければ、戦女神としてこの山を支えることなんてできるわけないもの」
「違う。違うぞ、ファリア」
アレクセイは、激しく首を横に振った。
「おまえは、立派に戦女神をやれている。それは、戦女神を側で見続けてきたわたしが保証する。戦女神としてのおまえは、若き日のファリアよりも余程しっかりとしている。申し分ないくらいにな」
「お祖父様……」
「だからこそ、だ。わたしはいまのおまえが焦り過ぎではないか、と想うのだ」
責任感の強すぎる娘であることは、知っていた。子供の頃からそうだ。自分につけられた名前への責任感は、ときに彼女の言動を萎縮させ、成長を著しく阻んだものだ。そこを乗り越えると、今度は責任感の強さが成長を加速させたのだ、と、彼女の父や母、祖母が口を揃えた。身内の贔屓目、という声もあるだろうが、武装召喚師としては厳しい審美眼を持つ三人の言だ。嘘ではなかったのだろう。
そして、その責任感は頑固さ、融通の効かなさとなって彼女の人生を拘束した。裏切りの魔人アズマリア=アルテマックス追討任務は、ファリアの人生を大きく狂わせることとなったのだ。彼女は、護山会議の命令さえも無視して、その使命を全うしようとしたという。それは父を殺し、母を奪った復讐もあったのだろうが、強すぎる責任感の持ち主であることも大きく影響していたに違いない。
そんな彼女が戦女神を受け継ぎ、のうのうと日々を過ごすわけがなかった。
「おまえは、戦女神としての責任を果たすだけでなく、戦女神としての理想を追求しすぎているのではないか。だから、おまえは護山会議の意見にも耳を貸さず、難民救済に踏み切った――」
「だったら、どうすればよかったというのですか」
ファリアが、叫ぶようにいった。
「目の前に助けを求めるひとたちがいるというのに、自分の身可愛さに見捨てろというのですか? 切り捨てろ、と。そんなことができるわけないじゃないですか」
「それがリョハンのためだとしても、か」
「リョハンのためならば、戦女神は困っているひとを見殺しにしますか? お祖母様は……!」
ファリアが言葉を喉につまらせたのは、思いの強さのせいだろう。
彼女のいうことも、わからないではない。
ファリア=バルディッシュが戦女神として健在であれば、同じことをしただろう。同じように神軍の敗残兵を難民として救済しただろうし、そのためにリョハンの食料庫を開いただろう。挙句、同じような結果になったに違いない。ただ、周囲の受ける印象は、異なるものとなるはずだ。先代戦女神は、そのための根回しや下準備を怠らないだろうからだ。難民救済に渋い顔をする護山会議の議員たちを説得して回ったはずであり、市民に事情を説明し、協力を仰いだだろう。実績ある先代戦女神の要請ならば、市民も渋々ながらも協力を惜しまず、結果として状況は大きく変わっただろうことは想像に難くない。
もっとも、必ずしもそのとおりになった、とはいわない。いわないが、二代目戦女神が悪手ばかりを取ってきたというのは否定できない事実だった。それらは、アレクセイら戦女神派の議員の力ではどうしようもなかった。そういった背景から、アレクセイは己の力不足を痛感し、だから今度こそ孫娘の力になろうと意気込んでいるのだ。
「わたしは、そんなの納得できません」
「そのために多くの負傷者がでている。護峰侍団の隊士の中にも、な」
幸い、麓特区は、リョハンのみっつの居住区とは隔絶されているため、難民による暴動が深刻化したとしても市民に害が及ぶことはないだろう。が、そういう問題では、ない。このまま難民問題の解決が先延ばしにされれば、難民と護峰侍団、双方の負傷者が増加する一方になる。護峰侍団は、暴動を未然に防ぐため、という名目で麓特区の警備を強め、難民の動向を監視すると息巻いているが、そんなことをすれば難民のリョハン政府への不信、不満の増大に拍車をかけることになるだろう。そうして、暴動がさらに増え、激化し、負傷者が出る――悪循環が始まるのだ。
そうなってからでは、遅い。
「おまえは、戦女神としてリョハンのことだけを考えるべきだ。難民のことは、我々に、護山会議に任せておけばいい。なにも考えるな。なにも見ていないし、聞いていないのだ」
「お祖父様……!?」
「リョハンには、難民問題などなかったのだ」
「なにを……馬鹿げたことを仰らないでください!」
「ファリア……」
アレクセイは、ファリアの凄まじいばかりの剣幕に立ち尽くした。絶叫といってよかった。アレクセイの意見を隔絶する叫び。胸に響き、思考が停止する。その間、ファリアは荒い呼吸を整えていた。そして、ゆっくりと顔を上げたときには、いつもの無表情に戻っている。市民に見せる慈愛に満ちた女神としての表情ではなく、為政者としての戦女神の顔。
「護山会議員アレクセウ=バルディッシュ。戦女神ファリア=アスラリアとして命じます。難民問題への口出しは、今後一切、禁じます」
「ファリア……」
「よろしいですね。これは、戦女神の勅命です。受け入れられないのであれば、護山会議員の職を辞して頂くことになります」
そういわれれば、もはやアレクセイには反論の余地はない。
戦女神は、お飾りの存在ではない。リョハンの支柱であると同時に頂点に君臨する存在なのだ。その権力を駆使すれば、護山会議員のひとりやふたり、辞職に追い込むことくらい容易い。議長モルドア=フェイブリルを辞めさせるとなると簡単なことではないが、戦女神派議員の筆頭であるアレクセイの辞職となれば、反対するもののほうが少数派となる。反対したところで、戦女神の決定に逆らえるわけもないが。
「……勅命、謹んでお受けいたします」
「よろしい。では、下がりなさい」
「はっ……失礼致しました」
深々と辞儀をして、背を向ける。ファリアの冷ややかな視線が背中に突き刺さっていることを理解しながら、彼は背後に向かって声をかけた。
「ファリア。これだけは覚えておいて欲しい」
本当に伝えたかったのは、ただ一言だ。
「おまえは立派に戦女神だよ」
だから、焦らず、堂々としていればいい――そういいたかっただけなのに、どうして、こうなってしまったのか。
アレクセイは、己の要領の悪さに途方に暮れた。