第千八百六十八話 難民問題(二)
難民の住居は、リョフ山内ではなく、リョフ山麓の平地に作られることとなった。
後に麓特区と命名されることとなる難民居住区の成立には、多少の紆余曲折があったものの、それは割愛する。どうでもいいことだ。
問題があるとすれば、麓特区を作ったがために、リョハンの守護神に多大な迷惑をかけることになったということだろう。
リョハンには神がふたり、いる。
ひとりは、現人神――つまり生粋の人間であるところの戦女神ファリア=アスラリアだ。彼女は、リョハンの人心を纏めるために必要不可欠な存在ではあったが、彼女だけではリョハンは平穏を享受することは不可能だっただろう。
もう一柱の守護神マリクの存在があったればこそ、リョハンは、この混沌とした終末の世界で安寧を得ることができているのだ。
元々、四大天侍のひとり、武装召喚師マリク=マジクとして知られた少年が実は神であり、その本来の姿を明らかにしたのは、“大破壊”より前のことだ。最終戦争と呼ばれる戦いが起こるよりも少し前、先代戦女神ファリア=バルディッシュにリョハンの未来を託された彼は、人間マリク=マジクとしての在り様を棄て、本来の神として顕現した。以来、リョハンは彼の庇護下に入っている。
リョハンが“大破壊”の影響をもろに受けずに済んだのは、いうまでもなく守護神マリクの庇護のおかげであり、彼がいなければ、リョハンはもっと悲惨な目に遭っていただろうことは想像に難くない。ばらばらに引き裂かれた大陸そのままに打ち砕かれていたとしても、なんらおかしくはないのだ。何千の武装召喚師が力を合わせたところで、世界を崩壊させるほどの力を防げるはずもない。
そんなマリク神に負担を強いたというのは、難民居住区をリョフ山の麓に作るため、リョハンを包み込む七霊守護陣の再構築を要したからだ。七霊守護陣とは、その名の通り、マリク神の眷属である七霊を用いた守護結界であり、リョフ山を包み込むように張り巡らされていた。麓特区を守護結界内に収めるためには、結界を構築し直さなければならず、マリクの手をわずらわせることとなった。
『リョハンのひとたち以外まで守ろうだなんて、ファリアも殊勝なことだね』
マリクの皮肉とも諦観とも取れない一言には、アレクセイは返す言葉もなかった。
守護結界の再構築が完了すると、麓特区の敷地内に無数の天幕、土や岩、木でできた仮設住宅がつぎつぎと建設された。建設には、リョハンが誇る武装召喚師たちが投入され、夜を徹した作業が続いた。急がなければならなかった。三万人に及ぶ難民を一日でも早く収容しなければ、ならない。幸い、神軍の戦力として投入されたものたちだ。女子供は含まれておらず、足腰の弱い老人もいなかった。難民たちも積極的に麓特区の建設に協力し、麓特区は半月ほどで形になった。
もちろん、難民たちが雨露を凌げる住居を急いで用意するための工事であり、完璧な居住区とはいえなかったが、難民たちはだれひとりとして不満をもらさなかった。リョハンが自分たちを見捨てず、受け入れてくれた上、居住区まで用意してくれたことに感謝し、感激するものが後を絶たなかった。そして、難民救済に尽力したファリアの名声はいやまし、人望は高まる一方だった。
自分たちを捨て駒として見捨てたヴァシュタラではなく、戦女神ファリアこそが本当の神である――などといい、新たにファリア信仰を始めるものまで現れる始末。
護山会議を始め、麓特区の成立に実際に動いたものたちは、面白くない。
もっとも、ファリアも指示を下しただけではない。みずからも動き回り、難色を示すマリクを説得したのも彼女自身だったし、その強大な召喚武装の力でもって麓特区の完成を早めたのも、彼女だ。なにもせずふんぞり返っているだけでは、さすがの難民たちも支持しようがないものだろう。
ともすると、ファリアは、護山会議の議員以上に精力的に働いているのではないか。
(贔屓目……だろうな)
アレクセイは、自分以外だれもいなくなった会議場で、天を仰いだ。アレクセイは、孫娘ファリアを祖父として心の底から愛していたし、だからこそ、自分の中の彼女の評価がほかよりも甘いということを認めている。認めた上で、ファリアは十二分に責務を果たしていると想うし、まだまだ足りないところもあると考えるのだ。なにごとも経験だ。経験を積み、成功と失敗を繰り返しながら、前に進むしかない。もちろん、彼女の立場上、許される失敗の度合いというのは、通常人のそれとは大きく違ってくるが、これも経験を重ねる以外にはないのかもしれない。
周りに彼女を諌めることのできる人間がいないのも、問題だろう。
いや、違う。
諌めたところでどうしようもないのだ。
彼女は、いつからかとてつもなく頑固で融通の効かない思考の持ち主になってしまった。戦女神という役割への限りなく強い責任感や周囲からの期待、圧力など様々な要因が積み重なり、そうなってしまったのだろうことは、想像に難くない。
難民問題は、麓特区の成立によって解決したわけではない。むしろ、そこからが問題だったのだ。それだけで済んでいれば、議題に度々上がり、定例会議を深刻なものになったりはしない。
衣食住のうち、住は解決した。衣も、なんとかなった。だが、食だけは困難を極めた。元々、“大破壊”以降のリョハンの食糧事情というのは、必ずしも芳しいものではない。
リョフ山の貯蔵庫に蓄えた食料とリョハン市内、周辺地域で取れる食物が、リョハン市民の生活を支える食料となる。それでも、リョハン市民の腹を満たすだけならばなんの問題はない。この混迷の時代においても安定的に食料を確保できるというのは、重要な事だ。リョハンが安定している要因のひとつでもある。
しかし、三万人に及ぶ難民のために食物を分け与えなければならないとなると、話は別だ。
リョハン市民の食料を確保した上で、難民の食事を考えなければならないのだ。護山会議は散々頭を悩せた上で、食料庫の解放を決断した。これまで固く閉ざされてきた食料庫の解放は、リョハンにとって最終手段というべきものだったが、そうでもしなければ難民を餓死させることになりかねず、さすがにそれはできないと判断した。
ただ、それでも食料庫の貯蔵量を考えれば、常に難民の腹を満たすことなどできるわけもなかった。食事は配給制となり、それも決して多いものではない。少しでも飢えを凌ぐことができればいい、という程度のものであり、なにも食べないよりは遥かにましではあるものの、そこに不満を持つ難民が現れないはずもなかったのだ。
当初リョハンに感謝していた難民たちも、やがて不平不満を口にするようになり、そういった声は日に日に大きくなっていった。
護山会議は、そういった反応が出るのは見越していたものの、だからといってこれ以上の食料を配給することはできないという考えを変えることはなかった。不満がどれだけ増大しようと、そこを変えれば、リョハンそのものが崩壊の憂き目を見ることになる。食料が失われれば、リョハン市民まで飢えることになるのだ。それだけは、できない。
だが、麓特区において難民たちがリョハン政府に不満を訴えるべく行動を起こし始めると、看過できなくなっていく。麓特区に於ける訴えは日に日に大きくなり、ついには難民居住区を席巻するほどの騒ぎとなると、示威運動へと発展し、警備に当たっていた護峰侍団の部隊と衝突するのも時間の問題だった。
実際、示威運動を行う難民たちを諌めるべく現場を訪れた護峰侍団の部隊は、難民たちから攻撃を受け、反撃せざるを得ない状況に陥っている。
護峰侍団の反撃をリョハン政府の意思と受け取ったものたちによる暴動は、それ以降、度々麓特区を騒がせ、そのたびに護峰侍団と衝突、多数の逮捕者、負傷者を出してきている。
先程の定例会議で議題に上がった暴動事件も、そのひとつであり、これまでの暴動の中で最大のものだった。
モルドアとヴィステンダールは、この事件を契機としてファリアに考え方を改めて貰おうと考えたのだろう。故にモルドアはヴィステンダールに意見を問い、ヴィステンダールは、市民の反応を恐れることなくファリアを追求した。ファリアから返ってきたのは、戦女神としての正論であり、彼らは返す言葉もなかったようだが。
(良くない兆候だな)
会議場を後にしたアレクセイは、空中都の北側へと足を向けた。
このままでは、戦女神と護山会議、護峰侍団の関係がますます悪化するだけだ。そして、そんな状況下で暴動が起きれば、どうなるか。理解できないファリアではあるまい。
彼は、ファリアを諌めるべく、戦宮に向かっていた。